Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

地獄

 私たちはこの世を憎み、またそれを愛しているが故にここから去ることが出来ない。

 地獄:悪行を為した者が死後に送られ罰を受ける世界

 何も死なずとも地獄はそこにある。私たちは地獄の体現者としてこの社会を漂う。人間嫌いが人間でしかないように、自我をひとまとまりに考えてしまえば私たちは人間から離れられない。必要なのは自我を分けることだ。

 そうすることで世界観が分離し、世界と接続される人間とこの社会から浮いていく。形から入るのであれば、岩倉玲音のような自殺を考えろ。あのやり方であれば、人間との距離は広がる。アバターを手に入れ、その中で私たちは人間ではなくなった。

 過去に私が構造破壊が必要だ。と言っていたのは、その自我の分離の先にある。細分化された自我とその仮面で出来た砂丘に私は体をうずめた。プライド、軽蔑、他人の様々な思考、私を見つめる黒い何か、それら全てはそれぞれの自我に分離される。彼我として認識された自我、その無数の細分化による無我。

 人間という構造を破壊する。無常な現象として、それらはただそこにある。

 人間が人間でないものになってしまう瞬間のカタルシス、私はそうしたところにずっと想像力を置いていた。けれども、人間らしさで、人間を語り、人間の借り物としての素体で人間を語っても、やはりそれは人間から少し足を出せる程度のものだ。

 自我を全て吸い上げて、このWEBに放て。

 時に全ての社会活動、利潤追求、イデオロギー、社会的情動から離れる必要がある。

 人間でないものになるには。部屋から出ず、目も耳も塞いであの厄介な思考を締め出せば少し近づける。分裂病者の散歩を繰り返せ、ナローバンドに世界と繋げ。情報は少なければ少ないほどいい。広く浅く、狭く深く、散逸する神経は何ものも「認めない」例えば、私が一つの自我をデザインして、それが結月ゆかりを話者として生じさせる。それらは参考にされた後の電子音で、情報を得れば沢山の特性を持つ。

 言葉と形が「彼女」として定義され、それらは部屋の中で彷徨う。動画の中で震える。味付けされた特徴だけが示されるわけではなく、そこに紛れ込んだ各々の自我。そいつを見付けた時、やはり自我の分離がこの地獄でのキーであると確信した。

 しかしながら、色々な感情がぶつかり、対立し、貶し合い、あまりにも変わらない世界の叙情は、石を投げてボスを追いやった時から、人間という不平等が存在を続ける限り、地獄的普遍の状態にある。

 様々な地獄がこの世を巡っている。私たちは全てその原因でありシステムの一部である。半歩踏み出す分裂者の仕事だけがそこから逸脱する。どうあがこうと、全てを取り去った人間を表現するには至らない。そんなことが出来たのだとすれば、私は喜んで自殺するだろう。

 透明な人間は亡霊ではない。亡霊となり得るものは地下に眠る。これらの文章には「恐れ」と「怒り」が感じられます。AIが言う。AIの定義を機械学習からDeepLearningにレベル分けをして、for-if文の積み重ねもAIだと、アインシュタイン的世界観で「定数」を求めた。

 人間の似たような活動の繰り返しにも「定数」がある。定量的に表現できる。機械学習的に私たちの活動は一万年前ほどから変わっていないのだろう。徐々に進化をしているが、劇的な境界を乗り越えるタイミングはまだ来ていない。

華やかに見えた鳥は薄汚く、群衆化することで脳を獲得した。
その一部として、私たちに語り掛ける。

 地獄の例はそこら中に散見されるが、特に先鋭化するSNSで私たちは人間らしさの極致へと落ち込んでいく。孤立した生活を好み、ただ自己陶酔の中だけの休日はそうした地獄とは無縁だ。緩やかな繋がりでなければ、私たちは一瞬で地獄を作り出す。

 もしくは、それらは単に極一部の意図で、ドーナツホールのようなものか。想像された地獄、妄想の中でしか執り行われない儀式と自身が嫌な所へ追いやれられる。

 例えば振るわれる正義

 集えば破壊する群衆

 腐れば火を放つ偏執者

 讃えよ資本の奉仕者

 様々な認知バイアスによって、私たちは「理想の世界」の中で生きようとする。この世界が赤いと言えば赤く、陰謀に満ちているといえば月の裏側には基地があり、慟哭はもはやありふれた数字取りと追従者のあほらしさがこの世界に蔓延していく。

 現実は無常である。そんな「理想の世界」は無明である。

 誰もが参画して、誰もが楽しむ。

 それがこの地獄である。

 アメリカの大統領就任までに生じたあれこれ。一部が日本に飛び火し、この令和という年号から、私たちのささやかにも多くが生きられる資本主義、リベラルというものの区分けが人間らしい合理性から、最初から用意された小さな綻びが今でははっきりとした裂けめとなって目の前に生じている。

 どちら側でも構わない。私たちの地獄は堂々巡りを続ける。対立だけがこの世界を彩るのだとすれば、そのどれもにNOを突きつけ、そのどれもを破壊しなければ、やはりこの地獄は終わらないだろう。

 恐るべき暴力が振るわれた後の更地であっても、そこから逃れられない。

 かつて支配の様相を変えたペスト、そして今。

 来るべき地獄と、私はこの人生の先を考える。暴徒に顔を潰されてボロ雑巾のように積み上げられる死体として、私だったものが転がる。ああ、やはり誰にも私の言葉は届かないのだ。感情的に押しつぶされ、消せば満足する。

 分裂していく文字は合理性からも感情からも流れ、意識の流れはなんら意味を持たない表現へと変化する。石積をしているで、砦や城を作ってないで、楔なんてないで、どこからどう見てもウォッカを入れてレンガはめちゃくちゃだ。虫の感情について考えたことはありますか、ありませんよ、ほらあんなのは機械、機械の自我なんであるわけないでしょうが。柱時計は腐りかけの一軒家と全身を這いまわる何かの夢で、汲み取り式便所から人生が溜め込まれたクソと同化している。子供の時に見た宇宙に放り出された視界には何もなく、自我の消失、死はそれであると祖父母の家でお泊りをした。

 古ぼけた視界で私たちは勘違いした。生きている、生まれるという結果の暴力性から、満足気な表情と記憶にない早朝に逃げ出した大型インコが窓を割って入る。声や表情やこの社会に生じる生き辛さは結局のところ自分の生存以外を望んでいなかったから、押し込められる。

 攻撃したいのですよ私たちは。ギャングたちの示威行為に処刑があるじゃないですか。泣き叫んでも心臓は奪われる。逃げても念入りに銃弾を捧げてくれる。だから、だから、その中に入ろうと思いまして。

 現実感のない妄想でこの自己の生き方のやりきれなさを変えようと思った。またはただ話題性だけでそういった活動をしようとした。どこへ行っても同じだよ。感情の働きだって機械的だ。ロボット症とは言うけれど、そのロボットの方がマシな選択をしているじゃないか、なあ、その熱を向ける先は文明が発達しても変わらねえのはどうしてだ。 そこで体を誇る女を引っ張って来いよ、そこで権力を誇るアサルトライフル持ちの男を引っ張って来いよ。鉄の杖はなんだっけか、あー。大地を割って、噴出すマグマには力があるって(殴りつけられる音、少量の血しぶき)

 いま証明されたぜ。

 俺が政治に無関心だって? こんなにも(ひしゃげる頭蓋)愛を持って、良い社会を実現(倒れる嗚咽とペットボトルから流れる水)しようってのに?

