Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

ただ励起され、この身の慌ただしさ

消え去る前の小話

 ずんぐりむっくりとした。そんな形容が正しいだろう。

 わたしの自我、僕は忘却のまま、実際受け取る情報は歪んで認知の坩堝に煮込まれてどろどろとしたものを形にしていく作業。

 このブログというもの。

 ざくざくと並べていく文字の胡乱な流れ、美しい流れを描こうとするも何もない。

 気晴らしのドライブで見つけたアメリカンダイナーに入り、ハイカロリーな揚げ物、ブリトーなんかを食べ、コーラで流し込む。暴力的な食、そして明日が来なければいいのにという逃避行、どこまでいってもその無意味な構造に、そこまで苦労して労働を続けなければいけないのだろうかと疑問は尽きない。

 社会に出れば、その社会性の無さから、その能力の低さから、組織の中であまり重きを置かれない。期待もなく、誰かには呆れられ、軽蔑され、それでも時折感謝されたり、人の役に立てることがあると嬉しい。

 自分が上に立って、リーダーとして大きな仕事をする。などと言ったことにはあまり興味がなく、人から感謝されるような役割を持てないか。

 ちょっとした理系的な知識と、素直な態度を持ち、人への気配りがあまり出来ない。

 ずるずると日本的雇用のレールに乗っかって、何とか生きている。

 けれども、それも徐々に厳しい状況へと変わっていく。高い能力を持たなければ振り落とされていく。そんなように思えてきた。

 この社会で生きていくために、ある程度余裕をもって生きられるように、そんなささやかな生活ですら、この行く先には用意されていないように感じる。
 増えるばかりの税金、この社会を良くしようとは思えない政治、人がもっと頭を悪くなるようにと増えるコンテンツ、SNS、誹謗中傷に、弱者向けビジネス。

 あほらしいDMが届いて、お金稼ぎや投資、美人局のような内容が溢れる。

<ああ、やはりこの社会は地獄なのだ>

 誰かがそう言っているように思える。この乱反射するエコーの中で、気楽に、様々な物事に対して話をする、意見交換をする、自身の世界を広げる。
 そういった場が自身の回りにほとんどないことに気付いた。LGBTの差別問題や、それに対して知らないわたしたち、このマジョリティの社会に乗っかって生きてきたものが感じている事に対して、強い言葉で否定が飛び交い、知りたいと思うけれど、どこか好きに発言できない息苦しさ。
 それでは、分からないものをどのように理解すればよいのだろう。
 言い負かされるとか、無理やり論破されるとか、そういった話でもない。何故そうなのか、どうなればよくなるのか、膝を付き合わせて偏見や意見を出す。目の前にいる人を尊重する以外に価値はあるのか、社会構造の問題であるならやはり市民から出てより良くするための活動が必要だ。

 けれども、そうした団体や活動をしている中には、税金を浪費しているものもいる。

 何か、既得権益としたい流れ、甘い汁を吸おうとする流れ、この社会など良くならなくても全然いいような振る舞いをする人々。

 そういった事象を眺めていると、思うのだ。

<ああ、やはりこの社会は地獄なのだ>

と、

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火