Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

ただ励起され、この身の慌ただしさ

 ずんぐりむっくりとした。そんな形容が正しいだろう。

 わたしの自我、僕は忘却のまま、実際受け取る情報は歪んで認知の坩堝に煮込まれてどろどろとしたものを形にしていく作業。

 このブログというもの。

 ざくざくと並べていく文字の胡乱な流れ、美しい流れを描こうとするも何もない。

 気晴らしのドライブで見つけたアメリカンダイナーに入り、ハイカロリーな揚げ物、ブリトーなんかを食べ、コーラで流し込む。暴力的な食、そして明日が来なければいいのにという逃避行、どこまでいってもその無意味な構造に、そこまで苦労して労働を続けなければいけないのだろうかと疑問は尽きない。

 社会に出れば、その社会性の無さから、その能力の低さから、組織の中であまり重きを置かれない。期待もなく、誰かには呆れられ、軽蔑され、それでも時折感謝されたり、人の役に立てることがあると嬉しい。

 自分が上に立って、リーダーとして大きな仕事をする。などと言ったことにはあまり興味がなく、人から感謝されるような役割を持てないか。

 ちょっとした理系的な知識と、素直な態度を持ち、人への気配りがあまり出来ない。

 ずるずると日本的雇用のレールに乗っかって、何とか生きている。

 けれども、それも徐々に厳しい状況へと変わっていく。高い能力を持たなければ振り落とされていく。そんなように思えてきた。

 この社会で生きていくために、ある程度余裕をもって生きられるように、そんなささやかな生活ですら、この行く先には用意されていないように感じる。
 増えるばかりの税金、この社会を良くしようとは思えない政治、人がもっと頭を悪くなるようにと増えるコンテンツ、SNS、誹謗中傷に、弱者向けビジネス。

 あほらしいDMが届いて、お金稼ぎや投資、美人局のような内容が溢れる。

<ああ、やはりこの社会は地獄なのだ>

 誰かがそう言っているように思える。この乱反射するエコーの中で、気楽に、様々な物事に対して話をする、意見交換をする、自身の世界を広げる。
 そういった場が自身の回りにほとんどないことに気付いた。LGBTの差別問題や、それに対して知らないわたしたち、このマジョリティの社会に乗っかって生きてきたものが感じている事に対して、強い言葉で否定が飛び交い、知りたいと思うけれど、どこか好きに発言できない息苦しさ。
 それでは、分からないものをどのように理解すればよいのだろう。
 言い負かされるとか、無理やり論破されるとか、そういった話でもない。何故そうなのか、どうなればよくなるのか、膝を付き合わせて偏見や意見を出す。目の前にいる人を尊重する以外に価値はあるのか、社会構造の問題であるならやはり市民から出てより良くするための活動が必要だ。

 けれども、そうした団体や活動をしている中には、税金を浪費しているものもいる。

 何か、既得権益としたい流れ、甘い汁を吸おうとする流れ、この社会など良くならなくても全然いいような振る舞いをする人々。

 そういった事象を眺めていると、思うのだ。

<ああ、やはりこの社会は地獄なのだ>

と、

喚いてもただ一つの自傷癖

 人間なのに感情から逃げられると思っていたか?

 どう考えても不可能だ。お前が人間という構造に落とし込まれている限り。

 

 感情というものから逃げてきたので、ふと様々な感情をぶつけられるとそれを何とか乗り越えることすらも出来ずに逃げてしまう。

 それはプライベートでも、職場でも。そうした感情を持っている人と関わるのが苦手で、それは年齢や性別、立場関わらず耐えられない。

 最近どうやら隣の島の若手が僕の仕事ぶりを外から見て「嫌いだ」と大きな声で言っていたのが聞こえた。特定の個人の名前を上げていなかったが、これまでの話の内容から僕の仕事の結果についての事らしい。その次の週くらいに、イニシャルで濁して話しているのも聞こえていた。僕からはきっと良い案も出ない。言葉の端々に感じる軽蔑。