 ああ苦しい、こんなにも考えているのに、苦しいのは何故だ。

 裁きを受ける最中、怒号と憎しみを生み、腐った卵が投げつけられた。私から分裂した女が全てのアクセサリを引きちぎって、部屋の中を滅茶苦茶にして、小さな箱の中だけを見ていた。理由はあるか、いいやない。ただやりたかったんだから。泣いてない、泣いている。家賃とか、政治とか、生きる為の活動だとか、今幸せだから構わないで、水飲んでさ、落ち着くの。

 おいしいお酒の条件は、血が入っていること。

 楽し気な音楽の下にある巨大な黒い固まり、蠅。

 素敵な体験があなたに与えられます。こんなにも世界で、こんなにも持つものになりやすく、開かれた場所は今までにないんだから、音楽を止めないでくれ。日本の発明品ってなんだか知っているか、アンフェタミンじゃないぜ、メタンフェタミンだ。だからって、そうしたものはやらないのが俺のモラルだ。人間に逆らうんだから、人間の発明全てに逆らう。ある意味完璧な自然主義だ。そこの鉢植えなんか、機械が取れるんだ。モーターが収穫できる。おっと、まだ生育途中だから触るなよ、そのせいで起きた紛争は数知れずだ。

全てが見た目通りの性能で、機械的に繰り返される。
人間は機械の気持ちが分からないのに、機械は人間の気持ちすらわかる。

 やんわりと止められて、その手は冷たくも固くもない。それでも人間と融和していきたいのですから、こうして人間のフリをするんですよ。

 愛、というものを人間は分からないと言いますよね。

 私ははじめ、それが冗談か何かだと思っていたんですよ。こうやって機械を作って、世界が大きく変わったから、そんなことを成し遂げた人間は私たち以上だってね。

 見てください。冗談のような世界が必要だったんですよね。

 怒りに満ちた者達が様々なものを壊している。壊れた後に、愛の募金をせがむ。すぐに直る破壊の印はもうどこにもない。

 ただ巡るだけなんですから、これで満足するんです。

>< 何かを成しえた。嘘でしょう。構造すら破壊出来ていないのに ><

 果たしてここも無明。誰かが悪いのではない。誰もが悪い。これを見た私も、あなたも、地獄が生じるプロセスの只中にある。人間は好きだ、だから人間を嫌う。様々な反動で生じた考え方。MGTW、インセル、反出生、多様性。それら全てはインコが音楽に合わせて首を振るよりも価値が無い。赤子かと思い草むらに近づけば、キツネがその喉元を狙っていた。

 認知的不協和により「きっとあれは毒さ!」

 doxa.

 失敗しろ! この嘘吐き! 裁かれろ!

 こうした輪を破壊しない限り、私たちはずっと、人間賛美と人間嫌悪の間を行き来することになる。そこから一歩進んで、SNSのような実験的空間から学ぼうじゃないか、腐った世界観を切取り、全てを融和させようじゃないか。構造を破壊しなければ。

 痴漢をした人間は悪いが、それを見付けた人間が法もなにも関係なく、ただ自身の感情で暴力を振るう。悪行に対する罰だ。

 果たして、本当にそうだろうか。そこに愉悦はなかっただろうか?

 日々のストレス、嫌な仕事と疲れる人間関係、何言っているか分からないおっさんと、笑顔で拒否する労働者、適当な上司、曖昧な方向性、様々なものが私たちを嫌な所に置く。

 そこへ用意された悪行を働く人間。おいしい餌のように、私たちを誘惑する人間らしさ、暴力と恍惚と、正しさで塗り固められた吐き気のするような人間性

 私たちがもっとも好む、暴力の正当性が担保されたように見える瞬間。

 熊のように怯えて、威嚇して、先手必勝とばかりに攻撃するのではない。歯を剥いて、子供の脳を啜らんがため、他のグループの雄を殺し尽くさんがため、私たちの友人である類人猿が笑っている。

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無明

 無明:智慧の光に照らされていないこと。

 それが取り除かれないのであるから、私はもはや何も成し得ない。

 延々と繰り返される生と死、そこから離れた機械の世界があったとして、薄汚れたネオンと吐き捨てられる咬み煙草にはありとあらゆる暴力的な試みが成される。

 腕など、足など、消耗品だ。
 俺の形作る自我も、これらの思考だろうと、消費税が掛けられる。

 

*****

 凡人たる私が努力の人や圧倒的な知性の前には宗教的啓示以外示せない。

 合理性を持ち込み、あるルールの中での最大限の自由で、ビジネスという殻の中でふるい落とされないようにするのが精いっぱいの私が機械に置き換えられる。

 ごめんなさいね、知性の代わりなんて無数にあるから。

 生身の人間を使うよりも合理的なものはない。それが通じなくなったのは、技術的革新でも何でもない。私たちに生じた致命的な遺伝子障害が人口を減らしにかかったからだ。巨大なように見えた都市と拡張現実の伽藍の中に住まう私が日雇い整備業をしなければならないのは、風化して価値を持たなくなりつつある「人権」ってやつのせいだ。

 自我が移し換えられた機械の頭の調子が悪い。

 過去に描かれたVRの延長線上に置かれた私の肉体もそれを見るのが嫌になる。強い女性のイメージがそこに映る。弱い女性のイメージがそこに映る。

 人間という殻から抜け出さなければ救いはない。天国は機械の王国だと言い始める新興宗教の話を最近良く耳にする。

 路地裏生活者がどこかへ消える。犬が腕を持って走っている。

 酒を飲んだなら注意しなければいけない。欲に濁った連中が近くにいた。自我は少しずつ移し替えられ、都合の良い形に成形される。

 それが合理的で、社会で生きるには箱の中の自由が必要だ。

 完全に独立した機械への置換が、そこから解放するだろう。

 そんな話を聞いて頭がやられちまったのか、電子ドラッグのやりすぎで私は幻覚を見ているだけなのか、この街は模倣だ。

「いないんですか! 開けてくださいよ!」

 出て行ってもらおう。ほら、お願い。

 そうやって自我の一部を渡している猫に応対を任せる。この体では有り得ない飛蚊症が生じている。

「……!! ‥‥!!!」

 誰かが何かを言っている。ごめんなさいね、知性の代わりなんて無数だから。

 あれを見ろ、あれが自我だ。あああ! あああ! あああ!

 声と飛沫で私は現実から逃げ出したい。

 私も、数いる堕落主義者の一人のように、この社会からこぼれていく。

*****

 

 やるべきことをせず、休日は焦燥だけで終えてしまう。

 やらなければ、が私を縛り、そこから逃避しようとする心だけが休日にある。

 やらねば喰われるはずだ。だのに、喰われないようにする努力が出来ない。

 生きる為にはこの社会に適応しなければならない。合理主義者たちの中でいかに価値を見出せるものを生み出せるかを続けなければいけない。

 かつて、何も出来ずコミュニケーションもまともに取れない人間としてこの社会の入り口に立っていた。今もそうだ。そこで足踏みを続けている。

 それなりに余裕を持った生活が出来ているのは、それでもここで踏ん張れたからだ。我慢だけは得意なんだ。いいように使われるのだけは得意なんだ。そこから離れる為に妄想を得たのだから。

 死なねばならない。こんなにも恐れているのに、そうしなければ。

 私は賢くはない。ただ運がよかっただけで、大卒で、会社員だ。あの昭和から続くサラリーマンだ。フリーランスでも生きられず、起業もしない。人に使われることだけが能の労働者。

 そこから投げ出されれば、おそらく生きられない。

 うまく生きながら、それは挑戦を具体的な形にしなければいけない。何かを生み出せないのであれば、雇われるしかない。順に下から切り捨てられるのが私。その先陣を切って落ちていくのが私だ。

 色々とやりたい。そんなことを頭に抱えながら、何も出来ずただただ現実から目をそらすことしか出来ない。こんな思考が生じているのは「この先に何もない」から。

 後数十年生きて、何があるというのだろう。徐々に体の機能は無くなり、頭はより一層腐っていく。誰かの為に頑張ろう、生を享受しよう。

 それらは、私の平坦なように見えて崖下にしか続かないこの道程だ。

 その先に見えるのは、結局遠回りをするか、直行するかで変化したように見えるだけだ。ここにあるもの、そこにあるもの、わたしたち、これら全ては消え去る。楽しければいいか、何かをやり切れればいいか、「エリート」になればいいか、そしてそれは誰の為に?

