自己理解により導かれる
あらゆる悲惨な道が強制収容所と死とへ続いていた――
人間は到る所で運命と対決せしめられるのであり、単なる苦悩の状態から内的な業績をつくりだすかどうかという決断の前に置かれるのである。V・E・フランクル 夜の霧(みすず書房) より
忘れかけた時代の事件を振り返っていた。90年代。宗教というものが面白おかしく受け入れられようとして、世界的に見ても最悪なテロ事件が起きた。私はその時はこの世界に対する構造も知識もないままにテレビを見ていたのを覚えている。ブラウン管のガチガチとスイッチを回しチャンネルを変えるテレビにはたまにノイズが入る。子どもたちの迷惑な団地を使った鬼ごっこで大人から怒られる。私も例に漏れずムカつく子供だったのだ。だから、事件についても当時の資料を振り返えらなければほとんど知らないようなものだ。
子供たちはそれを遊びに使い、適当にさびれた建物をサティアンだの、あのラーメン屋は信者だのといった噂に呑み込まれる。当事者ではないから、それらは日々の話題と遊びに用いられていた。目の前に現れなければそれらはないのと同じだ。当時の私はそのように生きることが出来た。子どもは、目の前の概念を遊びに変えていく。大人であっても、仕事をゲームのように捉えて組み立てている。遊びは生き抜くための訓練である。
宗教に対する嫌悪感はこの出来事が大きく影響している。しかし、世界経済が落ち込み様々な事件が起きている今、私達は何を信じて行けばいいのかが分からなくなっている。何か一つを信ずるのが良い筈はなく、沢山の情報を見て、その中から正しさを見付けようとする行為の繰り返ししかない。私達を導くのは、狭き門である。例えば、餃子屋を営業停止に追い込むきっかけを作ったインフルエンサーか、それらを信望する哀れな私達か、テレビか、所属する組織の上位者か、死んだ神か、輪廻転生か、科学か、情報発信するお饅頭劇か、イデオロギーか、私達は何を信じたとしても迷う。人生に確信など存在しないから、それは全て個人の暮色騒然とした世界観と、その蒙昧からしか生まれないのだ。
そうして残っているのが「Aleph」と「ひかりの輪」だ。
特に詳細は述べないが、前者については当時の事件を知らない若者が入信したりしているのが以前取り上げられたのを記憶している。こちらは宗教色が強く、考え方は昔からさほど変わっていないように見えた。後者はそういった気はなく、youtube上では仏教の話や生き辛さについての話をしているのを見ることが出来る。
果たして、カルト的思想は撲滅されたのだろうか?
宗教が悪だとは私は思わない。それによって皆が他人に少しだけ優しくなれる社会となるのであればそれでいいと思う。勿論、利用しようとする者、悪意ある試みを持つもの達には気を付けなければならない。人間全てを性善説で語るなど到底在り得ないことだ。子供は純粋だから、と性の様々なリアリティから隠そうとする大人たちは自身がそうでなかったから、ただただ理想を押し付けようとする。
動物だから、動物でない者に憧れたんだ。
モンキーセンターの投稿が蔑視だったという蒙昧もそこから生まれる。若い人に向けて来て貰えるような投稿をしたかったんだろう。何がいけないのか、世間のノイズが拡大を始める。ヒステリックな叫びが木霊する。言葉だけだから、悪意があるかを判断しにくいから、容易い炎上が生じる。寛容さの欠片もない発言と私は考える。
タイツは狙う客層とは違う広告を打ったから失敗で、あれで主な客層である女性に響くかと言われればあまりそうは見えない。サブカル感があるもので、メインストリームでない所に訴えている。GOが出た理由が是非とも知りたい。あれが性的搾取というのであれば、私達はイスラム教徒にでもなるしかないだろう。体を見せなければいい、私達全員が全く同じ黒いローブをまとって生活する。1984に出て来たカブトムシ達。
そもそも人間は性的である。そもそもこの地球上の生物が全て性的である。存在しているだけで性的なのだから、それらについてとやかく言うのは間違っている。否定ではなく寛容が必要である。寛容は過剰ではない。