 これは幻聴だろうか、そうであればよいのだが現実はそうでもない。

 軽蔑を感じることで生まれる小さなストレス。今の職に就いてから幾度も感じてきたものだ。その度に僕は自傷を止められない。何故うまくやれないのか、この腐った頭が悪いのではないか、そうやって頭を殴りつける。目から火花が散る。
 そんな歪な努力で七年ばかりやって来た。そうするべきでなかったし、そうあるべきではなかった。

 僕はどこまでこの世界とこの構造に閉じ込められ続けなければならないのか。
 自身に有った場所などはどこにもなく、この適応の結果が有っている職場などないようにも感じている。

 アサーティブなコミュニケーションがこれを癒してくれるだろうか、そもそも内に溜め込み、ただ我慢することだけでやってきた人間が、その泥沼から抜け出すことの難しさに追い詰められてしまっていた。
 別に変らなくても、自分の出来ることを少しずつ積み上げるしかない。

 プライベートである約束を破った。
 そのことについて問い詰められて、覚えていなくて、怒って拗ねて悲しまれて、それを生じさせた哀れな自分がとても我慢ならない存在に思えてきてつい

『俺なんか消えてしまえばいい』『こんな頭なんて壊れてしまえ』

 などと叫びながら頭を壊そうとする。叩く。叫ぶ。堪えられない。
 小さなストレスをずっと持ったままいるから、ちょっとしたことが堪えられない。耐えられない、やり過ごすことが出来ない。

 殴りつけた両のこめかみの後ろが痛い。この余計なことを口走る肉体も無くなってしまえばいいのに、ただ黙って栄養だけを摂取する家畜であればいいのに、フォアグラにされるガチョウのように虐待されて喰われることを望んでしまう。

 喚きながら、自傷を行いながら、やってくる希死念慮すらも振り切ってしまえ。
 耐え切れないのだから、結局は壊れるまでやり切ってしまう。
 弱い男は死んでしまえ、消えてしまえ、という。金を稼げなければ終わり、結婚できなければ終わり、偉くなれなければ終わり、人から信頼を得なければ、リーダーシップを獲れなければ終わり。男らしさと感情・自分を大切にすることは断絶したまま。

 幸福とは結果であり、それは不可視な構造を持っていた。

 対比は全て滅亡に到る。廃屋に住み、その古びた記憶の中だけで生きている。

 屈せずに、この身を笑う。

老人は全てを持ち、私達は全てを持たない

 そんなような声が聞こえて来る気がした。

 昭和、平成、高度経済成長を経て豊かな時代を流れてきた者たちのことを羨む。それは背景を大雑把すぎる切り取り方をして、この貧しくなりつつあるイマからの反撃として、反抗として、暴力を振るう。

 この社会になにか簡単な「裏技」が有って、「楽に」稼げて、豊かに暮らせるものがあると。youtuberか、インフルエンサーか、沢山の承認欲求が他人の人生を煌びやかなものに見せかけて羨む。沢山の金と、小奇麗な生活。

 日当百万、十万、一万五千円。
 特殊詐欺や強盗がコストパフォーマンスの良いものと思ってしまうくらいの弱者。その場しのぎの金がなければ、それこそ人生の終わりかのように、短絡的な選択をしようとしてしまう人たち。彼らが道を踏み外さないようにするには、罪の大きさを沢山報道し、逮捕し、辛い生活が待っていることを喧伝しなければならないのだろうか。
 優しくする。というのはここでは適当なふるまいでないように考える。非凡の道は平凡によって達せられる。当たり前の行動を的確に行うだけ。そのシンプルでつまらないように思えることが私達の評価に繋がっていく。対価に繋がっていく。
 残念ながら、私はそれを成せるほどの愚直さをそそっかしさでぶち壊していくので、苦労している。人から信用されなくなるのはしょっちゅうで、組織の中で生きるには問題が多い。何年も社会人というやつをやっているが、この問題は解消されることはない。真面目に一つ一つやっているつもりで、結局出来ていない所に悩まされる。