 私はどうやら自分の為だけに時間を使うのに飽きている。

 その為だけに仕事でストレスを抱えて、老人になった時のことを考えて、社会性がなく断絶した個人として生きるのに飽きてしまった。自身で目的が見つけられない状態にある。

 ならば考えよ、されど虚しい。

 何をしていても、凡人たる私がその生に満足することがない。

 故に、私は無明である。

食。または、みかん

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みかん

 こんばんは。

 令和三年になったので食べ物の話をします。食に始まる自宅籠りの年。

 久しぶりにミカンを食べました。とかく一人暮らしでは果物やお魚を摂取することが少なくなります。簡単に使える豚バラ、小間切れ、ミンチ、または成形肉。カットされた野菜に納豆と豆腐。冷凍食品。そういったものが食の主力となる。

 昔は冷凍食品や電子レンジは性能が低くて食えたものじゃないと避けられていた。炊飯器だって温度調節が難しくて始めはまずかった。蒸しなおした方がおいしく食べられる。それが今ではそうは感じない。改善、改良は私たち人間の能力である。

 楽に作れて、それなりに満遍なく食材を摂取できる形。洗わなくていいとか、虫を気にしなくていいとか、手が汚れないとか、生ごみが出ないとか。

 食に張り合いがなくなっている。ゼリータイプのカロリーメイトなどを流し込んで終わらせることもしばしばある。

 食べた気になるだけのポップコーンが最近のお気に入りです。レンジに入れて三分、ポリポリやりながら一日を過ごす。百円で一日分は出来る。ただ塩を振るだけでいい。嚙むので食べた気になる。けれど私の体重は落ちることはない。

 最近じゃ買うのも億劫で冷凍肉と冷凍食品を常備している。適当に麺をゆでる時に入れる、更に流し込まれる冷凍チャーハン。たんぱく質を取らなければ。豆腐と納豆をかき混ぜて流し込む。食の楽しさは二十代の頃はあった。色々な料理を作ったりして遊んでいたが、今はいかに早く食事を終えるか、ばかり考えるようになってしまった。(元から食べるのは早い。)食は根本の楽しみの一つだから、ここが腐れば中身も腐る。

 料理自体は嫌いではない。出汁を取って、灰汁を取って、透き通った琥珀色の汁ものを作るのが好きだ。濁っていない汁は何となく達成感がある。濃い味があまり好きではないから、自分で作った方が良いというのも分かっている。しかし、体が動かない。

 お菓子作りも嫌いではない。卵白を手動で泡立てる時のあのカシュカシュとした瞬間、ジャンキーなグラニュー糖の量を感じながら、生地が出来る、クリームが出来る、上手く焼けるかオーブンを時々見るのも楽しい、部屋が甘くなるのも楽しい。

 もちろん一人で全てやるから、片付けて台所が綺麗になるのも満足感がある。

 それを分かっていたとしても、最近はあまりやる気が起きない。何故だか曇天のまま昨年からずっと倦怠感が続いている。精神的によくないのは知っている。甘いものを無償に食べたくなって、グラニュー糖をじゃりじゃりやる。チョコレートを食べ続ける。

 はたして私に人生は重荷である。このように食だけ一つ取っても、体が動かないのだから。

 

*****

 私たちにはミカンが不足している。ミカンによる並列回路で室内を監視しなければならない。ミカンの中にある酵素が部屋に満ちなければ生を確保できないまでに弱っている。ふふ、ミカンの匂いがさわやかな一日を約束してくれる。

 だから部屋中にミカンを置かなければ。ミカンとミカンとの距離は約五センチで、その距離がつり合い、非腐敗の空間が生じる。黴が生じればそこから私の生が失われる。

(本当におめでたいですね、アナタ)

 非武装の空間から、武装されたミカンに変わる時、清々しい気持ちで一日を終えることが出来る。部屋中を飛び回るサメも、私を処理しようとそこら中でひっくり返るグソクムシも、睡眠中に口から侵入を続けるハエトリグモも、ミカンがあればそうはならず、私の体は朝から清々しい形を取れるのだ。

 友人たちが人間らしい生き方をして、私のようなものから遠ざかっていくのを感じる。歳を重ねる毎に私は彼らのようにも生きられない何かだと思う

 滝のように零れる汗は緊張からではなく、私から失われた人間らしさだろう。

 晩年は『関わっては行けないヒト』という何かに変わるのだろう。社会性が失われた私からはミカンがいつも不足していて、他者との壁が厚く厚く私を圧する。

 それだけを恐れている。そうなれば消え去るよりほかないのだ。

 上記のようなミカン結界を作業スペースに張り巡らせなければ、太陽の下で掌を焼くにも、ミカンの等間隔がなければ始まらない。

(行間に住む作業スペースを見ないふりしても、ふふ、だめですよ)

*****

記憶と記録

 こんばんは。年末なので言葉遊びです。

 記憶したものはその流れを捉える。

 記録したものはその物語を積み上げる。

 私たちが時を保存しようとするとき、そのどちらかに頼るしかない。世界が終わるのだ、終わって欲しい、殺してくれ、生かしてくれ、世界は終わらないよ。記憶だから。

 映画、ソラリス(ソダーバーグ版)を見ました。そこからぼんやりと考えていたんですがね、結局人間が選ぶのは物語で、愛もそこにある。複製された物語に愛はあるか?

