人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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 湖にトンボが飛んでゆくのを見て涙が溢れた。は泣いてしまったのだ。男の癖に、男の子なのだから、辛くとも耐えなくちゃならない。男の子なんだから、そうして攻撃性が私の中で私に突き刺さっていく。

 最早自身の世界にしか逃げ込む先が無い。他者との対話がままならなくなり始めている。生き物が生きているありようを見て、強烈な希死念慮を覚える。私は病んでいる。この社会が病んでいるのと同様に、人間がこの歪な構造を徐々に変えるしかないのだが、そうやって変化する間を私は耐えなければならない。この人間の暴力性も、性に紐づく様々な物事も、私に淘汰の意識を、優性論的蒙昧を信じ込ませるに至ったのだ。

 仕事をしていたとしても、収入が安定していたとしても、人は他者との繋がりが無ければ自己だけしか繋がるものはない。そうして世界観が周囲と乖離していく。この状態が続けば至るのは狂気以外にはない。太陽に焼かれた私はその爛れた表皮をこの社会の只中に置く。常に死に続ける私の肉体はこの不連続な意識を取り出すことすらなく、焼かれている。流れ出した油はそのさきから固まり、私の足を砂の中へ埋めていく。

 ブルシットジョブが私の居場所である。この足は焼かれて朽ち果てた。ここから先へ行くこともない。最終的に行きつく場所は自己の肉体の破壊である。誰もが自己の肉体が長く続くことを願う中で、私は世界観を破壊しなければならない。この構造、この情念、この接続、全てが煩わしく、私を拘束している。周囲の人間と私は違う。同じだ。小さな個体差をうじうじと言っているタイミングはもうとうに過ぎている。私は子供のまま、肉体だけが老いていく。この醜い全ての構造を破壊しつくさなければならない。

 この社会で幸福など有り得ぬ。あるのは私への生返事と軽蔑だけである。

 私が叫んだところでそれらは道化染みたおかしみしか生み出さない。カウンセリングの最中に私は思う。彼らは外側で話を聞く。外側から解決するにはバールでこじ開けなければならない。そこから出たくはないと思っているが、それでは私は死ぬしかない。

 だからこそそこから出て、人間と同じテーブルへとつかねば。

 常に文章を書くこと。文字を読むこと。人間の中にある対話も雑談も全てが私から遠ざかっていく感覚をトンボの飛翔を見て感じたのだ。ハエトリグモが跳ねるのを見て思ったのだ。目の悪い一般的なクモが私の指にとりついた時に思ったのだ。私は虫を観察しているだけの人間だ。人間ではないから、観察をする人間なのだ。

 これも構造からの逃避で、そこから生み出される者は何もない。破壊そのものは生産ではない。その壊れた土壌から何かが芽吹くとて、それは私でない。私が通り過ぎた後の何かである。老年まで生き延びてしまった哀れな私の抜け殻である。それは破壊の結果であり、私が望んでいたものだったのだろう。

 肥溜の中で息をしようとして糞を喰らった。私の免疫機構は破壊された。

 ただ生きる。言葉も対話もなく、機能として、機構として存在を続ける自然と虫たちの全てが私を救ったのだ。この涙があれば私はもう消えてしまってもいい。やり残したことは無数にあるが、それらを差し置いても私は消えていい。道徳的通年から言えば、それはあり得ないことだ。どんな理由があっても人は自らが死を望む、消えたいなどと思いそれを実行してはならない。基本的人権の尊重として生存権私達は手放せない。それは非常にデリケートな問題だから。私がおんぼろ車に乗り、その内燃機関がかかりにくいのを感じる時、私はこれくらいの機能しかない。そしてそれが容認されるのはこれが車だからだ。私がこれであればそれは社会からの断絶を意味する。

 ある程度は自己責任である。あなたの生き辛さも、あなたの能力のなさも、その人生を暗く病んだ場所へ突き落そうとする危うい思考も、全て自己責任だ。

 ああ、選択の結末がそうなのだから、賽を振るのは自分より他にいない。

 そうやって他人を助けることが出来ない私は居なくなればいい。これらの思考が消えることはない。癒えることは可能性として保留されるが、まずあり得ないだろう。

 神が私を苦しめるのではない。生そのものは苦痛で占められている。だから考え方を変えなければ、適応しなければ、その前提の上でどうすれば幸福になるか、他人よりよい生活が出来るか。そういったお為ごかしと無条件で生を肯定するその虫の良い神経が私を苦しめる。

 私はただただ景色を眺めることしか出来ぬ生き物である。

 分かったような口を利く人間からも逃れ、何もせず、朽ちて餓死していくその試みを失敗する。そうやって生に執着する。この続きが良くなることなどもう無いというのに、死ななきゃ安い、それが勝ちだとくそったれの社会性が私を生かし、そして殺した。

 何故、殺して頂けないのでしょうか?