 このように、クソ真面目な精神をもつ人間が十年以上も失敗続きで、ただ「正社員」になれただけでそれなりに生きられている。
 確かに、平凡な道を確実に歩める人間であれば、もっと違っていただろう。
 沢山の知識を活かして考えられる頭がある人間であれば、もっと違っていただろう。

 しかし、私はこの生き辛さを抱えるちょっとした特性を持つ人間なのだから、何があろうと歩き続けるしかないことを知っている。
 他人から軽蔑される人間で結構、馬鹿にされていても結構。素直すぎる故にイライラはするが、日々やれることを続けるしかない。一切皆苦、死ぬまでただ流れるだけの命なのだから。

 それでも、この国を少しでも良く出来るように、何か行動できたらと悩む。
 現在ホットな話題だが、NPO団体や政府とのいい加減な関係性が明らかになりつつある。利食いで沢山の無駄が生じている実態が現れてきている今、こうした透明性を保つための活動は今後も続けて行けるよう、一般人の私達全員が考えていく良い機会だ。
 そうした時間がないから、調べることも出来ないから、私達は政治を好き勝手にさせる。投票しても変わらないから、行政に働きかける方法が分からないから、今のような無関心の現状が広がっているように思う。
 ともすればメディアの報道に任せて批判をして、それ以外は見ずに「誰か」にとって都合の良い情報だけで生きていた。これは「考えていない」眠らされた私達を誰が救ってくれるというのだろう。

 ハンナ・アーレントも書いていたが、人間の条件の中にある「活動」とは、正にこうした民衆の目による政治や行政の監視と改善活動にあると思われるし、政治の話がしにくい状態にある世間の空気感も一周していくべきだ。まともな野党がいない、まともに政治をしてくれる与党ではない、だから色物や無投票が増えて、この国の民主主義が形骸化して無意味なものへ変わってしまう。
 そうではなく、個人個人がまともに政治家を観察し、しっかりと国を動かしていけるように方向修正をさせる。このWeb時代に、間接民主主義はもう流行らない。比例区で何とはなしに通っている議員たち、それも変わっていく時期になっている。
 沢山あったこれまでの慣習やなあなあになっているもの。「●●さんが」「これまでもこれでやって来れたから」

 この政府、行政も隠したくなるものが増えた。
 腐敗は慣習と既得権益、自浄作用もなくどんな市民も意識を向けることが無い全て。

 ただ、SNSでアルファに付き従うだけではこれまでと変わらない。一人一人が何を出来るかを考え、よりよい方向に目指す活動が出来るようになる必要がある。

 しかしながら、そんな余裕があるだろうか。
 余裕がないからこそ、この針の穴を通すような道のりの長い選択を続けないといけない。そういった厳しさを仕事の外側にも持つ。ともすれば活動家など様々な人間が個を責め立てるのであれば、対応が出来ないほどに人が増える必要がある。

 この難しさ、分かりにくく明確な答えが出ない事柄、果たして私達の選ぶ先はあるか。利権が蔓延れば必ず駄目になる。暴力的な手段しかないと、そんな末期の思考に到る前に、個人個人でやれることを進めて行かないといけない。

 老人が全てを持っているわけでもない。
 その先に幾つも隠されている。

 これは良い機会だろう。
 全てを台無しにしてしまう前に、この国に向き合わなければならない。

この社会の仕組みのなかで

新年から雑記です。

 今年も恐らく激動、時代に休まる時はないと感じています。
 テーマは変わらずに『弱者』というものについて考えていく所存です。

『助けたい人は助けたい人の形をしていない』という言葉が示しているように、弱者を救うには人の力よりもシステム構築が必要だが、それは人の優しさだけでは限界がある。

 今は生活保護などあるが、こうした制度も常に社会の変化に合わせて変わっていく必要がある。私達がそこにいつか置かれるかもしれないのだから、小さな労働者としてどのような活動が考えられるだろうか。