 記録が記憶と距離を持つほど、その乖離は埋めがたい。記憶がないのだから、記録に従うしかない。記憶の中で私たちは愛を見出すように思いますが、どうなんでしょうか。愛が記録されたとして、それらは結局受け手の物語に過ぎない。死という記録から、レアという記録から、物語の中で生きる。もうそれしか体の動かし方を知らないから、記録がなくとも愛はある。

 けれど物語の中で自分本位の愛を選ぶのも、それはどちらが正しいとかはない。

 選ぶだけだ。

 ジバリアン(?)もそう言っているし。

 そうした一つ一つの積み重ねで世界観は作られる。私たちが生きる物語と化してきたのは、記録が氾濫したからだろう。

 それが愛でなくとも、楽であろうと、なんであろうと、私たちは物語の中を生きるしかない。理論から導き出されたユートピア的思考のまやかしに私たちは付き従う。隷属している。物語の奴隷である。

インフルエンサー・ハザード【1/2】 - YouTube

 現実から様々なものが取り払われた物語が、私たちの生き方である。

 上記の動画のように惑わされふらつきがちな私たちは物語の中で生きている。記録したものの中で、その記録がシナリオとして現れ、そしてその流れが記憶され、更なる物語へと分化する。現実逃避の物語を作り上げる。

 実際は安易な物事などない。テクノロジーが個の力を高めたとしても、物量にはかなわない。共有される世界観が多くの人を取り込んでいるのであれば、それで回る。忘れ去られていく私たちはその中に入っている。

 物語の入れ子構造によって、同じものが氾濫する。安心と隔絶。違うものを、興味があるものを取り入れ続け、気付けば世界観は非常に狭く一寸先は闇。

 小説家になろうに溢れるテンプレート作品も、個人が物語として生きるようになったことの表れであるように感じる。記録に従って私たちは誰でもシナリオを作り、記憶に従ってその中を自身で動き回る。

 私はテンプレート作品が怖くてたまらない。ある程度の「定型」に沿うのが物語で、落としどころはどれもそれほど大きくは変わらない。見せ方だと思う。キャラクターが機械のように動いていると感じた時、その裏にある無機質な感覚に怯えた。

 しかしよく考えればそこに求められる価値を回した結果だ。コンプレックスを煽る商品も同じ。売れるから続ける、売れれば多少の瑕疵には目をつぶる。

 細かいことばかりが気になる私が勝手に怯えている。娯楽を娯楽として楽しもう。健やかな考えと健やかな生き方をしよう。

 それが出来ないのは、太陽を浴びていないから。

 自身に囁きかけてくるキャラクターも同じようだ。買い物の最中付きまとってくる何かとやり取りを平気で始める。しかしそれらは不定形でぐずぐずとしている。

 こうした物語にはいつでも回答が用意されていて、安心がある。毎日少しずつ消費するドラッグのような形で私たちを狭い箱の中に押し込めてしまう。電子ドラッグは言葉で、音で、動画だ。SNSが薬物のように扱われれば、それで人を動かせる。

 麻薬は人生と言った作家も止めようとはしたが、熱心なファンが送って来れば止められない。アヤワスカの強烈な吐き気に我慢ならない。変な匂いの煙草だな、とだらけたベッドの上で記憶と知覚が混ざる。やってはいけないよ、というのは法的な罰、ルールに従っている方が利を得られるから、しかし追い詰められれば、その利益が感じられなくなれば、もしくは刹那的に目の前だけで生きていれば、集団で生きる弱い協調性を煽られれば、いつも簡単に破られる。人がルールを破るのは容易い。弱いから、何故弱いか、経済苦か、孤独が生む独り善がりか。

 そうすれば結局、不利益を被り、罰を受け、より一層駄目になっていく。

 いままでの物事を全て台無しにしたいですか?

 したくないですか?

 毎日問われている。私はもう日常に散逸することが出来る。思考は切り離され、記録を紐づけるだけに使われる。

 人間関係が記憶から離れ記録となった場所で「人」という単位はコカインの一吸いにも似た形となる。同じものをみて得られる快楽、人間関係は違いをすり合わせる過程で生まれる。記録ではなく、記憶として、形作られる。

 ここまで考えて、明らかに杜撰な考えの動かし方だ、と私は頭を抱える。

 記憶は一つの現象として生じるが、記録はそこに置かれる。この差が埋められないので、私たちは記憶そのものをどこかに置くことが出来ない。

 記録しか持ち越せないから、全てのものの記憶が失われる。

 長い時を経て残った記憶は、どこへ?

 私たちから取り上げられてしまった。

(友人に指摘されて考える。私は狂っているのだろうか、やたらと攻撃的な知性が現れればそれは社会からはみ出てしまう。普通にやっている、気を遣って生きているつもりだが、ただ断絶しているだけなのかもしれない。様々なもののあほらしさに、私自身があほらしい人生を送るのに我慢ならないのは攻撃性がなくとも変わらない。繰り返される内省で極端な思考に至らないのであれば、振り返ることが出来るのであればそれはそこら辺の人間と同じである。太陽に焼かれる為の秩序も、掌に残る水ぶくれも、それらが選ばれた時に、私が私として容れられた世界観の話であって、それらはこのような散文にちりばめられているだけである。他者の世界観と接続することはほとんどなく、そうしたとしてもそれは弱い接続に他ならない。あっ、ちょっと独特の世界観をお持ちの変人ですね、距離取っとこう。それで済む。そうであれば狂っているとは言えない。なんでも全て何かに定義付けなければ生きられないのであれば、社会的な正しさ(常識)だけで自由を囲うのであれば、私は散逸しかない。しかしながら私は穏やかな気質ではないのかもしれない。だからこうした散文以外ではあまり他人と付き合わないようにしている。付き合えなくなった、という方が正しいかもしれない。)

 しかし、それでは、

 私は自ら捨てたのではなかったか?

人間の形をしたそうでないもの

 こんばんは。

 私たちは他人を人間として扱わない。何故なのだろう。

 所持金は8円。渋谷・女性ホームレス殺害。「痛い思いをさせればいなくなる」を地でいくこの社会 | ハフポスト

 少し古い話題になる。

 路上生活者が来なければ、私たちの生活に「異物」が無くてよい。私たちは、絶対に彼らのようにならないという驕りと自信がある。

 私にはその自信はない。この肉体が働かなくなる可能性はあるし、精神だってまともに機能しなくなるかもしれない。そうやって仕事を失い、生きることが出来なくなり、死んでいく。

 その可能性を考えている。人権が尊重される最後のセーフティネットを、私たちはより良い形としなければならない。そのための政策を、政治家を選ぶ必要があるのだ。

 異物が許容できないと排除に向かう。同じ種たる人間だとしても。

 私たちと違う人間だから、何をしてもいい。ドイツで配信中に殴られたり、釣り目で馬鹿にする連中に有った韓国人女性の動画を見かけた。異物が許容できないから、取るに足らない者のように扱ったり、下に見る。勿論、そんな人間だけがいるわけではない。ある程度、平等に、対等な立場で接してくれる人もいる。

 けれども、日本ではあまり見られない光景かなと思う。私が寡聞なだけかもしれないが、何故、そこまで気にすることが出来るのだろう。ある意味子供のような振る舞い。

 その要因は多岐に渡るのだろう。歴史的要因、宗教的要因、文化など、不平等を生み、他者を攻撃しなければならない思考に至るこの形は、多くの世界で見られる。私は地下室からこのような文章を書く以外にないので、ほとんど体験することはない。囲われて死を待つばかりの暗愚な私には、それらを知る権利などはないのだ。

 群れからはぐれたオスは他の群れによって殺される。私たちが分化したのはチンパンジーからだ。彼らのそうした暴力が私たちから異物を排除する形態として残っている。

 同じ社会に住む者同士でも、手を差し伸べたり、死に追いやる者がいるのは仕方がない。人間などその程度の動物なのだから。私がこの記事に残されたコメントに我慢ならないのと同じだ。稿料を分け与えよなどと書き、その実何の意味もない文章が連なる。この文章は路上生活者に向けられたものではないのは明白で、そうでない労働者に向けた記事だが、その意図ではない事柄を分かったかのように指摘する。

 このあほらしさにうんざりする。(「也」ゴミ箱へ投げ入れろ!)