 それは勿論、神などいないからだ。

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【失われた繊細さ】

 誰かに甘えようとしてしまった。そんなことをしてもこの自死願望は消えないというのに、誰かの表情が気になる。誰かの態度が気になる。そこに攻撃性を持ち始めればそれらが殺意に変わる。私は誰かを殺したいのではなく、死にたいから殺すのだ。そんなことを思い、踏みとどまる愚者だ。自分に優しく生きようと思ったが、自分に甘えて生きている事との区別がつかなくなり、私はどこへも行けなくなってしまった。
 私に必要なのは消え去るべき自我の正しさを示すことである。ここにある私の意識それにまつわる全ての物事は無為なものだ。何をしていても、何を表現した所で、私達のどん詰まりは変わることが無い。そんな些末時に囚われるから君はこの社会で生きられぬのだ。生きたくないのではない、生きられない。人間達と同じテーブルにつけた試しがない。ルールやマナーを真似していても、やはりそこから異質を感じ取る。
 平等に人生は常に辛いのである。人心は常に掌握されている。燃焼の最中に、轡をはめた私の体は焼け爛れて異臭を放つ惨めな姿をさらけ出した。
 
 私達から繊細さが取り上げられたのだ。
 
 繊細だ、とヒステリーを起こしたような発言や活動はSNSに散見するが、そこには繊細さなど微塵もない。主語を表現をただただ拡大解釈して、目立とう、そんな働きが多いのであればそんな所にはない。
 共感が多いものは粗野な人間らしさ、言語に囚われた霊長類の檻でしかない。大多数の人間は繊細なのではなく、声の大きい所に集まるだけなのだ。
 繊細なものはその下に押し潰され、何もわからない。そんなことを気にするものはいないから。たとえ小さな事が取り沙汰されたとして、それを新たな発見のように、余計な尾鰭がついて繊細さと静謐は失われる。
 全てが消費の只中に組み込まれる。HSPという言葉がそれを示している。
 
 こんな所に繊細さなどあるはずがない。ここにはただ焦燥と喧騒。
 
 私は頭もよくないのだ、早めに寝ます。早めに死にます、お願いです。まだ殺してくれと叫ぶだけの正気がある。この人生は何もしても無為である。金を稼いだとて、偉くなったとしても、どこか虚しい。マインクラフトの作者が豪邸の中で孤独を感じ、虚しさを覚えるのは、自身の世界が金だけになったから。どこへ行ってもついて回る金、必要だから楽に得ようとするのが人間、数々の虚飾を感じたからか、元々あったささやかな仲間との楽しみ、ちょっとした儲けの喜び、それらはもう失われてしまった。
 元より金も人もない私にはささやかな自死くらいしかない。人生は楽しむものだ、その試みは常に失敗している。常に、この泥の中へ埋まっている。誰かが私に援助をお願いして来たが、私はそんなに他に比べ良い生き方をしているように見えたのだろうか、もしくは愚かだから何か言えば金が引き出せると考えたのか、断絶する私達には類推と想像しか出来ない。
 どこまで行っても、他人は他人。当たり前のことを当たり前のように表現し、ただただ人生の郷愁としてさらけ出している。
 自死を叫んだところで醜く生きる私をどうか救って頂けないでしょうか、この社会に救われるには、ルールからの逸脱があればいい。そんなことも出来ないくせに、消極的な破滅を望むこの糞真面目な精神よ、早く消え去れ、狂信によって変質させろ。
 私は妄想の中でしか死のうとしないのだ。自分の手で命を絶つことも、誰かを殺して裁かれることもなく、どうして勇気が出ないのだろうかと悩む。
 自我がこの後にないから、全てを外側に移し替えた岩倉玲音のように自死を積極的に選択出来るほど、明白な確信は存在しない。
 日々の流れと痛む頭蓋だけがある。
 悲しんで眠り、犯されて眠り、対象は慮外であり、私は何者でもない悪夢でこの社会で非難され続ける。
 
 最早繊細ではないのだ。声高に「殺せ!」「殺せ!」と叫ぶその猛りだけが木霊する。私の中にあるのは能無しの声、私を早く終わらせてくれないか、あの砂漠で焼かれた時に死ねなかった。あの灼熱と暴風の中で砂礫になれなかった。
 どうせ自殺した所で、その後にも労働が続くのだろう。そうやって死んだ後も、死んだ後も、後も……労働だけ。
 この強い意識を取り除かなければどんな手段であっても自分を殺して貰える手段を実行してしまうだろう。ロボトミーのように物理的に脳を取り除けばいいか、薬物で労働者としての脳の働きに固定させればいいか、非現実で非人道的な行為でしか私は救われない。
 クソ信仰もクソ社会人も全てがクソ生き方ルールブックを片手に私を救い上げようとする。その手はクソまみれの癖に、私をクソの海から引き揚げ、新たなクソへ落そうとするその繰り返しが私の人生である。私から取り上げられたのは繊細さで、人間らしさで、この社会への適応である。
 いまのところ、この低次な苦悩から逃げられぬ。この世界に救いはない。今の立場に救いはない。私の人生に救いはない。
 もう外に出るのすら心を湧き立たせるものではなくなった。
 旅行先で何かを見る時、何かを食べる時、それがリフレッシュに繋がらなくなった。
 こんな文章ばかりが延々と連なる。消え去るべき私がこの社会のルールで縛り付けられている。この社会の流れに沿って行けば私は消え去ることは出来ない。
 
