Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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 【空の頭蓋】

 人間はなにもない。

 そもそもが相対的なゆりかごの振れる動きそのものであるから、

 それ自体には何もないのだ。

 ただ食物が挿入され、社会性もなく生存させられている。何のために? この生が成すのは労働者として社会を回す小さなものである。何をしていてもこの頭蓋の中は空のままだ。 

 私は周囲の人間と違うんだ、という意識はありますか?
 あります。分裂症です。
 ▶︎ありません。等しく糞袋です。

  空洞が入っています。

 哀れな世間と個もなく生きている。全てが無為である。社会に押し付けられる価値など、この肉体から押し付けられる価値など、ただ死なぬ、生殖を続ける輪を回り続け、私はここまで生きたのだから報われるなどと虚しい空想を続けた。

 いらっしゃいませ。愛想を振り撒いたら陰口を言われた。愛想がなくても陰口を言われた。 私たちの主要課題は社会的に優れた者、優れた個体との生殖、だからこそそうでない者には厳しい。それは性別関係ない。美醜、年齢、金、立場、、、人が惹かれるのは外面から。内奥は特にありません。

 頭蓋は空洞なので。

 そう言ってしまえば人と深く付き合えないからそれが分からないだけだろ、と社会は言う。自身の恵まれた土台、これを認識していても自身の責任は自身で取らねばならないから結局は課題解決型の人生である。

 発達障害と認められたら何か変わるか、HSPだと宣言したら世界は変わるか、根本は変わらぬ。やはりそれで慰めようとしても私は私であり、人間は人間であり、そこから逃げ出すことも、変化させることも、その短い一生ではほぼ不可能である。

 自分を変えずに、世界を変える。果たして、どちらが変わったのか。世界が変われば自分は変わらざるを得ない。自分で世界を変えたとすればその変わった先の自分に変化している。キャッチコピーとして少しは目を引くのだろう。

 結局そこにいること、絶えざる選択の檻が人生である。私は能力がないのだ。無数の妄言と駆逐される自我、選択などない。しかし、それこそが君の選択なのだよというものだから太陽のせいでアラブ人を拳銃で撃ち抜き、全ての動植物は太陽へ伸びる。勃起するのだと感じ、全てが性的なものであるという妄想から逃れられない。

 そこで【功德】がある。 

 報い。

 血の代償は罪禍を被ることにより、

 冠る血液により得られる。

 イコンは体に巻き付き、私は私のものではないと錯覚するのが宗教である。または善行による報い。月に住む孤独な老人は太陽により伸び進む地球を見て、それは焼け焦げるため、それは発情により死んでいく有機体達の興奮であり幸福な勃起なのであると確信していた。全てが性的であり、社会はそれを隠して遊ぶ。

 攻撃性から性的なものが害であると槍玉に挙げられるのは男性が主だが、対比される女性も大概である。

 動物はそれでしかない。この言語と概念で遊ぶ霊長類が優れているなどと私は思わない。この社会も文化も安寧を、秩序を生み出したのは全てが生殖のためである。

 多様な価値、その価値だってこの社会に於いての価値であり、その渦の中心は死にたくないと生殖だけである。怖がりだから、私たちは血を被る。太陽へ一律伸びて向かい続ける。焼かれる。

 私を見縊る全ての者へ私を軽視した全ての者へ私を軽蔑した私を下した私を下に見た私は私を許さないしそうした者達を殺さなければならない。このクソみたいな人間ども、馬鹿馬鹿しい世界観で喚きやがって、全員死にやがれ。

 徹底的に人類を破滅させてやりたい。

 こんな生を受けたことを後悔するくらいにめちゃくちゃにしてやりたい。

 うるせえな黙れよ。自殺すりゃあ済む話だろ。

 そんな勇気もない。ゴミどもの社会性に沿って殺されるわけにもいかない。

 やるなら大きくなければいけない。

 このように主語を大きくすれば社会が殺してくれるのは多くの犯罪者が教えてくれる。死刑の基準となった三名、計画性が有れば一人でもいい。強盗殺人であれば一発で括れる。これは自由な選択としての最期の手段である。

 それを選択してはならないのだ。しかしそれを理解していたところで、それを弱めることはあまりない。軽いバイクに乗り、トラックにでも突っ込んでしまえばいいのだろう。しかし、それもこの社会の迷惑になる。

 そもそもが社会の迷惑者である私が何か他人に喜ばれる価値を提供できるかと考えた所で、それが提供出来た試しがないのだ。一人で生きるしかない。一人で死ぬしかない。そこに誰の手も必要としてはならない。

 何か人間らしい活動が出来ればよかったのですが、虐待する人間でも子を成し、それは何らかの価値を生み出す。不当に亡くなってしまう子供たちの代わりに私の命が消えてしまえばいい。彼らには未来が有ったが、それを奪ったのはほんの少しだけ長生きして、親となったろくでなしども。人間、動物としての思い上がりから子の上に立ち、偉そうに世界を決め付ける空しい行為の数々。ただ親になっただけで自分が何か素晴らしいもののように思える人間が多い。

 私のようにこの社会に存在する意味が見いだせず、ただただこの太陽に焼かれる。太陽に向けて興奮している。それは焼かれる為の射精である。あの太陽に重力で落ち込んでいく様、私はそれを見ながら最後までは見れず、膨大な熱量の中へ消え去る。人間というものの哀れな短い生に執着する愚かな私を、戴冠されど自縛に過ぎぬ。権力、酒池肉林、そうした中で死んでいく。私の体の中から無数のヒメバチが肉を食い破り出て来る。その時私は生きているが、大量の昆虫が私を埋め、喰らい、そうして生殖を始め、そうやって私の肉は血は皮は目は内蔵は鼻腔に入り込む昆虫、全身を蠢く幼虫、意識のない私と自我、それら全てが連続してこの場に生え揃い、そうして太陽へ向けて飛び立つ。生殖の為、生と死のプロセスがそこに完成させられ、その脈動はパルスは脳の反応であり太陽系であり、銀河であり、無数の宇宙である。全てその模倣によるものだ。人間には自我が無い。動物には自我が無い。あるのは精巧な宇宙のマクロを今ここに見える形に下ろした、ミクロな世界は宇宙である。全てがその贋作であり、紛い物であり、本物であり、営みの中で社会が宇宙の働きをシミュレートする。