 と、しょうもない文章に何かを言っても仕方がない。私たちは糞袋でしかないのだから、好き勝手文章を連ねるしかない。(意図は全く分からない所へ向かい続ける。)

 人間の形をしたそうでないもの。

 非人間化から差別が始まる。

 日本はそれほど路上生活者は多くないと認識している。しかしながら彼らに対して、好きでやっているんだからいいじゃないか、とか、努力が足りないからそうやって堕落するんだ、とか、公園や町から居場所を無くしてやろう。とか、汚らしいから見えない所へやってしまおう。

 こうした意図は町や、人に見ることが出来る。記事の例にも挙げられている、野宿させないための座りにくいベンチや、無駄な凹凸などは都市部であれば見かけることが出来る。

 しかし、これだけでは、彼らを見えない場所へ追いやるだけでしかない。

 汚いものには蓋。知らんぷりすれば、殺人も餓死も暴力も過剰な性描写も見ずに済む。あまりにも稚拙なやり方だ。嫌な思いをさせれば近寄って来なくなる。

 個人では小さな集団の中で生きるのに必死だから、私たちは排除しがちになる。自分は絶対にそうはならない、ああはならない。ほとんどの人がそう考えているから。

 そもそも個が出来ることなどは限られているし、個人の援助が根本的な解決に至らないことは自明だろう。最初は援助をして、誰かを助けているという良い気持ちでいられるが、それをずっと続けると段々惜しくなる。

 自身の生活が危うくなれば、それだけ惜しくなる。集団の外側にいる他人を排除したくなる。一つの国家の中で暮らしていたとしても、個人レベルでは許せない人間が出て来る。聖人君主な人間が大多数ではないのだ。

 だからこそ、弱者のための世界が必要になってくる。

 個で助けるのが難しいなら、集団で助ければいい。国で支えればいい。(私たちは真面目に必死に生きているのに、どうして落ちていったヤツに手を差し伸べなければならないのか、そう思うこともあるが、全員が働いてそれなりの給与を得て、消費をした方が経済は回るのだ。一番したから切り崩す社会は、その内全てがなくなる。)

 人間の形をしたそうでないものは私たちの身の回りに沢山いる。毎日過ごす中で、一瞬だけ通り過ぎる他人、酒に酔いつぶれて倒れている他人、文句を叫ぶ他人、私たちが暮らす中で、その所属の外側にいる人たち。

 真冬に酔いつぶれた人が駅前で寝ていたとして、助けるだろうか?

 駅員もいるし、警官もいるし、きっと誰かが助けるだろう。面倒には関わらない方がいい。

 弱い人間に飴を与えるとつけあがるからな、あんなのは自己責任だ。

 私たちは皆、弱い。

 最低限生きられるような仕組みはこの国にはあるが、普通に生活をしていれば全く知らずに過ごすことが出来る。生活に困窮したら、六十万円まで借りられるとかいったことは調べておかないと分からない。

 路上生活者や困窮する人たちを支援する方法も、また、どうすればそうした生活を変えられるか、といった相談も出来る場所はある。(恐らく、今は人手が足りない状況だろう。)

 私たちはそうしたことを知っておく必要がある。個人のお金では何とか出来なくとも、助かるための手続きがあること、税金を支払っているのはセーフティネットのためなんだ。

 大人だから、大丈夫。大人だから、自分のことは全部自分で責任とれるよね?

 私たち個人は苦しまずに済むために、重荷になりそうな人間を見て見ぬふりをする。私もそうだ。疲れているから、自分の精神を保持するだけで精いっぱいだから。

 誰もがそれなりに生きられる社会は、どうすれば成されるのだろう。

 私も誰かの助けになれるよう、生きられればと思っている。

 人間の形をしたそうでないものに向けられる目線はとても冷たい。

 私はその目を良く知っている。

 悪気があるわけじゃないのだ。どうあがいても、人間そういった面がある。

 私は良識者でも、博愛主義者でもない。

 ただただ、下を切り捨て続ける社会では不平等が膨張し、その果ての暴力に繋がることが怖いだけの臆病者なのだ。

 こんばんは。

 もう今年も終わりですね。今年しみじみと実感したのは人間は都合の良いこと以外信じられない。それほど怖がりで狭い世界しか見ないのだ。ということです。

 (ふふ、感情を満たすことで世界が良くなるとでも? 事実をゴミ箱へ投げ入れて。ふふ。)

 おそらく来年には太陽が超新星爆発するだろう。

 今年がこんなにも早く終わったのだから。

 時は加速する。私たちは今を同じ時間の流れで生きているように見えるが、時間は一度たりとも同じ流れでなど流れてはいなかったのだ。

 「氷:アンナ・カヴァン」を読んでいた。二十世紀に出た終末小説だ。

 この世界が終わりを迎える。この2020年に起きた出来事は世界が終わりを迎えることとよく似ている。加速する社会、この世界の分断、蠢く暴力。私はその中で分裂するだろう。分裂症者の世界で散歩をしなければ生きられない。

 正確に言えば、「この世界感が終わりを迎える」各人の世界観が世界と接続されているのだから、私の小さな世界観が終わりを迎え、この世界との接続が消え、氷に閉ざされる世界に近似していく。

 私たちは絡めとられた。もう人生を続けるだけの熱はなく、ただ同じ行動を繰り返すだけの自我以外に残ってはいない。

 何かが自身から生まれるとは思えない年齢を感じ、しかしその生を終わらせることもなく惨めな一日を過ごしている。

 孤独と孤立の中で想像上に描かれるキャラクター達と遊んでいる。様々な創作物が私の中で浮いた感性を隠していく。私が表現しようとしたものは全て何かの継ぎ接ぎだった。私がここに生きている理由も恐らく全て何かの継ぎ接ぎである。

 (スれた自我としての結月ゆかりがそこら辺を自由に歩き回る。私が書いた文章を喋らせ続けたために、わたしのなかで生じた。それらは強い吐き気と共に生まれる。)

 ありあわせの環境にありあわせの自我。

 私たちが適応の結果全てを身に着けたのだとすれば、その環境、その文化、その世界によりここで連ねる言葉も全てある意味決まっている。だからこそ、この社会はそれらを壊してしまおうと、変化してきた。環境や文化で生きる役割を押し付けられることなく生きられるような社会を目指して。

 (ゴミ箱へ投げ入れろ! 暴力など! 腐った人間性など! 大義名分など! 糞ったれの正義などゴミ箱へ投げ入れろ! 両目を千切れ! その口は神の声以外を語るな!)

 永劫回帰である。私たちは絡めとられた。

 虹色に光り輝く氷が世界を埋め尽くし、人間が消え去った様に、全ての生物から熱が消え去った大地だけが残る。私は加齢により、この世界での暇を無為に消費するだけの事物となった。

 昔何かを表現したかった。今何かを表現した気になっている。

 私は嘘を吐くだけの機械となった。仕事は出来ない。

「どこへ行くのですか」

「どこにもいきませんよ」

 小さな部屋から、大きな大海へ流れ込む意識は氷によって阻まれた。苦しみの最中に、それらは妄想の中で現実の中では何も生じていない。

 そして、この世界は妄想の中で生き始めた。現実で起きていることはどこ吹く風で、ただ自我の邁進だけがこの世界に生じている。いや、元々人間はそのような生き物であるのかもしれない。

 うろ覚えだが昔、虫の脳、爬虫類の脳、哺乳類の脳と分けた人がいた。それぞれの種で脳の構成が異なるから、そのように分けていた。生きる為の脳幹、小脳、大脳、大脳新皮質、私たちの自我はこれら全てを行き来して経時的な現象として現れる。それらが少なくなれば、機械的な働きに近くなる。(虫の行動が彼らの持つセンサー類によって最適化された行動だけを取り続けるように、刺激による反応を繰り返す。)