 最終的に行きつく短絡的なソシオパスを嗤え、私は奴らと等価だ。

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/具体化出来ないのだから/

 私は現実的な思考が出来ない。地に足つけた思考がままならぬ。技術者として頭を使うというのは向いていないのだ。どう頑張っても思考は宙を舞い、私が説明すれば具体性がない、繋がりがない、計画がない、いつまでに何をやるかが分からないといったことになる。どうやら私の思考は浮いているらしく、短い言葉で簡略に分かりやすく伝える行為から離れてしまっている。
 ともすれば自身のやり方、枝葉末節の事実に拘りすぎ、無駄な時間を過ごす。
 こんな人間がこの社会でビジネスに責任を負えるわけがないのだ。足掻いたところでこの体たらく、得られた成果は脱毛と緑内障じみた視野の欠けであり、光量のハレーションである。
 ただただ死ぬ勇気もなくここに立っている。このようにしてじわじわと死んでいくのが私だ。
 この先の人生は蛆に喰われるだけのイベントのない労働が延々と続く。この無為な選択とこの世界の有り様が人間らしくも生きられぬことを教えてくれる。社会的に大きな価値を生み出す仕事を動かすこともなく、誰とも知らず死んでいく。私達大多数が名も無き労働者である。
 一度でいいから誰かを愛してみたかったが、最早それは叶わぬ。この自我の適応はそこから離れちまった。耳を塞いで、目を閉じて、私は名も無き労働者であり、太陽により顔を上げることすら許されぬ奇蹟の巡礼者である。地面以外見ることはない。上から焼け焦げて消え去る為に、私は生きながらに焼かれなければならない。その疵が私に与えられる愛であり、等しく苦しみである。
 人生とは艱難辛苦である。だからこそ信仰が必要になる。私は妄想の中で太陽に焼かれ、その焦げた背面を感じ、芯まで熱された体を持つ。信仰が消えたのは、神が消えたのは、生き辛さが直接的なものでなくなったからである。生きる苦痛を和らげる為の麻薬は娯楽の用途が強くなる。(アフリカに氾濫するニャオペのように貧困が広がる薬物は古き時代の使い方に近いだろう。)明日死んでいるかもしれない社会で、その恐怖や無為な人命が心に与える影響は人々を麻薬に誘う。弱いから、貧困だから、手軽に得られる快楽、現実を忘れる為の支離滅裂、悪夢染みた酩酊、人生に救いなどないのだから、女神に身を預けるのが悪だとは思わない。そこに生じる資本活動が悪いのだ。私はその甘えを人生に許さぬから、このようにして太陽に頭を垂れなければならない。誰も彼もが空へ射精する悍ましき社会から目を逸らす為に、私はその一部であることを認めたくないばかりにこのような信仰を生み出したのかもしれない。
 特に苛烈なものはなく、ただ焼かれる。それを想像するだけでいい。
 私達は首を垂れて焼かれる。焦がされる。
 だから私は。苦しみの最中、自死を願う。それは愚かだからだ。この社会の嫌なものばかりが見えて来て、それしか摂取できぬ自分に嫌気がさしているからだ。
 世界は観念的なものと、触れ得ぬ現実がある。類推し知覚したものの全てが人間の、動物の、この世界の全てである。私たちの貨幣経済資本論から始まり、何かが起こるのではないかと思うこの社会の働きは、先進国を過去の世界へ追いやる。増える寿命、長引く生、長く生きた果ての池袋暴走事故。
 私たちは使えないインターフェースと時が経つほどに簡略化され過ぎて使えなくなっていくプロトコルを手にし、元々あるファームウェアは十万年以上も前から大型アップデートされることなく私たちの文化を積み上げた。
 その結果、人間は長く生き、その老化により社会は自壊を始める。それは一つの萌芽だろう。数百年手にした資本主義はそのようにして変化を始める。全てを自己責任で片付け、ハイパボリックに新たなる極点へ向かうのか、結局その関数の重ね合わせで私たちの社会は成り立つ。
 何かを究極へ推し進める行為、その過程、これらは全て破壊を生み、そしてまたそれらも破壊される。それらは理想と呼ばれる。理想は非人間的である。それが実現することがないから理想なのであって、必ず破壊をもたらす。
 もしくは人間は老化し滅されるものであるから、そんな生き物が考えたものは全て終わりを内包する。種、個を先へ伝える遊びを続ける。この地球も宇宙も必ず終わりを迎え、その後には何も残らない。そうして次に極点から現れ、広がり、また極点へと旅する。
 その繰り返しが私達であり、この宇宙なのだ。

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 【空の頭蓋】

 人間はなにもない。

 そもそもが相対的なゆりかごの振れる動きそのものであるから、

 それ自体には何もないのだ。

 ただ食物が挿入され、社会性もなく生存させられている。何のために? この生が成すのは労働者として社会を回す小さなものである。何をしていてもこの頭蓋の中は空のままだ。 

 私は周囲の人間と違うんだ、という意識はありますか?
 あります。分裂症です。
 ▶︎ありません。等しく糞袋です。

  空洞が入っています。

 哀れな世間と個もなく生きている。全てが無為である。社会に押し付けられる価値など、この肉体から押し付けられる価値など、ただ死なぬ、生殖を続ける輪を回り続け、私はここまで生きたのだから報われるなどと虚しい空想を続けた。

 いらっしゃいませ。愛想を振り撒いたら陰口を言われた。愛想がなくても陰口を言われた。 私たちの主要課題は社会的に優れた者、優れた個体との生殖、だからこそそうでない者には厳しい。それは性別関係ない。美醜、年齢、金、立場、、、人が惹かれるのは外面から。内奥は特にありません。

 頭蓋は空洞なので。

 そう言ってしまえば人と深く付き合えないからそれが分からないだけだろ、と社会は言う。自身の恵まれた土台、これを認識していても自身の責任は自身で取らねばならないから結局は課題解決型の人生である。

 発達障害と認められたら何か変わるか、HSPだと宣言したら世界は変わるか、根本は変わらぬ。やはりそれで慰めようとしても私は私であり、人間は人間であり、そこから逃げ出すことも、変化させることも、その短い一生ではほぼ不可能である。

 自分を変えずに、世界を変える。果たして、どちらが変わったのか。世界が変われば自分は変わらざるを得ない。自分で世界を変えたとすればその変わった先の自分に変化している。キャッチコピーとして少しは目を引くのだろう。

