悪夢を臨む
弱者の話と内面の話が繰り返されるのがこのブログである。言葉を連ねることだけが私のやることであり、意義であり、その錯乱、恍惚だけが私である。仕事で無能な私は何も成し得ない。あの上下関係、強いか弱いか、この三十年と少しがずっとこれだけなのである。金と信用を得る。ということだけが私の存在意義になっている気がしてならない。
それなのに、何かをする気がないのだ。
休日は脳みそが死んでいる。
この世界は神を殺したが、宗教は殺せなかった。ただ、秩序や人生をより良くするための教えとしては必要だが、結局宗教が成し得たのは血と暴力。
オキシトシンによる排他性。自身の所属する集団が優れているという妄想。私たちは悪夢の只中にいるかのように思えてくる。といってもこの悪夢は恐らくキリスト史前から続いて来た。そうしなければ集団を作って他者から生存できなかったから。
それを悪夢と認識する私は集団の中に存在できないのであるから、少し前であれば孤独に肉食獣に殺されているか、他の集団から殺されているだろう。私というたんぱくが他の生物に召し上げられ、そうして循環していく。
悪夢は十分にある。人生に夢を持ってはいない。だからか私は夢をほとんど見ない。ただ死に、また次の日に死ぬ。これの繰り返しだ。人間の生、生活は必ず次を考えて生きる。そして唐突にその次は取り上げられる。そこまでとりあえず続けるこの錯乱。
人生への適応、時間への適応によって私は一日をほとんど認識できない。気が付けば一月経っている。そうやって精神は老いを認識できず、体だけが滅び去る。
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ガソリンスタンドに立っていたんですが、油種が分からずに立ち尽くし後ろからトラックが大きく空気を吐き、エンジンを吹け上がらせ、舌打ちが聞こえた。飛んできた煙草の吸いさしは足元に落ちた。
ここでなんのために生きているのですか。
大事な箱を持っていくためなんです。
そんなぼそぼそとしたやり取りをして、ガソリンスタンドからカー用品ショップを見ている。あそこに車が浮いていますね。箱はそっちの赤い床に置いてね。
ええ、車は浮くんです。
そうだったんだ。だから頻繁にメンテがいるんだよ。
ええ、車の下に入ってね、ラチェットを回すんだ。
今日の天気はグレーです。色が無い日には外出を避けましょう。だから子供たちは嫌がる。仕事に向かう連中は少し微笑む。
クルマエビが食べたいんですよね。帰ろう。ずるずると体にまとわりつくボイスロイドの音声が自我を形作った。私は結月ゆかりではない。違うんだ、信じてくれ。そう思っていた。口から出る言葉が私と違っている。
車が浮いているからだ。あれは自我だ。私は機械音声だった。
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何か創作がしたくてここへやって来たはずなのですが、私の頭はぼんやりと幕が掛かり何もしなくなっている。ただコンテンツを受け止めるだけの愚鈍、自涜を繰り返す猿のように思考は腐っていった。
そうして同じ話を形を変えて発している。
ゆえにそれは悪夢にも等しい。この社会が悪夢であり、その中に生きる私も悪夢である。もしくは<自我=悪夢>である。太陽に焼かれるには、そうである方が都合がいいが。
同じ所を回っているのが人生なのだろうか。ただ、孤独に苛まれているからだろうか。同じことが同じように生じ、同じような認識を設け、同じような言葉を連ねる。
私がここで50と少しの記事を書き終えた時、それを感じた。発覚した。誰かを愛せなかったからではない。誰かと人生を歩めなかったからこの繰り返しの中に落ち込んだのか、それは違う。
私が目指したもの、やりたかった表現、そうしたものをやった後に続くものが悪夢にしか見えなくなった。それは地下室から拡声器で叫ぶのにも等しい。
なにもないわたしは表現すらされずに消えてしまうのでしょうか?
このブログそのものが悪夢を臨んでいるものに他ならない。夢を見なくとも、悪夢を見ることは出来るのだ。このWEB上に溢れる極端化、排他性は田舎のムラ社会と似ているがより一層悪意が強まる。これは現実に蔓延る悪夢だ。
つまりだ。現実に生じ得る「悪堕ち」は緩やかな変化を遂げる。非現実的で「実用的」なものは洗脳を簡略化してそれを実現する。否定していたものを反転させる瞬間に、人間が取り返しのつかない場所まで進んでしまった時、そこに存在するカタルシスが私は好きである。面倒な人間がシンプルな形で人間でなくなるのが良いのだろう。
先鋭化した自我は人間ではない。この社会にもう個人はないのかもしれない。
そう思い始め、私はこの社会との接続がほとんどないことに気付く。
もうどこにも、誰にも、なんであっても、私はただ悪夢を見て生きている。この社会が辛く、分断を狙う阿呆どもの踊り場でしかないのであれば、やはり悪夢だ。夫婦別姓の話も、選択的とのたまいながら同性を「旧態依然とした」とか「価値観のアップデートが出来ていない」などと集団を分け、自身の糞下らない恍惚に使い、ただただ分断を産もうとする目的に幾つか思い当たり私は全てに石を投げつけたくなる。
お願いですからわたしを表現して頂けないでしょうか、お願いですから。
それらの記号が意味するところは何にもないのであるが、その記号にしがみつかなければならないアイデンティティなど捨ててしまうべきだ。そうした名前わけの区分が集団としての意識すらも分けてしまうのを恐れる。攻撃的な人が、夫婦の姓で揉め、それを子供に押し付ける先が容易に想像できる。(大多数はそこをそれほど気にしないようには思うが、活動をしている人間の熱を見るとそう感じてしまうのだ。)
子供に両親を選ばせる。子供が姓の違いを集団の違いのように捉えて疎外感を覚えないか。など、大人の都合なのに子供に責任を押し付ける。