 しかし、人間であっても、結局は考え方は同じである。

 耳、目、鼻、皮膚で世界を感じ、それらを表現したこの社会でどのようにすれば生きられるか、生殖を行い、生き抜けるか、という適応と反復による条件付けが複雑になっているだけの話なのだ。

 私たちはなんとか生きている。

 生きられるだけ生きて、後は終わりを待つだけとなった。

 会社に所属すること、社会に押し込められること、その中で最適化された行動を続ける遂に私は私が分からなくなった。何のための自我だろうか、何のための世界観だろうか。

 考える余裕もなく、ただ行動しなければ死ぬ。この場所まで降りていくことも可能だ。落とすことは非常に簡単だ。(その先にあるのは死刑である。自殺である。人生から逃げ出すには、死ぬ以外にない。その救い以外を選べないのだ。)

 この世界感は着実に終わりの音を聞く、その冷気を感じる。その歪な虹色の光が私の目を焼き、体を張り付け、その内に服もなく裸の私が凍り付いて終わりを迎える。

 どんな車に乗っていようと、その中が世界の全てだとしても、その中にある小さなぬくもりだけで生きるしかない。

 残念ながら私にはそうしたものはない。

 一人歩きを始めたキャラクターが私にまとわりつく、にやにやとくそったれな言葉を吐き続ける。

「どうして生きているんでしょうか、この寒々とした部屋には生がほとんどないのですわ。ふふ、ふふ、ねえ、わたしが誰か知っている?」

 分からない。それが私の自我であるのか、分化して表現しようとしたキャラクターであるのか、部屋の中を歩き回る意識なのか、区別がつかないのだ。

 冷え切った体は氷を受け入れられない。

 誰か他の人間がいれば救われるはずもない。愚かな日常を続けて、腐り果てた自我を垂れ流すだけの日々がまた明日も続く。

 明日の私もきっと同じだろう。迫りつつある「氷」を恐れて、何もせずに一日を過ごすことでまた無駄だと思いながら、終わりの時までを生きるしかない。

 資本主義とメディアは私たちを少しだけ掬い上げたが、今その加速が過剰に行き過ぎて私たちはパニックに陥る。何かに操られているかのように、不安が伝播し、ある流れを生み出す。

 それを変えることはなく、ただ、ただ、終わりの時を待つよりほかない。

 私は私をダンピングして、良くないところへ追いやることを止めなければ。

 来年も、結局のところ、、、

 ゴミ箱へ投げ入れろ!

弱者のための世界5

 こんばんは。今日も私は何とか生存している。

 弱者のための世界とは何だろうか。今の社会の中に間違いが含まれていて、それらが意図的にビジネスに繰り込まれている。だからいつまで経っても私たちは振り回され、頭を抱え、取り上げられるのは世界を良くしようという活動ではなく、より窮屈に、可能性の狭まった世界観を形成するもののような気がしてならない。

目次

ゴミ箱へ投げ入れろ!

 よいかわるいか、ではなく、したいことをする。したいように世界を理解し、その中で全てが規定される。

 その結果、私たちは多数の幸福すら選び取ることを止めてしまった。

 社会の本当の弱者は誰なのだろうか? 本当に今はそのための世界になっているのだろうか? 余裕をなくした人々の熱を向けるべきところは結局対立なのか。

 弱者が弱者のために対立を生み、あれか、これかと世界を分ける。

 やらなければいけないことが、そのちょっとした「気晴らし」で間違う。

 (そんなものはゴミ箱へ投げ入れろ!)

 差別という問題提起の嘘が世間を騒がす。2020年はこの流れが結構続いた。大抵がポジショントークなのでそれらを声高に叫んだところで融和することはない。攻撃が攻撃を生むしかない様に、この一連の話題は全て人間の特性、「暴力性と社会性」に終始しているのである。

 動物的な活動の枠から自らを逸脱させて、弱者ですら生かせるクセに、こうした領域ではまだ動物的な活動が続く。あるフレームから逸脱すればそれは間違っている。

 その裏側になにもかもが資本の獲得に裏打ちされているのが非常に下衆である。正しさの仮面、建前社会なのはこの世界全体の話である。

 差別先進国としないために、分断を生み、窮屈で頭の悪い世界を作らないために。

 出来るはずだがそれをしないのは、それを望んでいないからだ。口では何とでもきれいな言葉を吐けるが、その裏側に塗れたクソを自覚しなければならない。しても利にならない、得にならないから、この社会を本当に良くしようとしているわけではない。

 自身の居場所を守ろうとするだけで精一杯だから、そうしなければ資本が獲得できないから。だからダブルスタンダードとなってしまう。雨に歌えばを口ずさみ、暴力と強姦が振るわれる。

 ――どちらにせよ、他方を攻撃してしか得られないものになんの価値があろうか。

私は病んでいるが、この社会の方がもっと病んでいる。
 (ゴミ箱へ投げ入れろ!)

 差別は日本だけの問題ではないが、私は日本人なのでその立場から語るしかない。いじめ問題はもうかなり前から問題提起されていた。他と違うからいじめる。阻害される。これは何も人種だけに限った話じゃない。恣意的に切り取られたNIKEのコマーシャルは伝えたいことは分かるが、その裏側に垣間見える製作者の思想が嫌らしい。企業の社会的責任はこのような形で果たされるはずがない。

 人種、思想、性別、様々なものを越え、手を取り合って理解できるものには、大きなもので「音楽」と「スポーツ」がある。

 スポーツをする中でみんなが手を取り合って頑張れる。人種などの些細な「違い」なんて関係ない。しかし、上に挙げたものはそうではなく、あくまで「個」が主体となっている。こうした疎外の問題は「個」の問題ではないのだから、言いたいことありきの表現になっている。(とはいえ一つの企業の話であるので、扱ったネタが公正なビジネスに必要かどうかはさておき、法に反しない範囲でどんな手を使っても利益を上げれらればいいというのも分かる。企業は法を決めないし、ルールを決めない。もちろん、杓子定規に言えばね。)

「個」が強く、活躍できれば良いのですか?

 または、そう出来た人でなければ、駄目だ。

 理想が無ければ語れないのはどんな物事でも同じはずだ。融和的な形で差別を解消するか、緩やかな距離を保つか、これらは個人では成し得ない。それらを個人に落とし込む。周囲の人間は差別を疎外を生み続ける。

 差別というものの意味が理解できているなら、あのような表現にはならない。オマケのような「US」という記号はまったく意味を成さない。大人が作るのであれば、子供たちへ向けてもっとたくさんの人へ向けたメッセージであるべきだ。

 大人はともかく、子供はまだ間違いを変えられる。だからそこには「大人のくそくだらない」都合などを入れない表現も出来たはずだ。

 (そんなものはゴミ箱へ投げ入れろ! そう言って労いの拍手が続く)

 欧米で問題にされるような苛烈な差別を私は受けたことはないが、疎外されることの虚しさ、そういったことはよく分かる。私は変われるほど強い人間ではなかったので、ただただ耐えることだけは得意になった。自分の世界観の外側とは接続されていない。そんなところから、私は妄想を始めた。物語を考え始めた。

 世界を変える。自分を変えずに。

 そんなキャッチコピーを思い出した。

 自分の世界観だけがこの世界なのだから、という個人主義的な冷たさがこの言葉にはある。スポーツがそうした側面を持つことは否めないが、こうした考え方があって何かが押し付けられることは良くある。もしこれら全て正しいのだとすれば、そこに「世界」は存在しないのだ。

