Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

弱さの証明は

消え去る前の小話

 他者への不寛容である。

 他者を切り捨てることこそ、私達の弱さである。

 常に弱肉強食だと、ここで良さそうな椅子に座らなければならない。そうして弱者を切り捨てるのが正しい姿なのだ。私達は努力をし、ふるいに掛けられ、より強くあらねばならない。それこそが生き物なのだから。

 夏に草が伸びて見えなくなった川が冬には何もなくなる。干からびかけた蜘蛛の巣の残骸が手すりを揺らし、かさかさと優しさを失った草木が地面を擦った。

 有機物があれば無数に増殖する昆虫、伸び続ける草木、これらは強い生存競争の只中にある。人間のように余暇など存在しない。ただ生存し産み増やすことだけのシンプルな構造の世界観だけを持つ。そのような存在であれば悩みもない。ただ「生」と「死」だけがある単純な行動が占めている。

 その中に置かれれば人間は脆く儚い。道具も持たず、その中で生存することは難しい。だからサバイバル番組は人気があるし、私達はその中にいる人間に強さを見る。鹿の解体作業と命を奪う行為の中に人間の弱さを見る。

 人間の弱さは他者を切り捨てることに他ならない。自身の居場所が脅かされるからとオキシトシンが多量に分泌され、私達は外側を排除していった。外縁に存在する巫女が生贄になるのもそのような理由である。強い生存競争の只中にある「生」と「死」の単純さを以てそれを繰り返すものたちに比べ、弱さがそこに現れる。

 それは動物らしさであり、それは人間らしさでもある。

 だから私達は人を殺しても、泣いたり笑ったりできる。それを忘れて生きられる。生きて死ぬ、それ以外の意味は生き物にないから、それ以外は些末な余暇として全てを繰り込むことが可能だから。人間の弱さはこの社会によって付け込まれた。

 さも正しげに私達は他者の排除を望む。フランスでのアジア人差別、暴力行為然り、トランプを支持すれば暴力を振るわれる。こうした行為の数々が弱さとなって表れているのが今の社会である。そもそも、人間はそこから動けないのだろう。血と暴力が占めていた時代から、血と金が占める時代へ。在り方は変わっちゃいない。

 私達は殴りつける拳を資本に変えただけの話だ。それがやり方としてそれなりに回っているから、弱者ですら生存を許せるから、このような社会が現れた。

 私達は弱いが、システムはそれをある程度カバーする為にある。

 弱者を淘汰すれば、その次にやって来るのは絶滅である。

 ただし、全ての人間は弱者である。強い人間など、一人も存在しない。だから、神が望まれた、だから、何かを信望し、それが敗れればまた他の何かを信望する。太陽以外にそれはないのだが、人の中で人が巡り、その中で消え去る私達は弱者である。強いと考える人間も、権力者も、明日死を待つ処刑人も、誰もが等しく弱く、太陽に焼かれるべき存在である。

 この手垢のついた思考は幾度となく繰り返された。

 私が在ろうがなかろうが、この思考は幾度となく繰り返される。

 それこそが弱さの証明であり、私達がそこから抜け出すことはないことを示してくれる。だから「生」と「死」の循環における「死」は救いなのだ。この弱さを抱え、矮小な努力を積み重ねて斃れる。この生の競争を意識せず、蒙昧に世界を信ずればこうした文章は唾棄されるだろうが、そうした過剰適応の世界観に何の魅力もない。それを見るのは草木の世界観、蜘蛛などと同じ目線で語ることになる。(ああ! それは何とも楽しい誘いだろう! 蜘蛛の巣作りなら何時間だって、眺めていられるというのに!)

 こうして積み上がらぬ思考を続け、私は惨めにも生き続けるのだ。

 弱者として。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火