 私は太陽に繋がれている。あなたたちが人間と社会に繋がれているのと同様に。

【死骸】

 だから私はもう死んでいる。

 何者にもなれなかったが、それを慰めてやることもできない。

 ひとたび自室へ戻れば私は死骸なのだ。辛うじて労働により生かされているが、それは死の期間を先延ばしにするだけの無駄な足掻きである。ただ生きる行為に連なる数々の虚無感、都合よく人間を動かそうとする人間と積み重なる年月、腐りゆく私と周囲と過去を懐かしみ続け私たちは停滞してしまった

 無数の脚を捥がれたバッタはその高いアクリル製の箱の中で付け根だけをモゾモゾと動かす。私はその中の一匹だ。マッチ箱に仕舞われることもなく、怒りによってぶちまけられ散乱するバッタはもう死んでいた。

 資本経済が押し付ける全ての人間らしさから飛び出そうとすればそれは死骸である。私は室内で亡骸となり、バッタとなり、動物となり、サメに喰われる。結婚相手は雌のコモリザメである。吸い込んで腕を噛みちぎられることこそ私の婚姻の証である。広範に広がるのが非モテ男性の悲喜交交であり、極点であり苛烈なのが非モテ女性の悲喜交交である。つまり社会的な幸福は女性の方が多い。(純化のためマイノリティの話はここではしない) そんな風に穿った見方をするのであれば頼むから早く死んでくれ。人の辛さを相対的に決め付けるから私達は辛い。等しく辛いことはあるので出来ることを持ち寄って生きていきましょう。太陽に焼かれる為に、そこへ伸びる性的な人生として。

 私を食い破る寄生生物はどうやらまだその機会ではないと思っているらしいが、おそらく私が太陽に焼かれれば急いで出て来るだろう。私のような人間が何かを満たそうとするのならば、それ以外にあるまい。

 相対的に死んでいるのか、個人的に生きたくないのか。

 相対的に死んでいるから、個人的に生きたくない。

 が正解だ。

【爆砕】  

 SNSの底辺。血溜まりのミミズどもそれが私だ。

 何もかも上手くいかなくなって、幻ばかりが個人のお為ごかしとして。

 野菜を弾け、殺せ。

 上手くいきそうにない人生をどう上向きに理解すればいいというのか、神戸のヤマトで女性を刺殺した人間の終末は世界観の接続が元より弱っているからだ。思い込みと自意識の反復によって怒りが醸造された。発酵し泡立つ憎しみは自己完結的で、愛によるものだと思う。そこでは社会性が失われ、自己の世界だけが際立つ。

 しかしながらこんなニュースもただただ消費されるコンテンツでしかない。知らねえ阿呆がヤケクソになって事件を起こした。それらは自分ごとではない。自分(の所属するコミュニティ)以外死んでも構わぬ。国に飼われているのである程度の対話は存在するが、こうした異物化してしまう者は処理を待つばかり(そんな異物でも働き、生存する選択は残されているから、この社会全てが狂っている、悪である、破壊すべきだ、というのは短絡的である。私は私を消してしまいたいが、自己の破滅願望とそれらはキッカリと分ける必要がある。社会が接続と重ね合わせの世界観で得られるのであるならば、自我と社会の変更は別領域の話とすることができる。自我を満たすためのイデオロギーなどゴミクズである。自我を押し通す正論など押し潰せ。)

 どうあっても異物化は免れないのである。どうあってもこの社会性の失われた自我からは他人と一緒に暮らすことなど、生きることなど出来ないのだ。

 私はかつて生きていた。砕かれて呑み込まれた自我と発破の熾りを受けてもう生きてはいない。

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私はなんて事のない一介の労働者である
 だから消えたいと願った

死のうと思ったのは
 自らの善性が信じられなくなったから

死のうと思ったのは
 有象無象の産業廃棄物だと認識したから

死のうと思ったのは
 この長い社会人生活が死のその時まで続くから

死のうと思ったのは、、、

 35までに死んじまうだろう。私はその後の人生は敗戦処理でしかなく、いかに「綺麗に死ねるか」消えることが出来るか、その為にしかないとぼんやりと思っているのだ。もう後残り3年しかないのだが、そこから先、例えば今続けている何かが個人的な価値となり、社会に何かを生み出すことがあるかと考えた時、やはり私には何もない。それは、生存にかかるコストが自身にとっては高すぎるからか、小説や動画を作ってみようとして、それらが他者にとっては通り過ぎる数々の迷惑な広告とそれほど変わらないなんていった事実が目の前にあるからか。

 そうは言っても私は生きなければならない。死んでやると思って、その勢いを保てる人間は少ない。私はそう言いながらも生きてしまうのだ。貯金をし、資産運用をし、死が目の間に現れるまで生きようとしている。

かつて私は何かを生み出すことが出来ると信じていた。

いまでは私は自分を殺すことすらままならない。

 誰かがお金がないから助けてと言っていた。その声に私は答えてやることが出来ない。自身の世界は他人と隔絶されている。何より私達はその為に税金を払っている。だから生活出来ないような状態は恐らくこの国では起きない。少なくとも手を尽くせば死ぬようなことはない。私も同様に誰かを救えるだけのお金を持っていない。1度裏返れば死ぬより他ない哀れな単身者なのだから。誰かに正直にこうした気持ちを吐露した所でただただ迷惑な雑音でしかない。私はこの社会から囲われている。お金を渡し続ければ助かる人間はいる。ただ、この社会の構造上それは誰かの時間を資本化して、支払われるものである。人は1つ渡せば2つ寄越せと言い始める。1つをやめれば責め始める。それが特別なものではなく、習慣になる。