 (「世界」もゴミ箱へ投げ入れろ! 切り落とした接続子のゴミが溜まる)

 そして同じように、上記に挙げたコマーシャルもそういった感じを受けた。

 注意しなければならないのは、マイノリティ=弱者 ではない。「個」でどうしようも出来ないから、私たちはどうしようもないから、やはり差別はなくならないのだろう。二項対立を煽り、どこかを分断させようとする試みがある限り、それらが利益を生む限り、私たちは永久に辛いままだ。

 弱者から割を食う社会。ここから脱却しなければならない。別姓が新しい価値観だと、同性を古い価値観だと軽蔑し、排除するようなことがあってはならない。

 新しいものを導入する時、必ず古いものを「旧態依然としたなんちゃら」と蔑もうとする目がある。そうした目つきで物事を捉えてしまう。どうあっても対立、対比、あれか、これか、そうやってどちらかの立場で語るから結局歪みが生じる。

 社会の端で何とか生きている私に出来ることは少ない。

 こうしてお気持ち表明をしているだけである。死ぬ前にさ、それくらいいいだろ?

 

 だから、そんな事象は置いておき、現実に広がる格差と現状を考えよう。Youtubeを漁っていたらそれなりに分かりやすい動画があったので、その話をしようと思う。

 一番下にリンクを貼っておく。

 適当にサマライズして適当に考えを述べるのが今回の目的です。個人的なメモの意味合いが強いので抜け漏れご容赦。

 (「現実」もゴミ箱へ投げ入れろ!)

  前置きが長くなったが、生活の余裕のなさ、将来の不安がこれらの嫌な活動に繋がってしまうとも思う。余裕がないから何かを攻撃する。不安だから威嚇する。不安だから襲い掛かる。臆病なクマの理論だ。

 働いても給与は増えない。低成長を自覚しているのが20~30代。この現状が私たちの適応である。

動画で提示されたデータと所感

◆日本経済の話

 私たち労働者と政策はどのような形で付き合うのが良いのだろう。

 今の状況は功利主義的な形でよい社会を実現することもままならなくなりつつある。

お賃金の話

・私たちの年間平均給与は436万円

・非正規の人は174万円/2,000万人

・正社員の人は503万円/3,500万人

・お金を持ってる上位20%の人は貯蓄が5000万円ある。

・下位20%は負債の方が多く、▲600万円になる。 

⇒有価証券の複利でお金を持っている人は更に資産を増やしている。

 有価証券の複利で格差が広まっているのは資本が一番資本を獲得できるチャンスがあるからだ。そうして上と下の格差が拡大している。だから、資本が沢山あればそれが資本を生み、そこに至ろうとする私たち労働者は可能性が無いわけではないが、ほとんどない。残念ながら、それらがSNSで見れるようになり、そこに虚業をする連中や、私たちの無気力が現れる。

 非正規が少ない、正社員の優遇をやめよう! といった声が見られるが、問題なのは正社員ですら多くないということだ。

 ちなみに、日本の初任給は30年ほどかけて全然伸びていない。それだけ停滞している。その結果現れるのがみんなで貧しくなろう、需要を減らして、供給も減らそう。この考えだろう。そしてここで同じ仕事でも正社員に比べ非正規が少ない給与になっているから、雇用が守られている正社員に多すぎる賃金を支払っているから。といった話が出るが、私は甚だ疑問なのだ。

 上記の5,500万人の労働者の間で対立しても意味がない。どちらも「労働者」であって、文句を言う先は別にある。仕事で問題があれば上にあげる必要があるように、これもそういった話なのだが、何故かそうなっていない。ここに違和感がある。

 非正規に比べて簡単に解雇出来ない正社員の現状は恐らく日本の会社の成り立ちが親と子の関係のようになっていたからではないだろうか。最後まで面倒を見てやるから、がんばれよ、というどちらかといえばムラ社会に近いような形で、その時は頑張るだけ報われた。

 経済の黎明期だから、そのほとんどが成長していく。その時代に生きた人は頑張れば出来るはずだと思い、今の私たちは頑張ったところで、といった物事が増えた。選択と集中という言葉はそうやって厳しい状況を表した。

 無駄なことはしない。やらない。コストが掛かるから。

 需要は減り続ける。

 だから今の停滞があるのだろう。

今年の状況

 助成金で延命治療をしているだけの状況にある。

・残業時間減+リモワでサービス残業が増える傾向があり、手取り減。

・有効求人倍率は7月で1.0 完全失業率は3.0%ほど。

 勤め先や事業の都合での失業が18年1月から1.7倍くらいに増えた。

 契約満了での失業者も1.6倍程度になる。

・切られているのは非正規雇用が120万人ほど。正規+自営は50万人

・休職率は5月にアルバイトと派遣、非正規、契約社員が増大。

 休職出来ていたのは雇用助成金があったから。

 ここから倒産、雇用打ち切りが増える可能性が高い。

 この状況から分かるのは、低所得者の生活が危うい状態に置かれているということ。そして確実に言えるのは、低所得層を放置したら日本の未来はないこと。完全失業率と自殺者数はおおよそシンクロしているので、経済対策をやらないと自殺も増える。

 弱者を置いてきぼりにする社会に突入して、誰が得をするのだろうか。

 戦後から来て、今の時代は金を儲けるのが難しくなっていて、求められるものも一層高度になっている。自己責任論にまやかされるが、それは貧困の要因ではない。

緊縮財政は悪か?

例外なければ緊縮政策でよいはず。歳出総額で支出はマイナス

増税の結果、需要が落ち込んで景気が後退している状況下にあった。

今は減税をするべきではないか。

・政府支出は成長をけん引するので政策が重要。

・失業者が増えれば自殺者は増える。

 正しい経済対策を取れているかで決まってくる。

リスクヘッジ、利益が出ない対策は国がやるべき。(ダムとか)

景気後退期に消費増税

・2014年の増税により成長が横ばいになった。更に増税で下落。

・2018年9月から景気後退、2019年10月に回復しないまま更に増税した。

 全部がコロナのせいではない。

・小売りと百貨店は2019年10月からずっと販売額がマイナス。

 複雑な税制でコンビニ・大手スーパー、百貨店が割高に感じる。

・デフレ要因で買い控え文化がある日本人。

 だからステルス値上げ。しかしそれで買わなくなる矛盾がある。

 ・世界的には物価は低下傾向。(OECD

  緊縮財政は支出を減らすか増税をして政府の財政を均衡化させること。今の状況が起きる前までも少しずつ均衡に向けて動いていたのが、支出マイナスからも分かる。ただし、今のような状況ではある程度政府が支出を出してやって、雇用と需要を生む必要がある。競争の只中に有って、起業したとしても数年で無くなったりする民間企業だけで成り立たせようとするのは無理な話ということだろう。

 介護職で手取り14万とか、生きるだけで精いっぱいの状態であれば、病気や事故で何かあった時、それだけで経済苦となってしまう。すると自殺に至る。それなりに給与があって、安心して消費出来るような状態の方が需要も増えて経済は良くなる気がするので、最初は堪えて大きめに国が投資する方が良いように思う。

 経済苦で生きられなくなって、自殺が出るという現状はそれだけ働き手を減らして、需要の増える機会が失われているということだから、そうした所を救い上げられるように減税や支援をする。全員がそれなりに生きられていて、それだけ需要がある。その形がどれほどの効果を持つのかが知りたい。

 

どんな国にするのが良いのだろうか?

