Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 【空の頭蓋】

 人間はなにもない。

 そもそもが相対的なゆりかごの振れる動きそのものであるから、

 それ自体には何もないのだ。

 ただ食物が挿入され、社会性もなく生存させられている。何のために? この生が成すのは労働者として社会を回す小さなものである。何をしていてもこの頭蓋の中は空のままだ。 

 私は周囲の人間と違うんだ、という意識はありますか?
 あります。分裂症です。
 ▶︎ありません。等しく糞袋です。

  空洞が入っています。

 哀れな世間と個もなく生きている。全てが無為である。社会に押し付けられる価値など、この肉体から押し付けられる価値など、ただ死なぬ、生殖を続ける輪を回り続け、私はここまで生きたのだから報われるなどと虚しい空想を続けた。

 いらっしゃいませ。愛想を振り撒いたら陰口を言われた。愛想がなくても陰口を言われた。 私たちの主要課題は社会的に優れた者、優れた個体との生殖、だからこそそうでない者には厳しい。それは性別関係ない。美醜、年齢、金、立場、、、人が惹かれるのは外面から。内奥は特にありません。

 頭蓋は空洞なので。

 そう言ってしまえば人と深く付き合えないからそれが分からないだけだろ、と社会は言う。自身の恵まれた土台、これを認識していても自身の責任は自身で取らねばならないから結局は課題解決型の人生である。

 発達障害と認められたら何か変わるか、HSPだと宣言したら世界は変わるか、根本は変わらぬ。やはりそれで慰めようとしても私は私であり、人間は人間であり、そこから逃げ出すことも、変化させることも、その短い一生ではほぼ不可能である。

 自分を変えずに、世界を変える。果たして、どちらが変わったのか。世界が変われば自分は変わらざるを得ない。自分で世界を変えたとすればその変わった先の自分に変化している。キャッチコピーとして少しは目を引くのだろう。

 結局そこにいること、絶えざる選択の檻が人生である。私は能力がないのだ。無数の妄言と駆逐される自我、選択などない。しかし、それこそが君の選択なのだよというものだから太陽のせいでアラブ人を拳銃で撃ち抜き、全ての動植物は太陽へ伸びる。勃起するのだと感じ、全てが性的なものであるという妄想から逃れられない。

 そこで【功德】がある。 

 報い。

 血の代償は罪禍を被ることにより、

 冠る血液により得られる。

 イコンは体に巻き付き、私は私のものではないと錯覚するのが宗教である。または善行による報い。月に住む孤独な老人は太陽により伸び進む地球を見て、それは焼け焦げるため、それは発情により死んでいく有機体達の興奮であり幸福な勃起なのであると確信していた。全てが性的であり、社会はそれを隠して遊ぶ。

 攻撃性から性的なものが害であると槍玉に挙げられるのは男性が主だが、対比される女性も大概である。

 動物はそれでしかない。この言語と概念で遊ぶ霊長類が優れているなどと私は思わない。この社会も文化も安寧を、秩序を生み出したのは全てが生殖のためである。

 多様な価値、その価値だってこの社会に於いての価値であり、その渦の中心は死にたくないと生殖だけである。怖がりだから、私たちは血を被る。太陽へ一律伸びて向かい続ける。焼かれる。

 私を見縊る全ての者へ私を軽視した全ての者へ私を軽蔑した私を下した私を下に見た私は私を許さないしそうした者達を殺さなければならない。このクソみたいな人間ども、馬鹿馬鹿しい世界観で喚きやがって、全員死にやがれ。

 徹底的に人類を破滅させてやりたい。

 こんな生を受けたことを後悔するくらいにめちゃくちゃにしてやりたい。

 うるせえな黙れよ。自殺すりゃあ済む話だろ。

 そんな勇気もない。ゴミどもの社会性に沿って殺されるわけにもいかない。

 やるなら大きくなければいけない。

 このように主語を大きくすれば社会が殺してくれるのは多くの犯罪者が教えてくれる。死刑の基準となった三名、計画性が有れば一人でもいい。強盗殺人であれば一発で括れる。これは自由な選択としての最期の手段である。

 それを選択してはならないのだ。しかしそれを理解していたところで、それを弱めることはあまりない。軽いバイクに乗り、トラックにでも突っ込んでしまえばいいのだろう。しかし、それもこの社会の迷惑になる。

 そもそもが社会の迷惑者である私が何か他人に喜ばれる価値を提供できるかと考えた所で、それが提供出来た試しがないのだ。一人で生きるしかない。一人で死ぬしかない。そこに誰の手も必要としてはならない。

 何か人間らしい活動が出来ればよかったのですが、虐待する人間でも子を成し、それは何らかの価値を生み出す。不当に亡くなってしまう子供たちの代わりに私の命が消えてしまえばいい。彼らには未来が有ったが、それを奪ったのはほんの少しだけ長生きして、親となったろくでなしども。人間、動物としての思い上がりから子の上に立ち、偉そうに世界を決め付ける空しい行為の数々。ただ親になっただけで自分が何か素晴らしいもののように思える人間が多い。