 私には誰かに特にリターンが無いままにお金を出してやろうとする行為、その責任を負うのが怖いのだ。1人ですら上手く生きられぬ人間が誰かの為になろうなどと、人間を愛そうだなどと、死に物狂いで何かやって生きている人間ではない。ただやりたいと思ったことをやってみて、続けてみて、それらは常に袋小路であった。全ては私に社会性が無いから。私にその社会性という欠点を越えられるような能がないから。過去に縛られ、それだけが私と社会を結びつける楔である。かつてゆりしーと呼ばれたプロ声優がいた。私が知る限りでは今は声で仕事はしていないようだ。クラウドファンディングと言っているだけの個人的な生存のお手伝いをお願いしていた。私はそこに過去以外見ることが出来なかった。能力があるはずの人間がそうなってしまうのを見ると、盛者必衰の理は私達が生き物である以上変えることは出来ないのだ。
 私も何れ過去に生きるようになる日が来てしまうのだろうか。そうなれば消えなければならない。過去に囚われてしまえば、世界観は薄れていく。薄れた果てにどこへも接続されず、重なることもなく消えてしまうのだ。消えない為には、過去にはない挑戦が必要だ。

 死のうと思ったのは

        価値の創造でなく     攻撃と浪費による

                             あぶく銭が溢れるから

 自身の心酔者が害をなす。そういった事例がやはり目につく。何かに対して否定的な意見を出せば、それを盲目的に信じてその逆を攻撃する人間達。私達がただ言語を操れるだけの猿であることは明白である。正しい情報などこの社会に全く必要が無い。正しさを個人に依存する危険性を理解出来ない人たちが増えている(もしくは元々人間はそういうものなのだろう)。人間の知性の敗北を目の当たりにしている。迷惑な電話により休業になってしまった餃子屋さん。話題となった人は自身でも飲食店をやっているにも関わらず、その影響を考えず我が道を進む。それはわがままだろうか、個人の時代だから許されるのだろうか。こうなってしまっても尚、責任はどちらにもあると言えるのだろうか。事実は監視カメラの映像とSNSの数kbの文字列と休業宣言と増えている店舗の評価だけ。それ以外は分からない。

 問題はマスクではない。多くの人が気持ちよく過ごす為にしていたことに難癖が付いてそれに対して白黒はっきりとさせようとする多くの人間の行動。こうしてブログに書く行為ですら人間をコンテンツとして消費していて私は嫌なのだが、この社会が変な方向に進んでいる事例として取り上げている。日々、ちょっとした気遣いをして、自分も周りも気持ちよく過ごそうぜ、というのがやさしい社会だと思っているのだが、その逆をするとそれがコンテンツとして金になる、資本主義的に消費されていく。私達の自由が資本化するといった点で棄損されていく。7万円で何が出来るというのだろう。全てが自己責任だと? この競争、この資本化、この人間ども。私達は私達自身のテーブルを削り、誰も立つことのない場を社会に打ち立てた所で、良い社会は生まれない。スラムを生み出して消えていく。先を考えていない人間が先を決める。そんな事例が広がる。平均年齢50代の社会はか細くけれども確実に繋がなければならない未来を描けずにいる。

 多くの人間は個人で何も判断できない。チャンスと怠惰の区別すら付けられず、誰かの意見を求める。自分の人生は自分以外誰も責任を取ってくれないというのに、それに気付いてもやはり別のそれっぽい言葉を求めて徘徊する屍食鬼。私達に自我などなく、ただただ少ない人間がそれに従う人間を動かす。誰もかれもがその糞山にまみれる遊びで笑っている。人間は糞が大好きだから、糞に塗れて生まれ、糞で遊びつつ死んでいく。最終的には糞を壁に擦り付けて耄碌。人生とは空しいものだ。猿山のどちらが偉いか競争に繰り込まれそれを社会性で隠しているだけなのだから。

 死のうと思ったのは
  すべてがくそったれの
   人類にばかり目をやったから
 迷える子羊はわざわざ狼に近寄らないが
  この社会では否応なく近寄ってくる

 個人の世界観ばかりが先行し続け
  後に残るのはヤクザな人間どもだけだ
 死のうと思ったのは
  自身もその一部であり
   この種の呪いからは逃げられないから

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無為

 、、、一人。始まりは個人的な思想から生まれた。

 人間の活動の全ては摩擦があるから。

 全てが決められているならそれに対する反応でしかない。

 人生とは無為なものだ。肉体が希求するフレームワークから生まれた幾枚のペルソナと生存、生殖。それを楽しもうとする故の快楽、ただただそこにある。
 ただ生きている。仕事も生活も何もかもが生に紐付いた欲求なのである。自身の立場を確保する為に誰かを見下し、自身は優れている。彼は劣っている。人間であることの瑕疵はただただそのようにして俺は秋田ひろむに絶対負けねぇという気持ちだ。それは立場でも作品でも生き方でも何でもない。ただ負けねぇと思うだけの気持ちだ。
 アーティストとして比べるまでもなく、私は滑稽で哀れだ。だから絶対負けないと吐き捨て、最終的にそのクソくだらない競争と勝ち負けと悪意と上昇志向、資本主義に適応するわけにはいかない。新自由主義私たちは無能を置き去りにしていく。そんなことは出来ぬというのに、構造で他人を陥れ、間接的な殺人を成し得る人間は傲慢である。中等教育の時にはもう分かっていた。人間は傲慢である。社会性の構造に繰り込まれているだけの動物なのに偉そうなのだ。
 二重思考を使いこなせ。イデオロギーや主義の奴隷となるな。ナタフェミ、脱コル、といった言葉を使うキャラクターがSNS上に散見される。腐った青い鳥の元で喚いている。彼らは反出生主義の奴隷である。結局そうでないものを見下し、自身が一頭上で無ければ気が済まない。同じ目線のキャラクターと反響を繰り返し、自我を失った。だからただ攻撃性を言葉に乗せるだけの生き物、SNS上でのキャラクター化に陥っている。その側から見えるのは性欲であり、生存である。社会に意味がある者である。価値があるのだとわざわざ主張しなければいけないのは、自己を肯定出来ていないから。無為な行動で時間を浪費するのは人生だから。
 私達は自由である。だから易々と、自ら望んで奴隷となる。一つの思考の、一つの思想が全て。曖昧な人間が作り上げた社会の中で、確たるものは何一つない。ただ上手く世界観が重ね合わされているだけで、それが出来なくなれば容易く崩壊する。