 弱さは「醜さ」「卑しさ」「憎しみ」「攻撃性」とも親しく、一度落ち込んでしまえば誰かを攻撃し続ける。誰かを騙して自分だけ得をしなければ生きてはいけない。多くのリソースが他者との相対化に使われていて、どうしようもないこともある。
 向き合って生きていける者と、生きてはいけない者。
 やりたいことだけ、目に見えることだけ。
 それを食い物にする連中も混ざって、エコーチェンバーには事欠かない。

 だからこそ機械的に助けられる仕組みというものが重要になってくる。

 また、一部でNPOのお金の使い方などが問題視されている。手を差し伸べる側がどうあるべきかはよく考えなければならない。明確に出来るものは明確に数字で出す。そうした所からしっかりと成果を積み上げていく。

 非営利だからこそお金の流れや使い道は明確にされなければならない。弱者に対して手を差し伸べているのだからと「口出しできない聖域」を作ってしまえば、それで批判を封殺してしまえば、そこから良くしていくチャンスが失われる。
 どんなことも一つ一つ積み重ねる。それだけだろう。

 ボランティア活動には賃金が発生するものと無償のものがある。公金は中々入らず大変な団体が多いそうだが、実地調査していないので詳細は分からない。

 そして、この先の社会を考える上で、プロボノがある。

 職業上のスキルや専門的な知識を活かして行うボランティア活動。働き方改革で浮いた時間などを活用することで、より社会課題や問題に積極的な関わり方が出来る。私はボランティア活動の経験はそれほどないが、そこで出来たチームで協力して物事を進めることは仕事に近いものがあると感じた。

 何が課題かを明らかにして、それに対してどのようなシナリオをもって解決するか、それをいつまでに完遂するかの計画立て、成果の報告、プレゼンなど。それは経済活動から離れた社会課題の解決にとっても非常に大切になってくる。
 そしてその結果に法改正や制度の構築、国家や議員との連帯、この社会をよりよくするための手段が実現される。
 自分達だけが利益を得られるようなスキームを構築するような手合いが入り込む隙が無いように、NPOであってもガバナンスがしっかりと行われればこの社会をよくする仕組みは構築出来ていくのではないかと思う。

 社会や環境への取り組み、企業のガバナンスが問われるようになってきたEGS投資などを考えれば、営利目的の組織人が社会貢献活動に参加することは大きな意味を持って来る。

 私達が出来ることは何だろうか。
 ただお金を稼いで、生きて、死んでいくだけか。
 少しでもマシな未来を掴むために、何が必要だろうか。

性嫌悪と潔癖

 多くの嫌悪感は潔癖からやって来るものだ。

 

 誰かを攻撃し、表向きの善意で弱きものを誑かし、悪銭を得る。

 こんなことはもうずっと前から繰り返されてきてどんな事例を当てはめずとも「いつの時代も人間は卑しい坩堝」のようにも見える。

 そんなものではないと、真に根差した善意で行動する者の声はとてもか細い。

 狭き門。貪、瞋、痴。私達の善性はとても危うく、そしてもうどこにも見当たらないのではないか、そんな風にも思えてくる。騙される方が悪い、信じた者が馬鹿を見る、であるから弱い人たちこそ三毒から離れられるように何か出来ないか。

 慾が減れば騙すものも周囲から消える。しかし、守らなければならない人たちを食い物にする連中から遠ざけるのは難しい。それこそ、人の心を悪用する連中なのだから、尤も煩悩に近く、またもっとも苦しい生き方をしているとも思える。(これは世界公正仮説だろうか?)いつか必ずこの身は滅びる。欲に溺れても、悪行を働いたとて、無常。私にはとても空虚に見えて仕方がない。

 話は変わるが税金の流れを正すことが出来れば、おそらくまだ増税は必要ない。しかし、そのような大きな修正をこの行政、政府が出来るとは思えない。慣習を続けること、これまで積み上げてきた関係性、利益がなくなる。
 それは非常に面倒臭いことでもあるし、何も起きないでくれればいい。いい加減なことばかりで何を言っても話が始まらない。少ないが幾つかそうした事例を見てきた。