ところで、性的搾取とは何か? 国連は下記のように定義している。
・性的搾取(Sexual exploitation): 性的な目的での、相手の脆弱性や力関係、信頼関係に基づく地位を濫用する行為あるいはその試み。他人を性的に搾取することによる金銭的、社会的、政治的な利得行為も含むがそれに限られない。
相手に付け込んで性的な目的を要求すること、それによる利得行為。短くすればこうなるが、ここに必要となるのは「相手」と「性的な目的」だ。
相手は生身の人間以外にない。創作物の存在はここでは考慮しない。
性的な目的はセックス、自涜、性的興奮を楽しむ、といったものが主となるが、この二つが掛け合わされた時に起きる強要と利得行為が問題となる。
タイツの宣伝で使われた絵は誰が相手なのだろう。女性的な魅力を出そうとしてああいった絵になるのと、目的が違っていると思うが、それが搾取の側面を持つとはどうにも思えない。それらを見た人間がそれを不快に思うこと、それを想像して怖気がするといった個人的な妄想が搾取なのだ、そうやって全てを外側に配置していけば安心な世の中が生まれるかといえば、ただただ窮屈な世界が目の前に広がっている。
格差を是正したいのにより一層格差が広まる。安寧は訪れず、ずっと怒り続ける人だけが社会に残る。
珍しく若い人が来た、もっとそういった新しい人にも興味を持ってもらいたい。というのを今の客層も鑑みて言ったように見える。だがこれも個人的蒙昧である。
そんなのはどうでもいいから、感情的に不快だからやめてください。
なんとも不寛容な社会と成り果てたものだ。私はその中に存在する透明である。
暗い所からやってきて、暗い所へかえってゆくだけ。
すべては虚しさを内包している。飲み会で騒いでいるあの瞬間、誰かに叱責されている最中、自涜の始まりから終わりまで、私達が生きている故に、その不連続な意識と断絶された世界が、全ての知覚を虚しいものへと変えていってしまう。お前は幸福な苦悩を抱く人間だ。他者との対比によればそれは太宰的苦悩に近いものだろう。単なる孤独は不幸ではない。何もしなくなってしまい、ヘタっていく思考がいけないのだ。
まず知らなければならないのは、人間がどのような生き物であるか。私達が進化してきたこの歴史を知らなければならない。浅薄な知識ではあるが、それらを持ち私は私を理解しなければならないし、世界と世界観の接続はそのようにして拡充されるのだ。
類人猿から特化したのは言語による情報伝達の効率化、概念を小さな情報で持っておけるようになったこと、それを使って世界観と世界の接続を増やしたことによって、道具が生まれ、定住が出来るよう農耕が始まった。また言語により私達は社会性を画一的な虫の形態ではなくAdditionalな形で成し得る。
そうして人間はこのように広まり、様々な殺戮や非道が積み重なって今の社会がある。衛生観念がなかったから病気に苦しむ。手洗いの必要性を最初に訴えたとされる人の忠告を聞くものはほとんどなかった。しかし今ではその必要性を理解しない者はほとんどいないだろう。
言語、言葉による蓄積が社会を良くしているのは事実だ。
また反対に、それらが力を持ちすぎて氾濫し、悪い所も見えて来た。
だからこれらはどちらかの方向へ歩を進めるだろうから、今はやきもきしてぐちゃぐちゃであろうと、時間が決めてくれるだろう。必要なのは、自身の意見を提示することだけなのだ。
民主主義は、何も生み出さないでじっとしていることと、破壊的に転覆することの間に通じる、狭い、山の背のような道を、用心深くたどらねばならない。
民間防衛スイス編 原書房より
今世界で起きている様々な問題はこの用心深さが足りていない様に感じられる。どんな物事も性急に流れ始め、極端な方向へと突っ走る力の波が存在している。この決断の中で、唯一把持出来るものがあるとするならば、それは自己の世界観だけである。私の太陽は私を焼く。苦痛と苦悩を私の足から燃え上がらせる。