 結局そこにいること、絶えざる選択の檻が人生である。私は能力がないのだ。無数の妄言と駆逐される自我、選択などない。しかし、それこそが君の選択なのだよというものだから太陽のせいでアラブ人を拳銃で撃ち抜き、全ての動植物は太陽へ伸びる。勃起するのだと感じ、全てが性的なものであるという妄想から逃れられない。

 そこで【功德】がある。 

 報い。

 血の代償は罪禍を被ることにより、

 冠る血液により得られる。

 イコンは体に巻き付き、私は私のものではないと錯覚するのが宗教である。または善行による報い。月に住む孤独な老人は太陽により伸び進む地球を見て、それは焼け焦げるため、それは発情により死んでいく有機体達の興奮であり幸福な勃起なのであると確信していた。全てが性的であり、社会はそれを隠して遊ぶ。

 攻撃性から性的なものが害であると槍玉に挙げられるのは男性が主だが、対比される女性も大概である。

 動物はそれでしかない。この言語と概念で遊ぶ霊長類が優れているなどと私は思わない。この社会も文化も安寧を、秩序を生み出したのは全てが生殖のためである。

 多様な価値、その価値だってこの社会に於いての価値であり、その渦の中心は死にたくないと生殖だけである。怖がりだから、私たちは血を被る。太陽へ一律伸びて向かい続ける。焼かれる。

 私を見縊る全ての者へ私を軽視した全ての者へ私を軽蔑した私を下した私を下に見た私は私を許さないしそうした者達を殺さなければならない。このクソみたいな人間ども、馬鹿馬鹿しい世界観で喚きやがって、全員死にやがれ。

 徹底的に人類を破滅させてやりたい。

 こんな生を受けたことを後悔するくらいにめちゃくちゃにしてやりたい。

 うるせえな黙れよ。自殺すりゃあ済む話だろ。

 そんな勇気もない。ゴミどもの社会性に沿って殺されるわけにもいかない。

 やるなら大きくなければいけない。

 このように主語を大きくすれば社会が殺してくれるのは多くの犯罪者が教えてくれる。死刑の基準となった三名、計画性が有れば一人でもいい。強盗殺人であれば一発で括れる。これは自由な選択としての最期の手段である。

 それを選択してはならないのだ。しかしそれを理解していたところで、それを弱めることはあまりない。軽いバイクに乗り、トラックにでも突っ込んでしまえばいいのだろう。しかし、それもこの社会の迷惑になる。

 そもそもが社会の迷惑者である私が何か他人に喜ばれる価値を提供できるかと考えた所で、それが提供出来た試しがないのだ。一人で生きるしかない。一人で死ぬしかない。そこに誰の手も必要としてはならない。

 何か人間らしい活動が出来ればよかったのですが、虐待する人間でも子を成し、それは何らかの価値を生み出す。不当に亡くなってしまう子供たちの代わりに私の命が消えてしまえばいい。彼らには未来が有ったが、それを奪ったのはほんの少しだけ長生きして、親となったろくでなしども。人間、動物としての思い上がりから子の上に立ち、偉そうに世界を決め付ける空しい行為の数々。ただ親になっただけで自分が何か素晴らしいもののように思える人間が多い。

 私のようにこの社会に存在する意味が見いだせず、ただただこの太陽に焼かれる。太陽に向けて興奮している。それは焼かれる為の射精である。あの太陽に重力で落ち込んでいく様、私はそれを見ながら最後までは見れず、膨大な熱量の中へ消え去る。人間というものの哀れな短い生に執着する愚かな私を、戴冠されど自縛に過ぎぬ。権力、酒池肉林、そうした中で死んでいく。私の体の中から無数のヒメバチが肉を食い破り出て来る。その時私は生きているが、大量の昆虫が私を埋め、喰らい、そうして生殖を始め、そうやって私の肉は血は皮は目は内蔵は鼻腔に入り込む昆虫、全身を蠢く幼虫、意識のない私と自我、それら全てが連続してこの場に生え揃い、そうして太陽へ向けて飛び立つ。生殖の為、生と死のプロセスがそこに完成させられ、その脈動はパルスは脳の反応であり太陽系であり、銀河であり、無数の宇宙である。全てその模倣によるものだ。人間には自我が無い。動物には自我が無い。あるのは精巧な宇宙のマクロを今ここに見える形に下ろした、ミクロな世界は宇宙である。全てがその贋作であり、紛い物であり、本物であり、営みの中で社会が宇宙の働きをシミュレートする。

 私は太陽に繋がれている。あなたたちが人間と社会に繋がれているのと同様に。

【死骸】

 だから私はもう死んでいる。

 何者にもなれなかったが、それを慰めてやることもできない。

 ひとたび自室へ戻れば私は死骸なのだ。辛うじて労働により生かされているが、それは死の期間を先延ばしにするだけの無駄な足掻きである。ただ生きる行為に連なる数々の虚無感、都合よく人間を動かそうとする人間と積み重なる年月、腐りゆく私と周囲と過去を懐かしみ続け私たちは停滞してしまった

 無数の脚を捥がれたバッタはその高いアクリル製の箱の中で付け根だけをモゾモゾと動かす。私はその中の一匹だ。マッチ箱に仕舞われることもなく、怒りによってぶちまけられ散乱するバッタはもう死んでいた。

 資本経済が押し付ける全ての人間らしさから飛び出そうとすればそれは死骸である。私は室内で亡骸となり、バッタとなり、動物となり、サメに喰われる。結婚相手は雌のコモリザメである。吸い込んで腕を噛みちぎられることこそ私の婚姻の証である。広範に広がるのが非モテ男性の悲喜交交であり、極点であり苛烈なのが非モテ女性の悲喜交交である。つまり社会的な幸福は女性の方が多い。(純化のためマイノリティの話はここではしない) そんな風に穿った見方をするのであれば頼むから早く死んでくれ。人の辛さを相対的に決め付けるから私達は辛い。等しく辛いことはあるので出来ることを持ち寄って生きていきましょう。太陽に焼かれる為に、そこへ伸びる性的な人生として。