 結局のところ必要なのは自身にとっても他人にとっても辛くない社会である。

 BLMやANTIFAがそれを実現したか? または白人のパフォーマンスが。

 私は断言する。それらの泡沫活動が辛くない社会を実現することはないと。

 残念ながらその間にアジア人は存在しない。同じ目線になれと思考を共有させる阿呆共が自由を叫ぶ。そんな者達が自由など求めていないと知ることはない。知ろうともしない。自由とは何を発言しても良いがそれに対して責任を持つこと。悪意ある連中の切り取りは唾棄すべきであるが、蛆のようにキリがない。そいつらも同じ責任を喚きやがるから、人間に自我などない方がまだマシだろう。

 辛さは余裕のなさから生まれる。だから敏感になり、ガチャガチャ喚く。

「それならさぞ大層なお考えがあって、その為の活動をしてるんですよね?」
 そんなわけがあるか。無数の人間が生み出す曖昧さと混沌、世界が無数に重ね合わされる過程の中で、寛容さを勝ち得る。余裕のある社会が実現出来るか。結局競争は存在し、死体を積み重ね、上下が存在する。
 結局は晩年のサリンジャーのように隔絶して生きるより他ない。
 目を閉じ耳を閉じ、、、何もしない。ホールデン君のように騒ぐのですか?
 いいえ。社会も自分もすぐには変わらない。小さな熾りが繰り返され、気付かぬうちに変化している。私の希死念慮が年を経るにつれて強まるのも、自身の顔をじっと見た時、ある時ふと歳を取ったと実感するあの瞬間も、目を閉じ耳を閉じ、、、そんな孤独はやろうとせずとも何れ現れる。また、自分を変えようなどと傲慢になれる人間。小さな熾りは自身でも気が付かない。嫌々適応したものがストレスなく行えるようになっただけだ。私達は適応し、流れ、停滞は有り得ず、ただただ最後には死んでいく。
 自分を変えることは出来ないが、自身は変わっていく。世界に不満があっても自分を変えることはない。それでも生きられる余裕がある社会が理想なのだが、不条理な世界と理不尽な人の世で自分を変えて生きていく、サバイブする。これは臨機応変に対処できるスマートさと共に語られることが多いが、これを美徳のように語れば我慢が生まれる、辛さが生まれる、余裕がなくなる。ストレスを受けながら仕事を進め、度胸が付き、自身が付き、人を上手くやり込めることが出来る。自身の利を大きくすることが出来る。立場が出来る。居場所が出来る。
 そうしたストレスは自身の成長(という幻)を得ることが出来る。
 結局変えたのではない。無理やり型に当てはめようとして歪み、このような文章が連なる。

 不条理に耐えていても、希死念慮は生じる。私は消えてしまいたいのだ。

 頸動脈からいけば簡単に窒息死が出来る。練炭での一酸化炭素中毒でも良いだろう。イスラムの処刑は首を切り取る。マフィアは心臓を切り取る。
 大抵の誰かに見せる為の処刑は何かを切り取る。人間から人間らしさを切り取る。動物である事実を切り取る。悪意は発言を切り取る。そうであるならば私は自我を切り取ってみせよう。この思考、この雑文、人間は他人に向けて言葉や文章を発するが、私はそうではない。木霊であり、虚しい反響であり、輝かしきは産声を上げた時に捨てていった。ただ自身の渇きを文章や小説に載せて生み出すだけの生き物。人間らしい生き方はないだろう。ぐずぐずと湿気で腐り落ちるフローリングとカビの広がる机の上で私は文字を連ねる。この地下室で圧殺されるために、もう捨てるものはほとんどないのだから。
 希死念慮は不意に広がる。ストーカーのように付きまとい、さながら分裂病者の集団ストーカーと似ている。私に敵対する何か、そんなものは存在しておらず、ただただ所属した社会で有用でないという事実が社会性の檻から囁かれるからだ。
 その時々でうるせえなこの野郎と吐き捨て打ち消しのために人類への殺意が現れる。こんな人間なのだから消えてしまえ何が希死念慮だぶち殺すぞ。これも希死念慮の具体化である。殺人は計画的に、それで死ねるぜ。他人には堪ったもんじゃない。死にたかったから、などと言われ殺意を振るわれるのだからそれはするべきではないがこの反芻をやめられぬのだからあと数年持てばいい。労働により強化される自死の気分は私の社会性の低さから生まれる。人間たちの社会は私とは遠い。私は清掃と幻想であり、少女のスクラップを愛したあの男であり、国家転覆を破壊を暴力を頭に掲げる極左連中であり、新幹線でナタを振り回し、秋葉原へ車で突っ込む。社会性の欠落と存在するべきではない異物。そうして行き場のなくした人間の暴力性だけが残る。社会のタガが外れた暴力装置はこの社会に溢れている。私一人が自我を失い暴力装置として機能した所でそれは何でもない日々の一幕である。身近に処刑が溢れ、誰かの横暴を窘める物語が溢れ、声の大きい敵意だけが空虚なSNSに反響している。
 広がった果てに望むのは幾許かの自我の霧散だ。暴力も競争も価値も何もかもが自我があるために存在する。思い悩むお前の頭もただ不安を打ち消し生きる為だけの産物。生存だけが唯一肉体から希求される要件であり、その他全ては私の自我も意識からも離れている。余暇ですら、想像ですら。
 
 全ての選択を無くし、同じ行為の反復のみが私の自我を切り取る。
 、、、尤も、私は摩擦で擦り切れてもうないのかもしれないが。

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 今の流れは誰が生み出したのだろうか、犯人を見つけようともキリがない。私はただ、正しいことをした。飛躍する理論が社会を動かす。過去の過ちが利用され、機械的な構造だけが回り続ける。
 審判、機械的偏愛。
 世界は個々の中に沈み込み、それらを重ね合わせ流していくオールドメディアはその意味を失う。

 HUBとなる人間を見たことがあるか? 明確に見た、存在している。そう言い切れる者はいない。人間の元型は何か? 神の血と泥である。金と銀と銅である。皮と肉に浸された彼岸である。

 流れは生み出された。戦わずして社会は何者かに負けたのだ。

 その中で私はなんでもないから死にたいのだろう。この世界が愛に満ちているから居なくなってしまいたいのだ。もしくはそう思わされている。思うように仕向けられた社会構造、人間の価値観、その中の強力な押し付け。