 カフカの審判をぱらりと読み返して思う。なにかをやった風で、口や態度ではよい方向に変わったようで、結局は処刑されてしまった。

 本当に痛みを伴う変革を行うのであれば、それらの決める者たちが自身の不利益を被るとしてもやるべき目的に相応しい金の流れを作り、余計な流れが入らなくなるように制度を考えていく必要があるが、人間がそのような選択を推し進められるかといえば疑問だ。
 自分が大切にしているものが攻撃されればやり返す。それを守る為に行動する。
 また、守られるように、利益を得られるように。

 どんな前口上で立派に取り繕った所で、それ以上ではない故に。

 これは妄想だが、嫌悪を抱くものは私達がサービスを受け渡し合う都市型の生活を始めてから増えていった。部屋の中に入り込むゴキブリやクモ、生ごみに沸くコバエ、ちょっとした体に付いた汚れ、人間の体臭、身だしなみ、と、人間それぞれで異なってくるので枚挙にいとまがない。
 その中に性嫌悪も存在する。私も強烈な性嫌悪を抱えてはいるが、それは強い性欲とそれを満たすことのできない時間が長かったから。この構図はその「性」そのものを憎み、破壊しようとする連中にも当てはまりそうだ。

 手に入らないものは悪いものだ。また、日本の性教育はほとんどないに等しい。どこか恥ずかしいもの、大っぴらに知ってはいけないもの。そこにはどこか汚らわしいもの、といった雰囲気すらある。
 雰囲気で流されて避妊は出来ない。性病は蔓延する。そうした状況は教育がないから起きているだけではないが、知っていれば少しはマシになる。

 以前レースクイーンの件で記事を書いたように思うが、あれと同じ構図がAV新法のような形で生じてくる。現場の現状も知らず、経済活動を行うには不適な法のようにも感じられる。実情に合うような形へ修正が必要だ。
 本当にその現場で必要なものは何か、定められたものは何故かずれていく。

 現場を知らないで大上段からものを言う。誰が決めたか知らないが、よりやりにくいようになる。生きにくい社会を実現していく。性風俗は悪いものだ、搾取だ、という言葉は拡大解釈されていく。本当に守らなければならないものたちは何かをしっかりと見据えて、社会活動が行えるようにする必要があるが、どうもそのような動きをしているようには思えないものが目立つ。

 この世の中は暗澹たるものに思える。人間はただ欲を貪り、目立つものに価値がある、私は困っていないから、と。戦争や増税ですら他人事でしかない。

 殊更現代社会は一人で生きられる期間が伸びているから、崖から落ちたって気付かないかもしれない。手軽な娯楽に、差し迫らない人生の終わり。


 私達は岐路に置かれている。
 知っている癖に、終わった後で「どうしてこうなった」
 ということが無いよう、選んでいく必要がある。

マッシュポテトをぶちまけろ ―形骸化する活動の数々

トマトスープをぶちまけろ

 マッシュポテトをぶちまけろ

  それが傲りである。

 

 思想やその狙いについて理解はするが結局は「悪名は無名に勝る、されど無明」

 果たして、その麻薬のような活動に終わりはあるのか、死ぬまでその悪名にすがりつくしかなくなってしまうのではないだろうか。なにかと「炎上」「闇」「暴露」といった文字が過装飾されて並び、最早それなしには生きられない。コンテンツとして供給する側、受け取る側、そのどちらもがこうした「デジタルドラッグ」にやられて病んだ社会を作り上げている。