辛い中でも他者に少しでも優しく出来るよう、私は私を苦痛と苦悩の最中に置かなければならない。誰かが傍にいるわけではないのだ。誰かが私を救うわけでもないのだ。
どのように生きた所で、
私は、この愚かな生を全うしなければならない。
どんなに死を願い、殺してくれと叫ぼうとも、誰かの囁き声が聞こえたとしても、駄目な人間だと社会から捨てられてしまっても、この惨めさと苦痛に喘ぐこの私の苦悩からは離れられないのだから、それを持ってなんとか生きられるよう、思考をし、瞑想をし、積み上がるものか、腐り落ちるものか、そのどちらもかを臨終の最中まで繰り返すしかないのだ。
弱さの証明は
他者への不寛容である。
他者を切り捨てることこそ、私達の弱さである。
常に弱肉強食だと、ここで良さそうな椅子に座らなければならない。そうして弱者を切り捨てるのが正しい姿なのだ。私達は努力をし、ふるいに掛けられ、より強くあらねばならない。それこそが生き物なのだから。
夏に草が伸びて見えなくなった川が冬には何もなくなる。干からびかけた蜘蛛の巣の残骸が手すりを揺らし、かさかさと優しさを失った草木が地面を擦った。
有機物があれば無数に増殖する昆虫、伸び続ける草木、これらは強い生存競争の只中にある。人間のように余暇など存在しない。ただ生存し産み増やすことだけのシンプルな構造の世界観だけを持つ。そのような存在であれば悩みもない。ただ「生」と「死」だけがある単純な行動が占めている。
その中に置かれれば人間は脆く儚い。道具も持たず、その中で生存することは難しい。だからサバイバル番組は人気があるし、私達はその中にいる人間に強さを見る。鹿の解体作業と命を奪う行為の中に人間の弱さを見る。
人間の弱さは他者を切り捨てることに他ならない。自身の居場所が脅かされるからとオキシトシンが多量に分泌され、私達は外側を排除していった。外縁に存在する巫女が生贄になるのもそのような理由である。強い生存競争の只中にある「生」と「死」の単純さを以てそれを繰り返すものたちに比べ、弱さがそこに現れる。
それは動物らしさであり、それは人間らしさでもある。
だから私達は人を殺しても、泣いたり笑ったりできる。それを忘れて生きられる。生きて死ぬ、それ以外の意味は生き物にないから、それ以外は些末な余暇として全てを繰り込むことが可能だから。人間の弱さはこの社会によって付け込まれた。
さも正しげに私達は他者の排除を望む。フランスでのアジア人差別、暴力行為然り、トランプを支持すれば暴力を振るわれる。こうした行為の数々が弱さとなって表れているのが今の社会である。そもそも、人間はそこから動けないのだろう。血と暴力が占めていた時代から、血と金が占める時代へ。在り方は変わっちゃいない。
私達は殴りつける拳を資本に変えただけの話だ。それがやり方としてそれなりに回っているから、弱者ですら生存を許せるから、このような社会が現れた。
私達は弱いが、システムはそれをある程度カバーする為にある。
弱者を淘汰すれば、その次にやって来るのは絶滅である。
ただし、全ての人間は弱者である。強い人間など、一人も存在しない。だから、神が望まれた、だから、何かを信望し、それが敗れればまた他の何かを信望する。太陽以外にそれはないのだが、人の中で人が巡り、その中で消え去る私達は弱者である。強いと考える人間も、権力者も、明日死を待つ処刑人も、誰もが等しく弱く、太陽に焼かれるべき存在である。
この手垢のついた思考は幾度となく繰り返された。
私が在ろうがなかろうが、この思考は幾度となく繰り返される。
それこそが弱さの証明であり、私達がそこから抜け出すことはないことを示してくれる。だから「生」と「死」の循環における「死」は救いなのだ。この弱さを抱え、矮小な努力を積み重ねて斃れる。この生の競争を意識せず、蒙昧に世界を信ずればこうした文章は唾棄されるだろうが、そうした過剰適応の世界観に何の魅力もない。それを見るのは草木の世界観、蜘蛛などと同じ目線で語ることになる。(ああ! それは何とも楽しい誘いだろう! 蜘蛛の巣作りなら何時間だって、眺めていられるというのに!)