 私を食い破る寄生生物はどうやらまだその機会ではないと思っているらしいが、おそらく私が太陽に焼かれれば急いで出て来るだろう。私のような人間が何かを満たそうとするのならば、それ以外にあるまい。

 相対的に死んでいるのか、個人的に生きたくないのか。

 相対的に死んでいるから、個人的に生きたくない。

 が正解だ。

【爆砕】  

 SNSの底辺。血溜まりのミミズどもそれが私だ。

 何もかも上手くいかなくなって、幻ばかりが個人のお為ごかしとして。

 野菜を弾け、殺せ。

 上手くいきそうにない人生をどう上向きに理解すればいいというのか、神戸のヤマトで女性を刺殺した人間の終末は世界観の接続が元より弱っているからだ。思い込みと自意識の反復によって怒りが醸造された。発酵し泡立つ憎しみは自己完結的で、愛によるものだと思う。そこでは社会性が失われ、自己の世界だけが際立つ。

 しかしながらこんなニュースもただただ消費されるコンテンツでしかない。知らねえ阿呆がヤケクソになって事件を起こした。それらは自分ごとではない。自分(の所属するコミュニティ)以外死んでも構わぬ。国に飼われているのである程度の対話は存在するが、こうした異物化してしまう者は処理を待つばかり(そんな異物でも働き、生存する選択は残されているから、この社会全てが狂っている、悪である、破壊すべきだ、というのは短絡的である。私は私を消してしまいたいが、自己の破滅願望とそれらはキッカリと分ける必要がある。社会が接続と重ね合わせの世界観で得られるのであるならば、自我と社会の変更は別領域の話とすることができる。自我を満たすためのイデオロギーなどゴミクズである。自我を押し通す正論など押し潰せ。)

 どうあっても異物化は免れないのである。どうあってもこの社会性の失われた自我からは他人と一緒に暮らすことなど、生きることなど出来ないのだ。

 私はかつて生きていた。砕かれて呑み込まれた自我と発破の熾りを受けてもう生きてはいない。

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私はなんて事のない一介の労働者である
 だから消えたいと願った

死のうと思ったのは
 自らの善性が信じられなくなったから

死のうと思ったのは
 有象無象の産業廃棄物だと認識したから

死のうと思ったのは
 この長い社会人生活が死のその時まで続くから

死のうと思ったのは、、、

 35までに死んじまうだろう。私はその後の人生は敗戦処理でしかなく、いかに「綺麗に死ねるか」消えることが出来るか、その為にしかないとぼんやりと思っているのだ。もう後残り3年しかないのだが、そこから先、例えば今続けている何かが個人的な価値となり、社会に何かを生み出すことがあるかと考えた時、やはり私には何もない。それは、生存にかかるコストが自身にとっては高すぎるからか、小説や動画を作ってみようとして、それらが他者にとっては通り過ぎる数々の迷惑な広告とそれほど変わらないなんていった事実が目の前にあるからか。

 そうは言っても私は生きなければならない。死んでやると思って、その勢いを保てる人間は少ない。私はそう言いながらも生きてしまうのだ。貯金をし、資産運用をし、死が目の間に現れるまで生きようとしている。

かつて私は何かを生み出すことが出来ると信じていた。

いまでは私は自分を殺すことすらままならない。

 誰かがお金がないから助けてと言っていた。その声に私は答えてやることが出来ない。自身の世界は他人と隔絶されている。何より私達はその為に税金を払っている。だから生活出来ないような状態は恐らくこの国では起きない。少なくとも手を尽くせば死ぬようなことはない。私も同様に誰かを救えるだけのお金を持っていない。1度裏返れば死ぬより他ない哀れな単身者なのだから。誰かに正直にこうした気持ちを吐露した所でただただ迷惑な雑音でしかない。私はこの社会から囲われている。お金を渡し続ければ助かる人間はいる。ただ、この社会の構造上それは誰かの時間を資本化して、支払われるものである。人は1つ渡せば2つ寄越せと言い始める。1つをやめれば責め始める。それが特別なものではなく、習慣になる。

 私には誰かに特にリターンが無いままにお金を出してやろうとする行為、その責任を負うのが怖いのだ。1人ですら上手く生きられぬ人間が誰かの為になろうなどと、人間を愛そうだなどと、死に物狂いで何かやって生きている人間ではない。ただやりたいと思ったことをやってみて、続けてみて、それらは常に袋小路であった。全ては私に社会性が無いから。私にその社会性という欠点を越えられるような能がないから。過去に縛られ、それだけが私と社会を結びつける楔である。かつてゆりしーと呼ばれたプロ声優がいた。私が知る限りでは今は声で仕事はしていないようだ。クラウドファンディングと言っているだけの個人的な生存のお手伝いをお願いしていた。私はそこに過去以外見ることが出来なかった。能力があるはずの人間がそうなってしまうのを見ると、盛者必衰の理は私達が生き物である以上変えることは出来ないのだ。
 私も何れ過去に生きるようになる日が来てしまうのだろうか。そうなれば消えなければならない。過去に囚われてしまえば、世界観は薄れていく。薄れた果てにどこへも接続されず、重なることもなく消えてしまうのだ。消えない為には、過去にはない挑戦が必要だ。