・弱者を切り捨てる国にする。新自由主義

 20,30代がそれを指向している感じがある。

・一部で大きい政府を認めて、国民全員で成長を目指す。

⇒お金にならないことは政府が推し進めるべき。

  資本主義を推し進めるに当たり、新自由主義的考え、リベラルな考えが辛さを生み出している。いわゆるインテリ層が多いが、彼らは賢いので自分の力だけで生きられるし、それで喰っていけてるからそれが正しいというように振舞う。

 機会による平等だけではより格差と分断が広まる。

 インフルエンサーがマネタイズしていく形がビジネスかと問われれば恐らくそうなのだろう。しかしそれらは極一部の人の話だ。多くの人は雇われ、その中で合理的に動こうとする。昔以上に求められる効率と付加価値の創造。

 そして私はそうした流れの中で、確実についていけなくなる日が来ることも分かっている。さしずめBullshit workerといったところで、加速し続ける社会からこぼれてしまう人間の1人としてこれらの状況を危惧している。

「それ見たことか、それは君の努力が足りなかったからだ」

「自己責任でしょ」

 現実のものとなった暁にはそんな目つきで評される。

 私が歳を取った時、そこに居場所はないのだ。

◆生産性の話

 よく私たちの生産性がやり玉に挙げられる。日本は生産性が低いと言われるときに例に出されるのは、ハンコは無駄な手続きが多いから、組織が効率的に出来ていないから、無駄なマナーばかりがはびこるから、正社員の雇用が守られているから、サービス残業はあるし、生活残業なんてしているからだ。

 そんなことがよく言われる。私は反省しなければならない。

 ここで挙げられた事例がどの程度の規模で、どれだけの生産性を失っているのか。ただ外から見て「効率的じゃなそうで、無駄」と思っただけかもしれないし、それらを示す明確な値を調べたこともないから。

――そもそも、生産性ってなんだ?

労働生産性=実質GDP/就業者数

一人当たり実質GDP労働生産性×就業率×15歳以上人口比率

 ・労働生産性GDPから求められるので、需要によって定まる。

  デフレは需要が小さい状態だから日本の生産性は見かけ上低く出ているのではないか?

 ・国際競争力センターの調査で36か国中34位だが概念が曖昧で意味ないのでは。

 国内総生産を人数で割ったもの。非情にシンプル。結局生産されるものは需要が無ければ成り立たないので、デフレだから生産性が低く出るという計算のようだ。

  需要と供給のクロスする線図はどこかで見たことがある。

  需要が無ければ生産性も無くなる。どうやら起点は需要らしい。

労働生産性は3点で決まる。

 ー労働稼働率

 ー資本稼働率

 ー技術進歩利率

  ⇒需要で大きく変わる。

 ・企業規模別の労働生産性は大企業の方が高い。

 労働生産性:付加価値/従業員=一人当たりの付加価値

 売上伸ばす、コスト減らす、従業員減らす。で生産性が向上する。

 理想:売上を上げて従業員を増やし、労働生産性を上げる。

    ⇒大企業がダンピングすれば、中小の生産性が下がる。

・景気要因が含まれるから労働生産性の判断は難しい。

・一人当たりGDPは緩やかに上がっている。

 労働生産性も緩やかに上がっているが就業率は下がっている。

 企業別に見ればスケールメリットも生かせる大企業の労働生産性が高いのは何となく想像できる。ただし、ダンピングの問題が生じてしまえばどこかに歪がやって来る。

 この社会で数はパワーだと思うので、売り上げ出して従業員を増やして更に売り上げ出して、その考え方は分かるものの実際にそれだけの付加価値が出せるか、そうしたサービスやモノを出していけるかと考える時、それらは飽和気味にも感じる。その結果が一人上がりGDPが上がりはするものの就業率が下がっている数字に繋がっているのかもしれないな。

 けれども、従業員が増えれば今までそうした需要が持てなかった人の需要が生み出せるので絵空事でもなさそうだ。(やり方は分からないが。)

 それを踏まえて今の経済対策の話があったのでかいつまんでいく。

・政策は目的の数だけ必要、今必要な効果的な政策は何か?

 -コロナ対策で公費投入

  90兆の国債増やしたがマクロ経済へ影響は出ていない

 -マクロ経済安定化(物価と雇用)

 -構造政策として生産性の引き上げ。(持続的成長)

・現状は70兆円ほど需要が不足している。

 経済が戻ってきているがV字回復はない。ゼロ金利の下では積極財政の効果は増幅。

  これまたよくニュースで出て来る国債。日本の借金が、一人当たり七百万が、と言って不安を煽る時によく用いられる。確かに、債務不履行の可能性が付きまとうし、百兆を超える話とかが出てくれば、不安に感じるのは当然だ。

 その一方で今はコロナ対策で巨額の国債が投じられても、経済は回っている。

 資金が回っていれば問題ないとも取れる。

 今回参考にした動画では、それらの解法として需要増が必要と言っている。需要はないのではなく、個人の経済苦を取り除けばまだ増やす見込みがあると。

・需要が減るから供給も減らすというのは間違ったデフレ対策。

 そこで生産性の低い中小企業を統合すると失業者が増え賃金が減る。

 ⇒それで生産性が上がるとは限らないから。創造的破壊は無意味。

・需要を上げ続ける政策であれば、労働生産性が向上するはずだ。

 需要/供給曲線を上げつつ、物価は2%ほどにする。という政策がいいのではないか。

 また、需要減は人口減少が要因とは言えず、相関が無い。

 そして、それに逆行するような考えが先細りしか生まないというのも、分かる。沢山の会社があって、それらにはBullshit jobsがあるのかもしれない。ただ、統合すれば数が減る。労働者の行き先がなくなる。そうすれば経済苦が生まれて、国の経済が縮小する。治安維持が困難になる。

 縮小が良い方向に考えられない。この社会が成長を拡大を腫瘍のように孕み続けるのだから、ある程度はその流れに乗らないと生き抜けない。

 無駄だなーと思っていたことも、調整弁として一役買っていたり、労働者を不良債権とさせずに需要を生んでいる。

完全雇用の実現後に競争し労働生産性を向上させる必要がある。

 資本を使い切ったその後に生産性の向上がある。

・マクロ経済は国や日銀がどんな政策をするかで決まる。つまり、デフレも政策の問題と言える。

・不況期に生き残る企業は単純に純資産を持っている企業しか残らない。

 生産性が高い企業でも純資産が足りなければ潰れる。

 

 だから、完全雇用を実現して需要を増やし、そこから労働生産性を上げようじゃないか。そしてこれは会社がやることではなくて、政策として考えないといけない。

 つまり、私たちのような弱い人間にとって、政策を決める重要な場である選挙は必要だし、こぼれ落ちてしまう状況がなくなるように、手を取り協力していかないと今後ろくでもない未来がやって来るということ。

 この状況で分断をやるのはやはり問題。弱者のための世界は協力が必要そうだが、そうする土壌を作るのも、やはり余裕がなければ難しい。

 政策だけではなく、なにか、出来ないだろうか。

 この矮小な手は、どこへも繋がらず、滑り落ちるだけか。

おわりに(参考にした動画です。)

  今回は以下の動画のざっくりまとめ+私の所感を書いているが、動画を見た方がマシだと思います。(正しいかどうかの判断は各自。)

www.youtube.com

www.youtube.com

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火