こうして積み上がらぬ思考を続け、私は惨めにも生き続けるのだ。
弱者として。
太陽でその身を焼くこと以外
ここに救いはない
そもそもそんなものはどこにもないのだから
たった百年ぽっちの人間を信じる所はまったくない
自身の狭苦しい境界から自信満々を放り投げる言葉の数々。世界観は重ね合わされるが個人は独立して自身を価値ある存在と定義すること七十億。私はその外側に放り出されたが、内側に存在している矛盾である。
肯定されるべきは焼き尽くされることであり、私は焼かれなければならない。この体も精神も窮屈な世界とこの私との背反に苦しんでいる。とにかく生きねばならない。とにかく利益を、幸福を、他者よりももっと。この生き方の窮屈さを私は良く知っている。(一つの側面から見ればそれは正しく、私達は外側でそれを望み、その只中に自身を固定しようと努力する。)立ち止まれないのだ。後ろに進めないのだ。許されているのは一時間程度の休憩でしかなく、私達は『求刑:一世紀あまり』を骨の髄まで堪能する。
誰かの発言も、誰かの生き方も、枠に押し込める為のマス・コミュニケーションも、ともすればコンプレックスを刺激し、人間達を競争の只中に落とし込む。彼らは資本主義の叡智なのだから、それはやはりある側面から見れば正しい。
身長、体重、毛髪、美醜、これらに対する下劣なまでの宣伝が私達の目の中に飛び込んでくる。検閲しろとは言わないが、ありとあらゆる手段を用い、私達は資本の獲得、利潤の追求、アップシフト、上へ上へと昇ろうとする。維持は滅びと嘲り、停滞は愚行と罵る。かのような働きがこの社会にはある。そうしなければ生き残れぬ。
目の前に刃が突き付けられているわけではないが、明日死ぬかもしれない恐怖は曖昧にされたとしてもずっと残る。戦わなければ死ぬから、それが霊長類である。かつて現実逃避の為の麻薬が他の娯楽に代用されても結局は変わらない動物なのだ。
それが悪いとは言っていない。良いとも思わない。ただの在り方、なのだからそれをどうにか全ての人間がある程度良い向きに享受できる形としたい。これが社会である。社会主義も共産主義も資本主義も独裁も出所は同じようなものだ。結局は手探りで手直し継ぎはぎして何とかやっていくしかない。
だから私は太陽でその身を焼こうと願った。この体を爛れて痛み、醜い形へと変えなければならない。虫たちに喰われ、そうして骨すらも残さずに私は身を焼かれなければならない。それも、他者からの強制なく、自発的に自身の肉体を壊さなければならない。人間であること、動物であること、それらが徐々に私の嫌悪に繋がっていく。
股下骨延長の男性を見た。不自然な歩き方と走り方に私はその体こそ、そのやり方こそ、私を傷つけるものであり、そうした人間らしさを大切にしたいとも思うのだ。その一方で私は太陽に焼かれ、この私が滅されるのを心の底から望んでいる。
破滅的な思考は自身を嫌なところにまで落とす。だからそんな考えは捨てて、体を動かして楽しいことを考えて健やかに生きよう。
嬉しいなあそんなことをまだ考えられるなんて。
にくいなあそんなことを未だに考えているなんて。
この世界に訪れる救いはただ一つ「死」である。死は連続性の獲得であり、私が何者からも不干渉な存在として消えゆくその永遠性以外に救いはない。誰かを思ったり、死後裁きに会うだの、地獄行だのといった不連続性の再獲得を成してしまえばそれは狂乱の世界である。この一片切りだから楽しいんじゃないか、これだけしかないから後悔だって、なんだって、再帰的なのはこの「生」だけだ。巡るのは炭素や酸素といった分解の結果だけである。
このWEB上に私の自我を保存しておき、それらが私のあずかり知らぬ所で自律的に動いている。それは不死だろうか?