 死のうと思ったのは

        価値の創造でなく     攻撃と浪費による

                             あぶく銭が溢れるから

 自身の心酔者が害をなす。そういった事例がやはり目につく。何かに対して否定的な意見を出せば、それを盲目的に信じてその逆を攻撃する人間達。私達がただ言語を操れるだけの猿であることは明白である。正しい情報などこの社会に全く必要が無い。正しさを個人に依存する危険性を理解出来ない人たちが増えている(もしくは元々人間はそういうものなのだろう)。人間の知性の敗北を目の当たりにしている。迷惑な電話により休業になってしまった餃子屋さん。話題となった人は自身でも飲食店をやっているにも関わらず、その影響を考えず我が道を進む。それはわがままだろうか、個人の時代だから許されるのだろうか。こうなってしまっても尚、責任はどちらにもあると言えるのだろうか。事実は監視カメラの映像とSNSの数kbの文字列と休業宣言と増えている店舗の評価だけ。それ以外は分からない。

 問題はマスクではない。多くの人が気持ちよく過ごす為にしていたことに難癖が付いてそれに対して白黒はっきりとさせようとする多くの人間の行動。こうしてブログに書く行為ですら人間をコンテンツとして消費していて私は嫌なのだが、この社会が変な方向に進んでいる事例として取り上げている。日々、ちょっとした気遣いをして、自分も周りも気持ちよく過ごそうぜ、というのがやさしい社会だと思っているのだが、その逆をするとそれがコンテンツとして金になる、資本主義的に消費されていく。私達の自由が資本化するといった点で棄損されていく。7万円で何が出来るというのだろう。全てが自己責任だと? この競争、この資本化、この人間ども。私達は私達自身のテーブルを削り、誰も立つことのない場を社会に打ち立てた所で、良い社会は生まれない。スラムを生み出して消えていく。先を考えていない人間が先を決める。そんな事例が広がる。平均年齢50代の社会はか細くけれども確実に繋がなければならない未来を描けずにいる。

 多くの人間は個人で何も判断できない。チャンスと怠惰の区別すら付けられず、誰かの意見を求める。自分の人生は自分以外誰も責任を取ってくれないというのに、それに気付いてもやはり別のそれっぽい言葉を求めて徘徊する屍食鬼。私達に自我などなく、ただただ少ない人間がそれに従う人間を動かす。誰もかれもがその糞山にまみれる遊びで笑っている。人間は糞が大好きだから、糞に塗れて生まれ、糞で遊びつつ死んでいく。最終的には糞を壁に擦り付けて耄碌。人生とは空しいものだ。猿山のどちらが偉いか競争に繰り込まれそれを社会性で隠しているだけなのだから。

 死のうと思ったのは
  すべてがくそったれの
   人類にばかり目をやったから
 迷える子羊はわざわざ狼に近寄らないが
  この社会では否応なく近寄ってくる

 個人の世界観ばかりが先行し続け
  後に残るのはヤクザな人間どもだけだ
 死のうと思ったのは
  自身もその一部であり
   この種の呪いからは逃げられないから

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無為

 、、、一人。始まりは個人的な思想から生まれた。

 人間の活動の全ては摩擦があるから。

 全てが決められているならそれに対する反応でしかない。

 人生とは無為なものだ。肉体が希求するフレームワークから生まれた幾枚のペルソナと生存、生殖。それを楽しもうとする故の快楽、ただただそこにある。
 ただ生きている。仕事も生活も何もかもが生に紐付いた欲求なのである。自身の立場を確保する為に誰かを見下し、自身は優れている。彼は劣っている。人間であることの瑕疵はただただそのようにして俺は秋田ひろむに絶対負けねぇという気持ちだ。それは立場でも作品でも生き方でも何でもない。ただ負けねぇと思うだけの気持ちだ。
 アーティストとして比べるまでもなく、私は滑稽で哀れだ。だから絶対負けないと吐き捨て、最終的にそのクソくだらない競争と勝ち負けと悪意と上昇志向、資本主義に適応するわけにはいかない。新自由主義私たちは無能を置き去りにしていく。そんなことは出来ぬというのに、構造で他人を陥れ、間接的な殺人を成し得る人間は傲慢である。中等教育の時にはもう分かっていた。人間は傲慢である。社会性の構造に繰り込まれているだけの動物なのに偉そうなのだ。
 二重思考を使いこなせ。イデオロギーや主義の奴隷となるな。ナタフェミ、脱コル、といった言葉を使うキャラクターがSNS上に散見される。腐った青い鳥の元で喚いている。彼らは反出生主義の奴隷である。結局そうでないものを見下し、自身が一頭上で無ければ気が済まない。同じ目線のキャラクターと反響を繰り返し、自我を失った。だからただ攻撃性を言葉に乗せるだけの生き物、SNS上でのキャラクター化に陥っている。その側から見えるのは性欲であり、生存である。社会に意味がある者である。価値があるのだとわざわざ主張しなければいけないのは、自己を肯定出来ていないから。無為な行動で時間を浪費するのは人生だから。
 私達は自由である。だから易々と、自ら望んで奴隷となる。一つの思考の、一つの思想が全て。曖昧な人間が作り上げた社会の中で、確たるものは何一つない。ただ上手く世界観が重ね合わされているだけで、それが出来なくなれば容易く崩壊する。

 結局のところ必要なのは自身にとっても他人にとっても辛くない社会である。

 BLMやANTIFAがそれを実現したか? または白人のパフォーマンスが。

 私は断言する。それらの泡沫活動が辛くない社会を実現することはないと。

 残念ながらその間にアジア人は存在しない。同じ目線になれと思考を共有させる阿呆共が自由を叫ぶ。そんな者達が自由など求めていないと知ることはない。知ろうともしない。自由とは何を発言しても良いがそれに対して責任を持つこと。悪意ある連中の切り取りは唾棄すべきであるが、蛆のようにキリがない。そいつらも同じ責任を喚きやがるから、人間に自我などない方がまだマシだろう。