 過激な環境団体のニュースが少し前に話題になった。そのどれもが愚行としか言いようがない行為の数々で、そんな人間の言う「環境保護」などは間違いなくエゴにまみれた偽りの活動だろう。接着剤と同じだ。
 モネおじさんやゴッホおじさんの絵画に罪はない。これまで積み上げてきたものを叩き壊すこともせずに、透明な壁に守られた絵を汚すふりをすることに何の意味があるか? 児戯のような「構って欲しさ」が目の前に出た行動は、大きな結果も成果もすぐに得られないからとやけっぱちになって起こした癇癪にも似ていた。
 人間の都合を度外視すれば、地球環境は人類がいなくなればマシになるだろう。この前総人口が80億に到達した。この無数のチリのようなわたしたちがこれ以上繁殖を続けようというなら、地球の外へ生存を見出すより他ない。アルテミス計画が成功し、ゆくゆくは火星へ、そうして人を分散させる。または、核融合発電によって電力不安は解消し、充電を必要としない社会への構造変化。そのような方向性ではないかと思う。
 前述の見た目だけの活動で名を知ってもらって、そこに多少なりとも共感する者が生まれて、炎上のように偽物の議論が生じるところに価値を求める。話題にさせたもの勝ち。そうした社会で生きることの馬鹿馬鹿しさ。
 親の為に生きているように見える少年革命家はどこへ行くのだろう。小さな変化でも冒険はある。密やかにセミから生える冬虫夏草のように、枯れ葉の下で分解者として生きる壁蝨たち、誤って殺してしまった甲虫やちょっとした仲たがい、引き籠っている人たちの世界を広げる、そこからかけ離れてしまうことの違和感はきっとあるのだろう。
 子供は大人以上に人を見ている。大人は子供を軽視する。これは少しだけ長い命が世界を知った気になることの驕りでもある。勿論戒めでもあるが。

 環境破壊をしたいだけして、環境保護活動をしたいだけして、結局この地球が終わるのであれば、そのまま終わってしまうのもまた一つ。極端な行動が行きつく先は絶滅への自励振動に他ならない。人類も無常、終わりは約束されている。

 自励振動とは下記の東芝粉飾決算のグラフのようなもので、最後にはどうしようも無くなる。そうなってからようやく気付いて「ああ、やってしまった」痛い目を見ないと分からない。
 やってしまったとしても、認めない、謝らない、反省して次に生かさない。有耶無耶にしてそのまま変わらない。そのように見せられているだけという可能性もあるが、そうした尊敬のできない大人が目に付くようになった。
 良くならない社会。増える負担、現実を見ないあほらしいロジック、ずうっと昔のやり方に固執し続ける。既得権益に沈んでいく。そんなような現状が横たわっていて、生きているだけで損をしていくようなイマがある。

粉飾決算の手口で学ぶ、会計思考力 – ページ 3 – 日本実業出版社

 けれども、人間はそのようなセンセーショナルなイベントがない限り自ら変わろうと思うものは物凄く少ない。この急激な社会の変化を煽り、余裕を失ったように人々はさまよっている。本来するべきではない心配と競争を続けて、ただただ疲弊する人間達の上に立つ少数のヒト。呪われし霊長類。
 社会はヒトとヒトの間に生まれるもの。こうした個人の世界観に寄った行動が増えてしまうと、それだけ摩擦も増える。社会性動物から社会性を取り去ればそれは獣に過ぎない。わたしたちは獣憑きだ。容易く脳を喰らういきもの。

 AIを活用すれば情報は事実と妄想の境界線を容易くぼかしていく。
 こうした活動すらも多数のフェイクに埋もれ、信頼に足るものはこの身で感じる自然の中だけ、湿った土の上に横たわり、流れる水、燃え盛る火を見る。

A・タルコフスキー『ストーカー』

 今の時代に、この映画を見て「面白い」と思う人は少ない。ずるずると流れていく時間、161分もある映画をゆっくりと見る。3回ほど休憩を挟みながら、場面の流れを楽しむ。
 youtubeだって2倍速で5分以内、ファスト映画、漫画などが持て囃される時代。
 加速しているように見えて、効率的なように見えて、ただ盲になっているだけのわたしたち。それは「呪われた永遠の囚人」
 ゾーンに挑み続ける、ストーカーのようだ。