 このなんでもない毎日、能力の足りぬ私が仕事をしているが、人間たちから見てみればそれは仕事ではない。どうして私は死ぬ勇気すら無いのだろう。それもこの世界が愛に満ちているからだ。耳慣れぬチャイムの音が響き、一日が始まる。今日も目の前の物事を整理し、何かを推し進め、多くの他人に沢山のことを聴き、やるべき仕事を進めている。手戻りを引き起こしている。膠着させている。

 不意に見知らぬ他人に殺意を向けるのに? それは愛の反復である。どうせお前に人殺しは無理な相談だ。哀れで惨めな生き物なのだから、処刑されるまでは馬鹿馬鹿しい人生を送るのが君の運命なのだよ。指を差されたが、私に捻じ込まれたのは動物であるという事実だけである。起きて食って眠る。それだけを繰り返す。回転寿司。寿司勇者。私はあの乾いた〆鯖である。何れ廃棄される食品の一つだ。

 この言語も意味はない。私は社会人ではない。私は人間ではない。だから私は人間のルールで処刑されなければならない。上向きな人間が他人への期待をし過ぎて感情的になる。人間は人間に入れ込むのが好きだから、他人を同一のグループと見做す。
 下向きに熱意などなく、人間らしい賢さもなく、私は泥の沼に沈んでいく。歳をとればそれだけ私は死ぬべき個体である事実が増えていく。早くしろ、社会はクソみたいな俺を生かすな。などと喚いたところで私は自殺などしない。宅間守と同じような人間崩れなのだから、死のうとすれば社会に害をなす。太陽に焼かれ構造を破壊しなければならない。

 薬物で脳を破壊しろ。依存性などではなく、文字通り殺してしまえ。こんな思考など、こんな行動など、私は死ぬべきだ。この競争で壊れるのだから、早くしろ。生き物であることすら嫌気が差す。

 だから私は人殺しである。生存競争を是とし、私達は合法的にシステム的に構造的に人殺しを許容している。誰かによって人が死ぬのを許容せざるを得ない。倫理的、法律的、人道的に基づいて人殺しは許容されないものだが、私達は生き物として人殺しは許容しているのだ。自身の居場所を守るために、他の人間が死のうが構わない。特に男性は命の価値が低い。それらが社会、文化の隙間から分かってしまう、見えてしまうからこそ、男性の自殺は女性の倍ほどもある。30歳の男性と女性が自殺した時、大きな問題となるのは後者である。過労死で男性が幾ら死のうともあまり社会へのインパクトはなかったが、女性が亡くなれば話は別。

 こうした自然な態度は命の価値を人間自身がそのように考えているからだ。男性は戦って死ね。自らの暴力性で勝ち取り、奪い、居場所を作り、そうやって死んでいくしかない。多様な価値観がそれらを否定するが、私が生存してきた場所ではやはり性役割に縛られて来たように思う。だからこそ私は死にたいのだ。この人間という生き物から消え去りたいのだ。

 繰り返し叫んだところでそれらは疎外を得ただけだ。

 哀れな化物め、この場末のブログから出て来るんじゃないぞ。お前は底で唸り、呻き、搖動し、人間ではないのだから、この社会に出て来るべきではない。器官には人間達の死が司られた。世界観の重なりは疎外器官(独身器官)を生み出した。その中から化物が現れる。私はその化物に人間を貸し出して、私は人間ではないと嘯く。囁かれる声は幻聴ではない。自身の敵意、不安におののく感情がそれを引き起こしている。本格的に太陽に焼かれなければ私の生存はない。

 人間は死を選ぶ器官の存在を想像上だけで行ったが、それは実在する。

 自殺は制御可能である。環境の一つ一つに織り込まれた社会からの疎外、病気、障害認定は救いとならない。それが生み出すのはちょっとした手当と多くの労働から疎外されるという現実だ。優勢論は間違っているが、この社会の持つそれなりを満たせないのであれば貧困と死に導かれるより他ない。格差が広がり、犯罪が増え、アメリカで生じる犯罪の多くが黒人であるのは貧困が大きな要因だからだ。遅かれ早かれ衰退しない為にはそのような競争と貧困の只中を突き進む必要があるが、この仕組みはやはりどこかおかしい。世界の速度は二次関数的に発散を始め、そこに立てる人間は限られている。このシステム、構造は最適ではないが、その中で最適化が進んでいく。このシステムも人間の曖昧性から整合が取られて来たが、それが許されなくなる。適応の仕方を間違えれば、ただただ発散が生じ、私達の辛さは永久に消えることはない。

 全てが現実から離れる。人間は殺しを目の前から遠ざけた時から、距離を取り始めた。情報は口伝から離れ、顔も知らぬ人間の情報を得る。私がここにいようがいまいが地球上の誰とでも情報交換が出来る。
 目の前にある現実は現実感を失い自身の世界観だけがこの地に広がる。私たちを死に至らしめる数々の暴力、競争、、、そして愛。愛とは排除であり、世界観の極北である。個の世界観に閉じ籠れば閉じ籠るほど愛に満ちた世界が現れる。エコーチャンバーは愛の波動である。その繰り返しと発散は愛のプロセスである。何かを愛するということは排斥することである。

 私達は愛によって殺され、愛によって居場所を得る。この社会の愛により私は排斥されていく。それが持続可能なよりよい社会、SDGsなのだろう。

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 トランプを支持 = 白人至上主義 ∴バイデンを選ぶ。

 人間に多様性は扱いきれない。社会性は細々とした同士を作り、そこから外れた者達を攻撃、対立、反発しては自身の社会を拡大させる生き物なのだから。概念を広げれば私達は人間という種として協調して生きていく。そんなことが出来るのならばその例を示さなければならないが、この社会ではそれは実現していない。

 差別は単一国家であれば大きな問題として取り上げられることは少ない。容姿年齢性自認病気障害、起きるとすればそれが要因だ。人種という広い範囲ではない。

 近代の人種差別はアメリカに端を発する。黒人差別は大きく取り沙汰されるが、アジア人に向けての差別は大きな活動とならない。黄禍説。そもそも認めようとしなかった事実もある。学生時代、私は知らなかったが、中国を脅威に感じたが故に彼らを排除しようとする動きが昔有った。そうしてまたコロナ禍によって(一部の事実を見ようとしない者達による)アジア人に差別が引き起こされる。多くは無知による偏見、学ばなくとも学びはある。それさ社会を通して得られた経験だ。それを自信満々にひけらかす。上記の発言の動画をSNSで見かけた。誰かがああ言っているから正しい、関連の無い物事をあたかも関連があるように振舞わせ、屁理屈しか言えないのを呆れて離れれば、逃げたそっちが負け。人間は十代から死ぬまでほとんど変わっちゃいない。何かを学ぼうと対立すれば同じようなものだ。