 辛さは余裕のなさから生まれる。だから敏感になり、ガチャガチャ喚く。

「それならさぞ大層なお考えがあって、その為の活動をしてるんですよね?」
 そんなわけがあるか。無数の人間が生み出す曖昧さと混沌、世界が無数に重ね合わされる過程の中で、寛容さを勝ち得る。余裕のある社会が実現出来るか。結局競争は存在し、死体を積み重ね、上下が存在する。
 結局は晩年のサリンジャーのように隔絶して生きるより他ない。
 目を閉じ耳を閉じ、、、何もしない。ホールデン君のように騒ぐのですか?
 いいえ。社会も自分もすぐには変わらない。小さな熾りが繰り返され、気付かぬうちに変化している。私の希死念慮が年を経るにつれて強まるのも、自身の顔をじっと見た時、ある時ふと歳を取ったと実感するあの瞬間も、目を閉じ耳を閉じ、、、そんな孤独はやろうとせずとも何れ現れる。また、自分を変えようなどと傲慢になれる人間。小さな熾りは自身でも気が付かない。嫌々適応したものがストレスなく行えるようになっただけだ。私達は適応し、流れ、停滞は有り得ず、ただただ最後には死んでいく。
 自分を変えることは出来ないが、自身は変わっていく。世界に不満があっても自分を変えることはない。それでも生きられる余裕がある社会が理想なのだが、不条理な世界と理不尽な人の世で自分を変えて生きていく、サバイブする。これは臨機応変に対処できるスマートさと共に語られることが多いが、これを美徳のように語れば我慢が生まれる、辛さが生まれる、余裕がなくなる。ストレスを受けながら仕事を進め、度胸が付き、自身が付き、人を上手くやり込めることが出来る。自身の利を大きくすることが出来る。立場が出来る。居場所が出来る。
 そうしたストレスは自身の成長(という幻)を得ることが出来る。
 結局変えたのではない。無理やり型に当てはめようとして歪み、このような文章が連なる。

 不条理に耐えていても、希死念慮は生じる。私は消えてしまいたいのだ。

 頸動脈からいけば簡単に窒息死が出来る。練炭での一酸化炭素中毒でも良いだろう。イスラムの処刑は首を切り取る。マフィアは心臓を切り取る。
 大抵の誰かに見せる為の処刑は何かを切り取る。人間から人間らしさを切り取る。動物である事実を切り取る。悪意は発言を切り取る。そうであるならば私は自我を切り取ってみせよう。この思考、この雑文、人間は他人に向けて言葉や文章を発するが、私はそうではない。木霊であり、虚しい反響であり、輝かしきは産声を上げた時に捨てていった。ただ自身の渇きを文章や小説に載せて生み出すだけの生き物。人間らしい生き方はないだろう。ぐずぐずと湿気で腐り落ちるフローリングとカビの広がる机の上で私は文字を連ねる。この地下室で圧殺されるために、もう捨てるものはほとんどないのだから。
 希死念慮は不意に広がる。ストーカーのように付きまとい、さながら分裂病者の集団ストーカーと似ている。私に敵対する何か、そんなものは存在しておらず、ただただ所属した社会で有用でないという事実が社会性の檻から囁かれるからだ。
 その時々でうるせえなこの野郎と吐き捨て打ち消しのために人類への殺意が現れる。こんな人間なのだから消えてしまえ何が希死念慮だぶち殺すぞ。これも希死念慮の具体化である。殺人は計画的に、それで死ねるぜ。他人には堪ったもんじゃない。死にたかったから、などと言われ殺意を振るわれるのだからそれはするべきではないがこの反芻をやめられぬのだからあと数年持てばいい。労働により強化される自死の気分は私の社会性の低さから生まれる。人間たちの社会は私とは遠い。私は清掃と幻想であり、少女のスクラップを愛したあの男であり、国家転覆を破壊を暴力を頭に掲げる極左連中であり、新幹線でナタを振り回し、秋葉原へ車で突っ込む。社会性の欠落と存在するべきではない異物。そうして行き場のなくした人間の暴力性だけが残る。社会のタガが外れた暴力装置はこの社会に溢れている。私一人が自我を失い暴力装置として機能した所でそれは何でもない日々の一幕である。身近に処刑が溢れ、誰かの横暴を窘める物語が溢れ、声の大きい敵意だけが空虚なSNSに反響している。
 広がった果てに望むのは幾許かの自我の霧散だ。暴力も競争も価値も何もかもが自我があるために存在する。思い悩むお前の頭もただ不安を打ち消し生きる為だけの産物。生存だけが唯一肉体から希求される要件であり、その他全ては私の自我も意識からも離れている。余暇ですら、想像ですら。
 
 全ての選択を無くし、同じ行為の反復のみが私の自我を切り取る。
 、、、尤も、私は摩擦で擦り切れてもうないのかもしれないが。

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 今の流れは誰が生み出したのだろうか、犯人を見つけようともキリがない。私はただ、正しいことをした。飛躍する理論が社会を動かす。過去の過ちが利用され、機械的な構造だけが回り続ける。
 審判、機械的偏愛。
 世界は個々の中に沈み込み、それらを重ね合わせ流していくオールドメディアはその意味を失う。

 HUBとなる人間を見たことがあるか? 明確に見た、存在している。そう言い切れる者はいない。人間の元型は何か? 神の血と泥である。金と銀と銅である。皮と肉に浸された彼岸である。