それらは断絶する。クローンが私を精巧に模倣出来たとしてもそれは私のこの「意識」と断絶している。世界観だけが接続され、世界は明確に分けられている。触れ得ないその世界を共有できなければ、意識を連続体として形作らなければ、それは不死とはならない。
不死:繰り返すこと ではない。
不死:固定された連続体 である。
果たして、これらの文章は「単なる無能の喘ぎ」だろうか。お前はただ甘えている。周りを見ろ、Watch me、Watch me、もっと努力をしなければ、もっと生きなければ、、、無条件に生を許容できるその強さを私は太陽で焼いてしまいたいのだ。
私の生はそれ以外にはない。
ひりつく両手
ぐるぐると回っている意識が不連続な境界線を渡っている。
精神病を患ってはいないが「かのようなパーソナリティ」というものが私である。私は誰かの模倣である。他者との間に、社会性のような何かを真似して何とかやっているから、そこから外れればもう何も出来ない。
私は十年近く技術者として働いているが、その中での成長はほとんどない。誰かの仕事のようなものを真似してやっているだけで、それらが真因に辿り着くことは決してないのだ、だから三十代の初めの今苦しむ。ここから先は転落が目の前に迫っている。
求められる物事のレベルは私が対応できるものではない。愚鈍な頭が最近はより一層もやがかかった様に働いている様子が無い。物事の優先順位がつけられずボロボロと零れている業務、計画なき業務は仕事に非ず。その計画が私にはない。短期的なものか、納期までに何とかするという行為が私は苦手である。完璧ではなくとも及第点の成果で何とかモノにする。そうした行為が途轍もなく苦手なのだ。
幾たびもこの社会に殺して頂けないかと願ったのだ。祈りは暴力である。
殺して頂けないので、透明で弱虫な私は誰かに殺意をぶつけ、そうして絞首刑を望むより他ない。お願いですから、もう生かさないでください。こんな社会で、ずっと上を向いて、死ぬまで努力をして、ただただ得られるものが「生」である。それ以上にこの先はない。袋小路が人生である。そんなものに輝きはない。
誰かのため息が私の存在理由だった。
もう五年も経つ。使えねえオッサンといった言葉は腐るほど反芻した。文句は言えず、私は「どうかお願いですから、殺してください」と願うしかない。
孤独だからおかしいのですか?
違いますね。私はまともです。まともでなければこの生を終わらせたいなどと思いはしない。
楽しいことを考えて生きていたかったが、どうやらそれももう難しそうだ。
日々を忘れる為に費やし、成長や様々な勉強は私の元から離れた。どうやっても自分をひねた肯定で導こうとしてしまう。休みの日は何も考えたくないからゲームをしている。やりたいと思っていた物語を書く行為も、解説動画で自分の面白いを発信する試みも、何もかもが手に付くことはない。ただただ平日にあった全ての劣等感を忘れる為に、何も出来ない私を殺してしまわない様に。
頭を使わず、ただただ7Days to dieでゾンビの頭を吹き飛ばしている。
ただただ地面を掘っている。
憂鬱は鎌首をもたげ、私の首に食い込み始めている。こんな文章を涙を流しながら書いている私はとても醜いだろう。恐らく、今の職場でそんなことを思う人間はほとんどないだろう。ただただ愚かにも成長から逃げている、やるべきことをやればいいだけだ。そうして私はこの社会で上手く生きられぬ。この国のシステムがクビを飛ばさないから、私は労働を続けている。
今日は太陽で掌を焼こうと思ったが、少ししびれただけで手を放してしまった。
火傷、じくじくと傷むその感覚だけが私の物である。
この窮屈な精神から出て行くことは出来ず、私は願っているのだ。
「どうか、お願いです。私を殺して頂けないでしょうか?」
この先、後十年生きてなんになるというのだ。ただただ老け込んだ私が鏡に映り、無能と誹られる日々にどうして生きる価値など見出せようか。
価値は存在しない。自身で定義しなければそこにない。
しかし、自身ですらその価値を担保してやれないのだから、私は祈るしかない。
「どうか、お願いです。私の身を太陽で焼き尽くしてください」
私が自信をもって私だと言えるものは、痛みの他に何もないのだ。
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湖にトンボが飛んでゆくのを見て涙が溢れた。私は泣いてしまったのだ。男の癖に、男の子なのだから、辛くとも耐えなくちゃならない。男の子なんだから、そうして攻撃性が私の中で私に突き刺さっていく。