 私のようにこの社会に存在する意味が見いだせず、ただただこの太陽に焼かれる。太陽に向けて興奮している。それは焼かれる為の射精である。あの太陽に重力で落ち込んでいく様、私はそれを見ながら最後までは見れず、膨大な熱量の中へ消え去る。人間というものの哀れな短い生に執着する愚かな私を、戴冠されど自縛に過ぎぬ。権力、酒池肉林、そうした中で死んでいく。私の体の中から無数のヒメバチが肉を食い破り出て来る。その時私は生きているが、大量の昆虫が私を埋め、喰らい、そうして生殖を始め、そうやって私の肉は血は皮は目は内蔵は鼻腔に入り込む昆虫、全身を蠢く幼虫、意識のない私と自我、それら全てが連続してこの場に生え揃い、そうして太陽へ向けて飛び立つ。生殖の為、生と死のプロセスがそこに完成させられ、その脈動はパルスは脳の反応であり太陽系であり、銀河であり、無数の宇宙である。全てその模倣によるものだ。人間には自我が無い。動物には自我が無い。あるのは精巧な宇宙のマクロを今ここに見える形に下ろした、ミクロな世界は宇宙である。全てがその贋作であり、紛い物であり、本物であり、営みの中で社会が宇宙の働きをシミュレートする。

 私は太陽に繋がれている。あなたたちが人間と社会に繋がれているのと同様に。

【死骸】

 だから私はもう死んでいる。

 何者にもなれなかったが、それを慰めてやることもできない。

 ひとたび自室へ戻れば私は死骸なのだ。辛うじて労働により生かされているが、それは死の期間を先延ばしにするだけの無駄な足掻きである。ただ生きる行為に連なる数々の虚無感、都合よく人間を動かそうとする人間と積み重なる年月、腐りゆく私と周囲と過去を懐かしみ続け私たちは停滞してしまった

 無数の脚を捥がれたバッタはその高いアクリル製の箱の中で付け根だけをモゾモゾと動かす。私はその中の一匹だ。マッチ箱に仕舞われることもなく、怒りによってぶちまけられ散乱するバッタはもう死んでいた。

 資本経済が押し付ける全ての人間らしさから飛び出そうとすればそれは死骸である。私は室内で亡骸となり、バッタとなり、動物となり、サメに喰われる。結婚相手は雌のコモリザメである。吸い込んで腕を噛みちぎられることこそ私の婚姻の証である。広範に広がるのが非モテ男性の悲喜交交であり、極点であり苛烈なのが非モテ女性の悲喜交交である。つまり社会的な幸福は女性の方が多い。(純化のためマイノリティの話はここではしない) そんな風に穿った見方をするのであれば頼むから早く死んでくれ。人の辛さを相対的に決め付けるから私達は辛い。等しく辛いことはあるので出来ることを持ち寄って生きていきましょう。太陽に焼かれる為に、そこへ伸びる性的な人生として。

 私を食い破る寄生生物はどうやらまだその機会ではないと思っているらしいが、おそらく私が太陽に焼かれれば急いで出て来るだろう。私のような人間が何かを満たそうとするのならば、それ以外にあるまい。

 相対的に死んでいるのか、個人的に生きたくないのか。

 相対的に死んでいるから、個人的に生きたくない。

 が正解だ。

【爆砕】  

 SNSの底辺。血溜まりのミミズどもそれが私だ。

 何もかも上手くいかなくなって、幻ばかりが個人のお為ごかしとして。

 野菜を弾け、殺せ。

 上手くいきそうにない人生をどう上向きに理解すればいいというのか、神戸のヤマトで女性を刺殺した人間の終末は世界観の接続が元より弱っているからだ。思い込みと自意識の反復によって怒りが醸造された。発酵し泡立つ憎しみは自己完結的で、愛によるものだと思う。そこでは社会性が失われ、自己の世界だけが際立つ。

 しかしながらこんなニュースもただただ消費されるコンテンツでしかない。知らねえ阿呆がヤケクソになって事件を起こした。それらは自分ごとではない。自分(の所属するコミュニティ)以外死んでも構わぬ。国に飼われているのである程度の対話は存在するが、こうした異物化してしまう者は処理を待つばかり(そんな異物でも働き、生存する選択は残されているから、この社会全てが狂っている、悪である、破壊すべきだ、というのは短絡的である。私は私を消してしまいたいが、自己の破滅願望とそれらはキッカリと分ける必要がある。社会が接続と重ね合わせの世界観で得られるのであるならば、自我と社会の変更は別領域の話とすることができる。自我を満たすためのイデオロギーなどゴミクズである。自我を押し通す正論など押し潰せ。)

 どうあっても異物化は免れないのである。どうあってもこの社会性の失われた自我からは他人と一緒に暮らすことなど、生きることなど出来ないのだ。

 私はかつて生きていた。砕かれて呑み込まれた自我と発破の熾りを受けてもう生きてはいない。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火