性嫌悪と潔癖
多くの嫌悪感は潔癖からやって来るものだ。
誰かを攻撃し、表向きの善意で弱きものを誑かし、悪銭を得る。
こんなことはもうずっと前から繰り返されてきてどんな事例を当てはめずとも「いつの時代も人間は卑しい坩堝」のようにも見える。
そんなものではないと、真に根差した善意で行動する者の声はとてもか細い。
狭き門。貪、瞋、痴。私達の善性はとても危うく、そしてもうどこにも見当たらないのではないか、そんな風にも思えてくる。騙される方が悪い、信じた者が馬鹿を見る、であるから弱い人たちこそ三毒から離れられるように何か出来ないか。
慾が減れば騙すものも周囲から消える。しかし、守らなければならない人たちを食い物にする連中から遠ざけるのは難しい。それこそ、人の心を悪用する連中なのだから、尤も煩悩に近く、またもっとも苦しい生き方をしているとも思える。(これは世界公正仮説だろうか?)いつか必ずこの身は滅びる。欲に溺れても、悪行を働いたとて、無常。私にはとても空虚に見えて仕方がない。
話は変わるが税金の流れを正すことが出来れば、おそらくまだ増税は必要ない。しかし、そのような大きな修正をこの行政、政府が出来るとは思えない。慣習を続けること、これまで積み上げてきた関係性、利益がなくなる。
それは非常に面倒臭いことでもあるし、何も起きないでくれればいい。いい加減なことばかりで何を言っても話が始まらない。少ないが幾つかそうした事例を見てきた。
カフカの審判をぱらりと読み返して思う。なにかをやった風で、口や態度ではよい方向に変わったようで、結局は処刑されてしまった。
本当に痛みを伴う変革を行うのであれば、それらの決める者たちが自身の不利益を被るとしてもやるべき目的に相応しい金の流れを作り、余計な流れが入らなくなるように制度を考えていく必要があるが、人間がそのような選択を推し進められるかといえば疑問だ。
自分が大切にしているものが攻撃されればやり返す。それを守る為に行動する。
また、守られるように、利益を得られるように。
どんな前口上で立派に取り繕った所で、それ以上ではない故に。
これは妄想だが、嫌悪を抱くものは私達がサービスを受け渡し合う都市型の生活を始めてから増えていった。部屋の中に入り込むゴキブリやクモ、生ごみに沸くコバエ、ちょっとした体に付いた汚れ、人間の体臭、身だしなみ、と、人間それぞれで異なってくるので枚挙にいとまがない。
その中に性嫌悪も存在する。私も強烈な性嫌悪を抱えてはいるが、それは強い性欲とそれを満たすことのできない時間が長かったから。この構図はその「性」そのものを憎み、破壊しようとする連中にも当てはまりそうだ。
手に入らないものは悪いものだ。また、日本の性教育はほとんどないに等しい。どこか恥ずかしいもの、大っぴらに知ってはいけないもの。そこにはどこか汚らわしいもの、といった雰囲気すらある。
雰囲気で流されて避妊は出来ない。性病は蔓延する。そうした状況は教育がないから起きているだけではないが、知っていれば少しはマシになる。
以前レースクイーンの件で記事を書いたように思うが、あれと同じ構図がAV新法のような形で生じてくる。現場の現状も知らず、経済活動を行うには不適な法のようにも感じられる。実情に合うような形へ修正が必要だ。
本当にその現場で必要なものは何か、定められたものは何故かずれていく。
現場を知らないで大上段からものを言う。誰が決めたか知らないが、よりやりにくいようになる。生きにくい社会を実現していく。性風俗は悪いものだ、搾取だ、という言葉は拡大解釈されていく。本当に守らなければならないものたちは何かをしっかりと見据えて、社会活動が行えるようにする必要があるが、どうもそのような動きをしているようには思えないものが目立つ。
この世の中は暗澹たるものに思える。人間はただ欲を貪り、目立つものに価値がある、私は困っていないから、と。戦争や増税ですら他人事でしかない。
殊更現代社会は一人で生きられる期間が伸びているから、崖から落ちたって気付かないかもしれない。手軽な娯楽に、差し迫らない人生の終わり。
私達は岐路に置かれている。
知っている癖に、終わった後で「どうしてこうなった」
ということが無いよう、選んでいく必要がある。