 処理できないほどの情報の中で、自分の心地よさだけが存在理由。
 都市化によって個人主義が加速していく。これまでの社会的背景があるから、それに対して少し冷たさやうしろめたさを感じ、生きづらさに繋がっている。
 一人で自分の好きなことだけして生きられる。サービスのやり取りが人との関わりになってしまったから、そのような気がしてしまう。
 一人の心地よさは分かるが、これから先を生きていくには家族や仲間といったものを大切に協力していくような形態でないと回らなくなっていくようにわたしは感じている。

「歪曲されセンセーショナルに振舞う愚かなタイトルたち」

 サイバーカスケードによって過激化する。周囲が見れなくなる。私達は知性などなく、ただ同じ言葉を繰り返す愚昧である。全体を広く見ることの大切さと、その上でどれだけ無駄な情報に人生を消費させられているかがよく見えてくる。

 炎上商法。悪名は無名に勝る。

 歪曲されたタイトル、脊髄反射的反応、連鎖することで馬鹿馬鹿しい人間の行動ばかりがピックアップされていく。そうした人間の狙いがどのように作られているか気になって確認すると中身はほとんどなく、盛り上がっているように見せかけているものばかりが目に付く。

 

タイトルしか見ない約60%の人達

でたらめなタイトルだけを信望する私達の愚かさ。

中身のない表面だけの妄想が世界を推し進めていく。

 

摂取される情報が多すぎて表面をなぞるしかない。

 そのほとんどはゴミのようなものだ。少数の小さな小さなしょうもないところから、アクセスを増やす為に過剰に装飾されたタイトルが出回る。それがちょっとした世の論調になる。面白半分で「いいな」獲得競争に興じる暇な私達。

 

 2000年代初期から発生したSNSがその一端を担い、私達はちょっとした「いいね」や「リツイート」などの虚飾、クソみたいな承認欲求だけが人間である。その姿のない反応の数々に釣られたものたちはメディア、インフルエンサー、そういったものが話題にしてそれを娯楽として喜んで受け取る。

 youtubeまとめサイト、ニュースサイトなどで得た情報は裏取りされることなく、ただ表題だけが事実としてすり替えられる。する必要もないことが行われ、ただ話題になるから、過激さを求めて発信されていく情報の数々。

 炎上系、曝露系、そうした露悪的なものですら娯楽として、収益として、このくそったれな社会は回っていく。先生に言いつけるからね、みたいな子供時代から私達はほとんど成長していないのだ。ちょっといけ好かないから貶めてやろう、名前が売れているからちょっとしたことにも目くじらを立て責め立てる。それがコンテンツになるから。

 大人、なんて所詮そんなもの。快楽物質を求める哀れな霊長類が私達。

 これらが金を産まなければこうはならない。これが過激化すればするほどに求められるのは、金、金、異常なまでの金。又は知名度、それそのものが金を、権威を生み出す。

 これらの活動を減らすには人間を信用スコアで管理してディストピア的な社会システムを作るしかないようにも感じられる。悪名は無名に勝らず、悪名は無明のまま。

 社会的によくない行為をすればするほど社会的な活動がしにくくなる。今のような活動も何かの契機で大きく制限されるようになるだろう。このまま加速すれば、そのような規制が入るのは仕方のないことになってしまう。人間とは、無際限に物事を求め続けるのでどこかで柵を設けないといけない。

 むしろ、そういった柵を求めてさまよっているようにも思える。

 自由にやる。それが行き過ぎればその責任を問われる。それすらも解き放ち、完全なる自由を実現することは能力の無い者には生き辛い。

 それを少しでも癒す為のネタとして、こうした露悪的な存在はなくなることはない。

 一人一人が情報をしっかりと確認し、こうした存在を無視していけば収まるが、それがしにくい状況であるのでやはりどこかで規制が入るのだろう。

 

 事実は隠され、魔女はどこだ。

 探し回って、ずっと見つからないままだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火