 短絡で間違いと分かる社会活動の数々に辟易しているが、そこから出来得る限り多様な幸せを実現するのは可能だろうか。2歳児を肘内するような男が、子供を虐待するような親が、そうならないようにするのは無理な相談だろうか。

 多様性とは名ばかりの欠陥。建前上はルールを打ち立てることで可能だ。しかし、そうやって人間の居場所を窮屈にすることが多様性なのだろうか。持続可能な社会なのだろうか。(増え続ける人間は地球のキャパシティーを越えてしまうが、そうやって荒廃するのも自然の摂理である。生き物が全て滅ぼうが地球は太陽の爆発までそこにある。保護しようが、保護しまいが、それはエゴである。)

 150年。国が出来て200年あまりの国家はそのほとんどが差別と征服と、自由を勝ち取れ。ただただインディアンは殺され、アボリジニは砂漠へ追いやられ、アタワルパは御輿から落とされる。

 歴史は語っていた。暴力装置を改造しなければ。先日ロシアで70人ほどが撃ち殺された事件の映像を見ていた。散弾銃で砕かれた脳、逃げられず背中に撃ち込まれて斃れる命。細長い男が弾を込め、淡々と殺しゆく様、虐殺が組み込まれた私たちの種。だからルールが無ければ私達は多様性を担保できない。

 駄目だがやらなければならない。

 それなりな努力では崖の縁に手をかけるだけである。

 やる必要があるのは、生活を続けるため、老いに殺されないため。年老いれば思考は短縮化する。①〜⑩の手順があれば①の次は⑤や⑩が選ばれる。
 それが悪いとは言わないが、ショートカットするほど方向性は決められてしまう。確たるものは接続だけである。世界観は代謝を続ける。社会で生き、繰り返し体験してきた物事が強化され、短縮する。人間は楽をしたい生き物だ。この社会に横たわる無数の重ね合わせがとても厄介で全ての人間が是とする社会は未だに実現していない。自我がある限り実現しないのかもしれない。

 私はこのように地下室の散文で発狂している。

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 心臓が捧げられたのだから

 もう書くことはないんじゃない?

 そうは思っても私は文章の亡者である。仕事も出来ず、何ら価値のあるものを生み出せず、このような文章を書くことだけに特化した人間だ。会社では何を言っているか分からないと言われ、何をしたいのか分からないと言われ、私は価値ある人間ではない。しかしながら文章を汲むことだけは一人前に出来る。もしかすれば妄想症の意味不明を連ねているだけかもしれないが、誰も見ていないのだから一人前だ。

 人間が作り上げる世界観という構造が重ね合わされるだけで、それを媒する接続子が何かまだ書いていなかったので、私は書かなければならない。死が世界を覆う前に。

 接続子とは人間達の世界観を重ね合わせる為にあるもの、私達が様々な行動や言動に指向性を持たせる状態を生じさせるものだ。具体例を挙げれば数学や物理の領域は私たちの界観、構造を接続する。地面に物が落ちる、風が吹く、数式は数式以上の答えを持たない。マウントを取り合う、所属が異なる者を排除する、種の特性からやってくるもの、これも接続子である。その中で一番強力な接続子が私が今このように綴っている文字である。様々な概念を小さな情報量にまとめ、そこに並ぶ文字は概念の指向性を形作る。文字は人間だけが持つ特異な接続子である。(この地球上においては)残念ながらクオリアが存在する為に、私達の世界観は完全な接続を行えない。また、学問の細かいところへ入っていけば観測によって得られるがためにそれらは極めて接続子的な振る舞いをするが、重ね合わせである。とも表現出来なくもない。今回はその話はせず、接続子として扱う。
 一方重ね合わせは人間が言語による抽象化、概念化を総合して作り上げた世界観、この概念の近似が重ね合わせの状態を生み出す。人間がグレーな存在であるのは、そこから出てきたから。接続子は重ね合わせの世界観と非常に近接しており、ともすれば同様の意味にも取られるかもしれない。しかし、接続子はそれ以上でもそれ以下でもない。ただ接続されるためだけにあるのだから、それらは綜合されないし、それらが組み上がって世界観が形作られるわけではない。あくまで、世界との接続により世界観を生み出すのは人間だからだ。接続されたものから世界を汲み取り、世界観を構造代謝<または腐敗>により作り上げる。未完成の王国が人間の正体であり、人間は完成されない。構造代謝のプロセスが完成させられたとしても、人間は未完成の王国を背負い、そして完成を夢見るままに待ち至る。皆それが完成に至ることはないと知っている。

 構造は代謝される。個人が作り上げた世界観は、例えばタトゥーを入れた人は一般人でないとか、バズったら宣伝、といった行動や思考を生む。反応が生き物であるので、常に他者から、マスコミュニケーションから更新され続ける。世界観が更新される。構造が代謝<または腐敗>される。ここを見落としてはならない。ただ唯一これだけを信じていればいい。これは構造が滞留し腐敗に至る原因である。かつての共産主義、かつての宗教戦争、野球、サッカー、運動会の大縄跳びに至るまで、ただ一つを信じる遊びは蔓延る。それが社会性だから、一つの指向性を持たせられれば人間はそこへなだれ込む。狭き門より入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。SNSにより構造腐敗を引き起こしている部分と代謝が起きている部分、注意しなければならないのはここだ。イデオロギーは道具だが、それらを全て資本主義に割り当てる。それだけでは辛さや間違いを生む。全て生きるために必死にならなければならない、障害があれば生きられない時代に比べてよくなったが、穏やかに生きるにはまだ時間がかかる。また、自身が沢山の称賛を得るという妄想が得られるが故に自己顕示欲にまみれた過剰な表現や妄想を現実のように語り自らの構造を腐敗させる。

 共有される理論、機械的な部分が接続であるのなら、機械が模倣した自我は何者か?

