Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

太陽でその身を焼くこと以外

消え去る前の小話

ここに救いはない

そもそもそんなものはどこにもないのだから

たった百年ぽっちの人間を信じる所はまったくない

 自身の狭苦しい境界から自信満々を放り投げる言葉の数々。世界観は重ね合わされるが個人は独立して自身を価値ある存在と定義すること七十億。私はその外側に放り出されたが、内側に存在している矛盾である。

 肯定されるべきは焼き尽くされることであり、私は焼かれなければならない。この体も精神も窮屈な世界とこの私との背反に苦しんでいる。とにかく生きねばならない。とにかく利益を、幸福を、他者よりももっと。この生き方の窮屈さを私は良く知っている。(一つの側面から見ればそれは正しく、私達は外側でそれを望み、その只中に自身を固定しようと努力する。)立ち止まれないのだ。後ろに進めないのだ。許されているのは一時間程度の休憩でしかなく、私達は『求刑:一世紀あまり』を骨の髄まで堪能する。

 誰かの発言も、誰かの生き方も、枠に押し込める為のマス・コミュニケーションも、ともすればコンプレックスを刺激し、人間達を競争の只中に落とし込む。彼らは資本主義の叡智なのだから、それはやはりある側面から見れば正しい。

 身長、体重、毛髪、美醜、これらに対する下劣なまでの宣伝が私達の目の中に飛び込んでくる。検閲しろとは言わないが、ありとあらゆる手段を用い、私達は資本の獲得、利潤の追求、アップシフト、上へ上へと昇ろうとする。維持は滅びと嘲り、停滞は愚行と罵る。かのような働きがこの社会にはある。そうしなければ生き残れぬ。

 目の前に刃が突き付けられているわけではないが、明日死ぬかもしれない恐怖は曖昧にされたとしてもずっと残る。戦わなければ死ぬから、それが霊長類である。かつて現実逃避の為の麻薬が他の娯楽に代用されても結局は変わらない動物なのだ。

 それが悪いとは言っていない。良いとも思わない。ただの在り方、なのだからそれをどうにか全ての人間がある程度良い向きに享受できる形としたい。これが社会である。社会主義共産主義も資本主義も独裁も出所は同じようなものだ。結局は手探りで手直し継ぎはぎして何とかやっていくしかない。

 だから私は太陽でその身を焼こうと願った。この体を爛れて痛み、醜い形へと変えなければならない。虫たちに喰われ、そうして骨すらも残さずに私は身を焼かれなければならない。それも、他者からの強制なく、自発的に自身の肉体を壊さなければならない。人間であること、動物であること、それらが徐々に私の嫌悪に繋がっていく。

 股下骨延長の男性を見た。不自然な歩き方と走り方に私はその体こそ、そのやり方こそ、私を傷つけるものであり、そうした人間らしさを大切にしたいとも思うのだ。その一方で私は太陽に焼かれ、この私が滅されるのを心の底から望んでいる。

 破滅的な思考は自身を嫌なところにまで落とす。だからそんな考えは捨てて、体を動かして楽しいことを考えて健やかに生きよう。

 嬉しいなあそんなことをまだ考えられるなんて。

 にくいなあそんなことを未だに考えているなんて。

 この世界に訪れる救いはただ一つ「死」である。死は連続性の獲得であり、私が何者からも不干渉な存在として消えゆくその永遠性以外に救いはない。誰かを思ったり、死後裁きに会うだの、地獄行だのといった不連続性の再獲得を成してしまえばそれは狂乱の世界である。この一片切りだから楽しいんじゃないか、これだけしかないから後悔だって、なんだって、再帰的なのはこの「生」だけだ。巡るのは炭素や酸素といった分解の結果だけである。

 このWEB上に私の自我を保存しておき、それらが私のあずかり知らぬ所で自律的に動いている。それは不死だろうか?

 それらは断絶する。クローンが私を精巧に模倣出来たとしてもそれは私のこの「意識」と断絶している。世界観だけが接続され、世界は明確に分けられている。触れ得ないその世界を共有できなければ、意識を連続体として形作らなければ、それは不死とはならない。

 不死:繰り返すこと ではない。

 不死:固定された連続体 である。

 果たして、これらの文章は「単なる無能の喘ぎ」だろうか。お前はただ甘えている。周りを見ろ、Watch me、Watch me、もっと努力をしなければ、もっと生きなければ、、、無条件に生を許容できるその強さを私は太陽で焼いてしまいたいのだ。

 私の生はそれ以外にはない。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火