 流れは生み出された。戦わずして社会は何者かに負けたのだ。

 その中で私はなんでもないから死にたいのだろう。この世界が愛に満ちているから居なくなってしまいたいのだ。もしくはそう思わされている。思うように仕向けられた社会構造、人間の価値観、その中の強力な押し付け。

 このなんでもない毎日、能力の足りぬ私が仕事をしているが、人間たちから見てみればそれは仕事ではない。どうして私は死ぬ勇気すら無いのだろう。それもこの世界が愛に満ちているからだ。耳慣れぬチャイムの音が響き、一日が始まる。今日も目の前の物事を整理し、何かを推し進め、多くの他人に沢山のことを聴き、やるべき仕事を進めている。手戻りを引き起こしている。膠着させている。

 不意に見知らぬ他人に殺意を向けるのに? それは愛の反復である。どうせお前に人殺しは無理な相談だ。哀れで惨めな生き物なのだから、処刑されるまでは馬鹿馬鹿しい人生を送るのが君の運命なのだよ。指を差されたが、私に捻じ込まれたのは動物であるという事実だけである。起きて食って眠る。それだけを繰り返す。回転寿司。寿司勇者。私はあの乾いた〆鯖である。何れ廃棄される食品の一つだ。

 この言語も意味はない。私は社会人ではない。私は人間ではない。だから私は人間のルールで処刑されなければならない。上向きな人間が他人への期待をし過ぎて感情的になる。人間は人間に入れ込むのが好きだから、他人を同一のグループと見做す。
 下向きに熱意などなく、人間らしい賢さもなく、私は泥の沼に沈んでいく。歳をとればそれだけ私は死ぬべき個体である事実が増えていく。早くしろ、社会はクソみたいな俺を生かすな。などと喚いたところで私は自殺などしない。宅間守と同じような人間崩れなのだから、死のうとすれば社会に害をなす。太陽に焼かれ構造を破壊しなければならない。

 薬物で脳を破壊しろ。依存性などではなく、文字通り殺してしまえ。こんな思考など、こんな行動など、私は死ぬべきだ。この競争で壊れるのだから、早くしろ。生き物であることすら嫌気が差す。

 だから私は人殺しである。生存競争を是とし、私達は合法的にシステム的に構造的に人殺しを許容している。誰かによって人が死ぬのを許容せざるを得ない。倫理的、法律的、人道的に基づいて人殺しは許容されないものだが、私達は生き物として人殺しは許容しているのだ。自身の居場所を守るために、他の人間が死のうが構わない。特に男性は命の価値が低い。それらが社会、文化の隙間から分かってしまう、見えてしまうからこそ、男性の自殺は女性の倍ほどもある。30歳の男性と女性が自殺した時、大きな問題となるのは後者である。過労死で男性が幾ら死のうともあまり社会へのインパクトはなかったが、女性が亡くなれば話は別。

 こうした自然な態度は命の価値を人間自身がそのように考えているからだ。男性は戦って死ね。自らの暴力性で勝ち取り、奪い、居場所を作り、そうやって死んでいくしかない。多様な価値観がそれらを否定するが、私が生存してきた場所ではやはり性役割に縛られて来たように思う。だからこそ私は死にたいのだ。この人間という生き物から消え去りたいのだ。

 繰り返し叫んだところでそれらは疎外を得ただけだ。

 哀れな化物め、この場末のブログから出て来るんじゃないぞ。お前は底で唸り、呻き、搖動し、人間ではないのだから、この社会に出て来るべきではない。器官には人間達の死が司られた。世界観の重なりは疎外器官(独身器官)を生み出した。その中から化物が現れる。私はその化物に人間を貸し出して、私は人間ではないと嘯く。囁かれる声は幻聴ではない。自身の敵意、不安におののく感情がそれを引き起こしている。本格的に太陽に焼かれなければ私の生存はない。

 人間は死を選ぶ器官の存在を想像上だけで行ったが、それは実在する。

 自殺は制御可能である。環境の一つ一つに織り込まれた社会からの疎外、病気、障害認定は救いとならない。それが生み出すのはちょっとした手当と多くの労働から疎外されるという現実だ。優勢論は間違っているが、この社会の持つそれなりを満たせないのであれば貧困と死に導かれるより他ない。格差が広がり、犯罪が増え、アメリカで生じる犯罪の多くが黒人であるのは貧困が大きな要因だからだ。遅かれ早かれ衰退しない為にはそのような競争と貧困の只中を突き進む必要があるが、この仕組みはやはりどこかおかしい。世界の速度は二次関数的に発散を始め、そこに立てる人間は限られている。このシステム、構造は最適ではないが、その中で最適化が進んでいく。このシステムも人間の曖昧性から整合が取られて来たが、それが許されなくなる。適応の仕方を間違えれば、ただただ発散が生じ、私達の辛さは永久に消えることはない。

 全てが現実から離れる。人間は殺しを目の前から遠ざけた時から、距離を取り始めた。情報は口伝から離れ、顔も知らぬ人間の情報を得る。私がここにいようがいまいが地球上の誰とでも情報交換が出来る。
 目の前にある現実は現実感を失い自身の世界観だけがこの地に広がる。私たちを死に至らしめる数々の暴力、競争、、、そして愛。愛とは排除であり、世界観の極北である。個の世界観に閉じ籠れば閉じ籠るほど愛に満ちた世界が現れる。エコーチャンバーは愛の波動である。その繰り返しと発散は愛のプロセスである。何かを愛するということは排斥することである。

 私達は愛によって殺され、愛によって居場所を得る。この社会の愛により私は排斥されていく。それが持続可能なよりよい社会、SDGsなのだろう。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火