 無意識に享受される死
 哲学的ゾンビ

 機械との接続か、反応そのものを接続しなければならない。意識とは何か、意識はどのタイミングで現れるか、無数の選択問題を解けば良いか、その間に意識の働きが生ずるのか、単なる設計変数を定め、外側からは選択による意識を見たところで人間には判断が付かない。無数の変数を設定して、人間のような行動を取る。そこに意識があるのだとすれば、副次的なものが意識となる。何か意識の中枢器官があるわけでもなく、継続的生存の為の選択が行われる中から生じるもの、現象の一つ。私は前頭葉の衰えを感じ、感情を抑える働きが以前よりも弱まっているのを観察した。
 体を何処かにぶつけた時に沸く怒り、叫び、恫喝、これを発すると決めた私が意識である。0.1秒前には決められていた行動、①体表のセンサーより伝わった情報により②脳と神経のコブが働き、③外側の四肢が動き口が開き鼻腔は膨らむ。④結果、怒りという感情が観察可能な形で生ずる。意識は①により選択される全ての綜合である。①と②の狭間に存在する流れであり、量子的振る舞いであり、それらの現象を意識と呼ぶ。電子が媒介し、そこに現れる。
 私達が普段観察できるのは①と③である。これまでの経験から類推の可能性を生み出し、受けたものと反応がわかる。
 そうやって、人間は他者の自我を類推する。意識を想像する。そこに生じる接続こそが元型でもある。

接続

 私たちの構造は接続により代謝または腐敗する。繋がる行為が構造を作る。妄想の中で自身の神性を確信し、世界観の重ね合わせが消えつつある者、分裂者であっても世界との接続を土台にしてそれを作る。(尻から太陽光線をきらめかせるように、私の太陽礼賛や、自らを太陽神の生まれ変わりと信じる者、キリストの生まれ変わりと信じてやまない病室の男、環境兵器の存在を実しやかに信じてい陰謀論愛好家、これらの人間は他者との世界観から遠く離れたように感じられる。しかし、太陽はそこにあり、神は形骸化した形態として続き、台風や地震は皆が観測出来る事象である。それらが世界との接続なしには得られないものであることは自明である。)
 ここで一つの疑問が提示される。私たちが生きる社会の仕組みは、構造代謝により現在の形がスタンダードとなった。この資本経済は、人間を日々の労働から解放し、週間、月間、年間単位で労働と稼ぎが担保されている。(Uber eatsなど、日雇いの利便性、価値の見直しは生じているが、安定と余暇による思考、活動がしっかりと出来るのは休暇や給与が約束されているからで、そこから離れれば途端に不安に襲われる。しかしながら怖がりな人類は子供の学費、老後の資金、結局死ぬまで資本が失われるのを恐れ続ける。だからといって反動的なマルクス主義に落ち込み、それが正しさを持つのは間違っている。頭をすげ替えたところで人間は個人の利を最大化する哀れな生き物なのだから、機械的な理想を謳う世界観は人間には出来ない相談だ。)だからこそ資本を稼げる者から税を取り、弱い人間も救われるようになり、ベストとは言えないが、それなりに代謝している。
 しかし、この代謝は本当に腐敗を起こしてはいないのか。ちゃちな金稼ぎや射幸心を煽るだけのロクでもないビジネス、至る所に見られるこれらは代謝の裏で必ず生じる腐敗だが、それが完全な社会の腐敗を引き起こすことはない。
 だから私は一つ個人に目を落として考える。

「資本化される自我の接続は構造代謝であるのか?」

 バズる、世界観の薄く分かり易い重ね合わせは、広告として機能する。世に蔓延るインフルエンサーをハブとして個人が資本化される。金を生む、こうした行為が代謝を続けた先にたちは豊かになるのか? それは腐敗か? イデオロギーや主義は接続である。それは神でも是でもない。私たちが接続され重ね合わされる世界観はただの構造であり、そこに確実なものなどない。接続だけが確実にあり、変化することはない。変化は構造に生じる。
 ただ唯一の資本化こそが是とされる社会(とは言っても資本は増大させたいのが人間のサガだ)は病んでいるのは間違いない。人間は社会性を持ち、その指向性で安心するが、その過剰適応は構造腐敗である。他の目線から社会を見て、人間として生きなければならない。しかし、それがなければ私のような弱者は踏み潰され、成人するまで生きちゃおれまい。
 このまま続ければ死ぬ瞬間まで労働者として生き、老人になろうが死ぬまで労働である。人間は楽にならない。死んでいた者が生きながらえても辛いだけだ、それを無能と笑う。
 死なないために資本化の波に乗る。すると現れるのは、歳を取っても幼稚な人種差別的発言や他者のからかいで金を生んだYouTuberである。彼らはそのように自身をコンテンツ化、資本化することで金を稼ぐ。そのキャラクターから降りることも出来ずにそれを続けるしかない。最早それでしか稼げない。自己は自我は資本化されている。稼ぐことと自分であることが一致する。その構造から去ることは出来ない。代謝が腐敗に反転する瞬間が何れやって来る。

 金は虚像でしかない。手段に溺れ、構造は腐敗した。
 それが無ければ生きられないが、多少それがあったとして、人間は豊かにならない。しかし金を稼げなければその機会すら限定的になる。
 そこで先に上げたyoutubeなどの手段で金を得ようと誰かの真似をする。

 資本的経済活動によって方向性を固着された私達の接続は腐る。加速主義によってシンギュラリティが生じたとしても、この活動の強化と方向性の固着は人間:意識という現象、これらが1-0の性質ではなく移り変わるものであり、その代謝は構造を保つために確たる方向性を持たない。(方向性を持つのは接続である。)単一の方向に偏った社会、世界はしばしばディストピアとして描かれる。身分証明書を売り払った中国の貧困層はほとんどの活動を制限される。自由と責任が上手く負えない為にポリティカル・コレクトネスは腐敗している。どうあっても様々な特性持つ人間を平等の意識で扱うことは出来ない。だからルールを作る。

