Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

312336

消え去る前の小話

私はなんて事のない一介の労働者である
 だから消えたいと願った

死のうと思ったのは
 自らの善性が信じられなくなったから

死のうと思ったのは
 有象無象の産業廃棄物だと認識したから

死のうと思ったのは
 この長い社会人生活が死のその時まで続くから

死のうと思ったのは、、、

 35までに死んじまうだろう。私はその後の人生は敗戦処理でしかなく、いかに「綺麗に死ねるか」消えることが出来るか、その為にしかないとぼんやりと思っているのだ。もう後残り3年しかないのだが、そこから先、例えば今続けている何かが個人的な価値となり、社会に何かを生み出すことがあるかと考えた時、やはり私には何もない。それは、生存にかかるコストが自身にとっては高すぎるからか、小説や動画を作ってみようとして、それらが他者にとっては通り過ぎる数々の迷惑な広告とそれほど変わらないなんていった事実が目の前にあるからか。

 そうは言っても私は生きなければならない。死んでやると思って、その勢いを保てる人間は少ない。私はそう言いながらも生きてしまうのだ。貯金をし、資産運用をし、死が目の間に現れるまで生きようとしている。

かつて私は何かを生み出すことが出来ると信じていた。

いまでは私は自分を殺すことすらままならない。

 誰かがお金がないから助けてと言っていた。その声に私は答えてやることが出来ない。自身の世界は他人と隔絶されている。何より私達はその為に税金を払っている。だから生活出来ないような状態は恐らくこの国では起きない。少なくとも手を尽くせば死ぬようなことはない。私も同様に誰かを救えるだけのお金を持っていない。1度裏返れば死ぬより他ない哀れな単身者なのだから。誰かに正直にこうした気持ちを吐露した所でただただ迷惑な雑音でしかない。私はこの社会から囲われている。お金を渡し続ければ助かる人間はいる。ただ、この社会の構造上それは誰かの時間を資本化して、支払われるものである。人は1つ渡せば2つ寄越せと言い始める。1つをやめれば責め始める。それが特別なものではなく、習慣になる。

 私には誰かに特にリターンが無いままにお金を出してやろうとする行為、その責任を負うのが怖いのだ。1人ですら上手く生きられぬ人間が誰かの為になろうなどと、人間を愛そうだなどと、死に物狂いで何かやって生きている人間ではない。ただやりたいと思ったことをやってみて、続けてみて、それらは常に袋小路であった。全ては私に社会性が無いから。私にその社会性という欠点を越えられるような能がないから。過去に縛られ、それだけが私と社会を結びつける楔である。かつてゆりしーと呼ばれたプロ声優がいた。私が知る限りでは今は声で仕事はしていないようだ。クラウドファンディングと言っているだけの個人的な生存のお手伝いをお願いしていた。私はそこに過去以外見ることが出来なかった。能力があるはずの人間がそうなってしまうのを見ると、盛者必衰の理は私達が生き物である以上変えることは出来ないのだ。
 私も何れ過去に生きるようになる日が来てしまうのだろうか。そうなれば消えなければならない。過去に囚われてしまえば、世界観は薄れていく。薄れた果てにどこへも接続されず、重なることもなく消えてしまうのだ。消えない為には、過去にはない挑戦が必要だ。

 死のうと思ったのは

        価値の創造でなく     攻撃と浪費による

                             あぶく銭が溢れるから

 自身の心酔者が害をなす。そういった事例がやはり目につく。何かに対して否定的な意見を出せば、それを盲目的に信じてその逆を攻撃する人間達。私達がただ言語を操れるだけの猿であることは明白である。正しい情報などこの社会に全く必要が無い。正しさを個人に依存する危険性を理解出来ない人たちが増えている(もしくは元々人間はそういうものなのだろう)。人間の知性の敗北を目の当たりにしている。迷惑な電話により休業になってしまった餃子屋さん。話題となった人は自身でも飲食店をやっているにも関わらず、その影響を考えず我が道を進む。それはわがままだろうか、個人の時代だから許されるのだろうか。こうなってしまっても尚、責任はどちらにもあると言えるのだろうか。事実は監視カメラの映像とSNSの数kbの文字列と休業宣言と増えている店舗の評価だけ。それ以外は分からない。

 問題はマスクではない。多くの人が気持ちよく過ごす為にしていたことに難癖が付いてそれに対して白黒はっきりとさせようとする多くの人間の行動。こうしてブログに書く行為ですら人間をコンテンツとして消費していて私は嫌なのだが、この社会が変な方向に進んでいる事例として取り上げている。日々、ちょっとした気遣いをして、自分も周りも気持ちよく過ごそうぜ、というのがやさしい社会だと思っているのだが、その逆をするとそれがコンテンツとして金になる、資本主義的に消費されていく。私達の自由が資本化するといった点で棄損されていく。7万円で何が出来るというのだろう。全てが自己責任だと? この競争、この資本化、この人間ども。私達は私達自身のテーブルを削り、誰も立つことのない場を社会に打ち立てた所で、良い社会は生まれない。スラムを生み出して消えていく。先を考えていない人間が先を決める。そんな事例が広がる。平均年齢50代の社会はか細くけれども確実に繋がなければならない未来を描けずにいる。

 多くの人間は個人で何も判断できない。チャンスと怠惰の区別すら付けられず、誰かの意見を求める。自分の人生は自分以外誰も責任を取ってくれないというのに、それに気付いてもやはり別のそれっぽい言葉を求めて徘徊する屍食鬼。私達に自我などなく、ただただ少ない人間がそれに従う人間を動かす。誰もかれもがその糞山にまみれる遊びで笑っている。人間は糞が大好きだから、糞に塗れて生まれ、糞で遊びつつ死んでいく。最終的には糞を壁に擦り付けて耄碌。人生とは空しいものだ。猿山のどちらが偉いか競争に繰り込まれそれを社会性で隠しているだけなのだから。

 死のうと思ったのは
  すべてがくそったれの
   人類にばかり目をやったから
 迷える子羊はわざわざ狼に近寄らないが
  この社会では否応なく近寄ってくる

 個人の世界観ばかりが先行し続け
  後に残るのはヤクザな人間どもだけだ
 死のうと思ったのは
  自身もその一部であり
   この種の呪いからは逃げられないから

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火