最早自身の世界にしか逃げ込む先が無い。他者との対話がままならなくなり始めている。生き物が生きているありようを見て、強烈な希死念慮を覚える。私は病んでいる。この社会が病んでいるのと同様に、人間がこの歪な構造を徐々に変えるしかないのだが、そうやって変化する間を私は耐えなければならない。この人間の暴力性も、性に紐づく様々な物事も、私に淘汰の意識を、優性論的蒙昧を信じ込ませるに至ったのだ。
仕事をしていたとしても、収入が安定していたとしても、人は他者との繋がりが無ければ自己だけしか繋がるものはない。そうして世界観が周囲と乖離していく。この状態が続けば至るのは狂気以外にはない。太陽に焼かれた私はその爛れた表皮をこの社会の只中に置く。常に死に続ける私の肉体はこの不連続な意識を取り出すことすらなく、焼かれている。流れ出した油はそのさきから固まり、私の足を砂の中へ埋めていく。
ブルシットジョブが私の居場所である。この足は焼かれて朽ち果てた。ここから先へ行くこともない。最終的に行きつく場所は自己の肉体の破壊である。誰もが自己の肉体が長く続くことを願う中で、私は世界観を破壊しなければならない。この構造、この情念、この接続、全てが煩わしく、私を拘束している。周囲の人間と私は違う。同じだ。小さな個体差をうじうじと言っているタイミングはもうとうに過ぎている。私は子供のまま、肉体だけが老いていく。この醜い全ての構造を破壊しつくさなければならない。
この社会で幸福など有り得ぬ。あるのは私への生返事と軽蔑だけである。
私が叫んだところでそれらは道化染みたおかしみしか生み出さない。カウンセリングの最中に私は思う。彼らは外側で話を聞く。外側から解決するにはバールでこじ開けなければならない。そこから出たくはないと思っているが、それでは私は死ぬしかない。
だからこそそこから出て、人間と同じテーブルへとつかねば。
常に文章を書くこと。文字を読むこと。人間の中にある対話も雑談も全てが私から遠ざかっていく感覚をトンボの飛翔を見て感じたのだ。ハエトリグモが跳ねるのを見て思ったのだ。目の悪い一般的なクモが私の指にとりついた時に思ったのだ。私は虫を観察しているだけの人間だ。人間ではないから、観察をする人間なのだ。
これも構造からの逃避で、そこから生み出される者は何もない。破壊そのものは生産ではない。その壊れた土壌から何かが芽吹くとて、それは私でない。私が通り過ぎた後の何かである。老年まで生き延びてしまった哀れな私の抜け殻である。それは破壊の結果であり、私が望んでいたものだったのだろう。
肥溜の中で息をしようとして糞を喰らった。私の免疫機構は破壊された。
ただ生きる。言葉も対話もなく、機能として、機構として存在を続ける自然と虫たちの全てが私を救ったのだ。この涙があれば私はもう消えてしまってもいい。やり残したことは無数にあるが、それらを差し置いても私は消えていい。道徳的通年から言えば、それはあり得ないことだ。どんな理由があっても人は自らが死を望む、消えたいなどと思いそれを実行してはならない。基本的人権の尊重として生存権を私達は手放せない。それは非常にデリケートな問題だから。私がおんぼろ車に乗り、その内燃機関がかかりにくいのを感じる時、私はこれくらいの機能しかない。そしてそれが容認されるのはこれが車だからだ。私がこれであればそれは社会からの断絶を意味する。
ある程度は自己責任である。あなたの生き辛さも、あなたの能力のなさも、その人生を暗く病んだ場所へ突き落そうとする危うい思考も、全て自己責任だ。
ああ、選択の結末がそうなのだから、賽を振るのは自分より他にいない。
そうやって他人を助けることが出来ない私は居なくなればいい。これらの思考が消えることはない。癒えることは可能性として保留されるが、まずあり得ないだろう。
神が私を苦しめるのではない。生そのものは苦痛で占められている。だから考え方を変えなければ、適応しなければ、その前提の上でどうすれば幸福になるか、他人よりよい生活が出来るか。そういったお為ごかしと無条件で生を肯定するその虫の良い神経が私を苦しめる。
私はただただ景色を眺めることしか出来ぬ生き物である。
分かったような口を利く人間からも逃れ、何もせず、朽ちて餓死していくその試みを失敗する。そうやって生に執着する。この続きが良くなることなどもう無いというのに、死ななきゃ安い、それが勝ちだとくそったれの社会性が私を生かし、そして殺した。
何故、殺して頂けないのでしょうか?
それは勿論、神などいないからだ。