 参考までに下記を引用する。

アカデミー賞、作品賞の選定に新たな基準を導入 キャストやスタッフにマイノリティ起用を求める(ELLE ONLINE) - Yahoo!ニュース

基準を見るとわかるように作品のストーリーだけでなくキャスト、スタッフ、さらに宣伝や配給、資金の調達に至るまで映画作りのすべてのフェーズに人種的/民族的マイノリティ、女性、LGBTQ+、身体に障害を持つ人が関わることが求められている。またこれらのマイノリティをインターンシップや有給の実習生として採用し、将来的な雇用のチャンスも提供するよう求めている。

 ビジネスとして、マイノリティが不利益にならないような活動。これは当然進められるべきで、全ての人間に全ての機会は与えられる必要がある。

 この評価の在り方のお陰で日の目を見る人はいる。しかしながら、ただのポジショントークで利益を引っ張ってきているに過ぎない活動が目立っているように感じる。グレタちゃんなどの活動や一部のアイヌ民族の活動をみている限り、それらは組織的で利権の匂いがある。そんなもので機会の平等が得られるとは思えないし、歴史や環境を守ろうとしても結局それが強権的に是として行われる形は歪みを生む。果たして、作品にマイノリティが関わるのが必然なのだろうか。人間が平等の意識を持てないから、ルールを作って、それによって構造が代謝され平等に近づくことが出来る。そうした形態から入る西洋的な思想にも思える。神の教え。

 作品を作りたい人が作る。面白いと思ったものを世に出す。過度に差別的な表現や露悪的な表現があればそれを無くせ。まるで人間は綺麗な絵空事の存在として空想される。現実には地を這い、世界すら理解することも能わず、確たるものが無い中で代謝させなければならない人間が、理想を間違った形で社会に押し付けている気がしてならない。そしてそれを評価する、それが価値あるものとして構造が代謝される。

 面白い作品を作れなくなってきているから、そうした付加価値を付けようとしているのだろうか。

 (常に希死念慮が募る)

 私は間違っているが、世間はもっと間違っている。

 良い悪いをはっきりと決める。これが社会のルールだからと決められたもの。この流れに疑問を呈し、行き過ぎた活動とならない様にしなければいけないと私は考える。だから自身が正しいと思ったことをやる。接続される世界観、構造を腐敗させてはならない。私は自身の構造を破壊する。

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 萎びたキュウリを齧り、青臭いウリの大地が広がる。

 スイカもニガウリもきゅうりメロンも同じだ。

 私はどうあってもあの引き込まれるような妄想から逃れられないので数年後の浮浪者は確約されたようなものだった。

 そんなことはない。「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせて見たりしてはどうですか。打ち消そうとしても、かき消されてしまうので手強い。何を言ってもその重力は強まるばかりで生きていくのが難しくなりつつある。

 まだ体は動く。文章が書ける。しかし、私はビジネスパーソンとして、技術者として、どうやら上手く生きられそうにない。

 気持ち悪く歳をとった私のような人間は大人ではない。

 死ねないから生きているのだ。

 間違いだらけの人生なら、嫌だと思ったことへ邁進すれば間違わないか?

 その考えすらも間違うのである。嘘つきのパラドックスと似たようなもので、必ず嘘をつくのだからそれは真実である。二律背反に落ち込む。

 言えるのは、死を望む私の思考も間違いである。間違わない道などあるだろうか、自身の世界観と社会システムが上手く噛み合った。私は目が粗く摩耗しながら回転していた。

 誰もが辛いのだから、という呪い。

 同じことだから、問題はあなたにある。クソ喰らえの思考。この社会が生み出した合理性は人間をフルイに掛けて残された者は捨てられた。

 単純労働の悪夢が続く。私はそうでもしないと生きられない。くだ巻いて文句を垂れ流し、それだけ。

 誰かが慕ってくれるから、いいえ。ただ苛烈に孤独を腐らせた人間である。人間の只中に於いて私はそのどちら側にもいないのであった。

 何者でもないが、それは糞袋と変わらぬ。誰かと関わる努力をしましたか?

 しませんよね?

 そうなのです。努力もなく喚いておるのです。

 何もしていないから悪夢に生きているのです。

「この際誰でもいいからさ」

「何を言っているのか」

 言い返したところで、あの冷笑、あの大将ごっこ、それがこの人生の総体である。総合体育大会、略して総体。ビジネスの皮を被ってやる総体は楽しいな?


 例えば浮ついた話のあれやこれやは私に一時たりともなかった。

 ⇒誰かと関わる努力をしましたか?

 例えば就職に際して私は単なる運のよさだけでこれまで生きてきた

 ⇒何か成果を残しましたか?

 例えば学校生活において私はあまり他人と仲良く出来なかった。

 ⇒会話のきっかけを作りましたか?

 例えば同人即売会私は薄笑いを浮かべパイプ椅子に座っていた。

 ⇒誰かと関わる努力をしましたか?

 ⇒しましたか?

 ⇒しましたか?

 ⇒しましたか? 

 ⇒⇒⇒⇒しませんよね?

 いつでも後ろ指を刺され。私に残っているものは何もない。この繰り返される散文だけが私である。その現象は私ではないが、それだが私なのである。存在の軽さに耐えられぬ。理想に据えた存在の重さに耐えられぬ。浮気者のしょうもない恋愛劇と地獄愛は構造的に似ている。

 浮気。

 そもそも誰かへの愛情を与えることもなく、また与えられることもなく、私は色恋の何一つ知らない。そこに渡された亀裂は修復不可能なまでに広がり、無限に落ち続ける。昼寝の最中に落ちるように慌てて目を開くもまだ落下している。

 私の年齢を考慮すればそれは異様なことだ。そこで培ったコンプレックスは酷く歪な人格を形成した。この自らに湧いてくる殺意と希死念慮もそれが要因の一つなのだ。

「誰かとわかり合う苦労もせず、分かち合うこともなく、隅でいじけてらあ」

 水槽の中で泳ぐ小魚、張り付くコバンザメをつついたところで私がいじけているのは変わらないぜ。

 何もないが、未だに高校生の頃の、

「そういうところが嫌い」

 といったあの女の言葉が繰り返している。

 具体的に何がイヤなのか、私には分からない。話し易そうな人間にばかり話しかけるとか、ズレたユーモアで困惑させるとか、異性から目が離せない意識の気持ち悪さが治らないだとか、さまざまなことが私の内奥で渦巻く。

「あんた拗らせちまったんだよ」

 ご名答! というわけでもないが、私の心臓を捧げよう。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火