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消え去る前の小話
無為
、、、一人。始まりは個人的な思想から生まれた。
人間の活動の全ては摩擦があるから。
全てが決められているならそれに対する反応でしかない。
ただ生きている。 仕事も生活も何もかもが生に紐付いた欲求なのである。 自身の立場を確保する為に誰かを見下し、自身は優れている。 彼は劣っている。 人間であることの瑕疵はただただそのようにして俺は秋田ひろむに 絶対負けねぇという気持ちだ。それは立場でも作品でも生き方でも何でもない。ただ負けねぇと思うだけの気持ちだ。
アーティストとして比べるまでもなく、私は滑稽で哀れだ。 だから絶対負けないと吐き捨て、 最終的にそのクソくだらない競争と勝ち負けと悪意と上昇志向、 資本主義に適応するわけにはいかない。 新自由主義で私たちは無能を置き去りにしていく。 そんなことは出来ぬというのに、構造で他人を陥れ、 間接的な殺人を成し得る人間は傲慢である。 中等教育の時にはもう分かっていた。人間は傲慢である。 社会性の構造に繰り込まれているだけの動物なのに偉そうなのだ。
二重思考を使いこなせ。イデオロギーや主義の奴隷となるな。 ナタフェミ、脱コル、 といった言葉を使うキャラクターがSNS上に散見される。 腐った青い鳥の元で喚いている。彼らは反出生主義の奴隷である。 結局そうでないものを見下し、 自身が一頭上で無ければ気が済まない。 同じ目線のキャラクターと反響を繰り返し、自我を失った。 だからただ攻撃性を言葉に乗せるだけの生き物、 SNS上でのキャラクター化に陥っている。 その側から見えるのは性欲であり、生存である。 社会に意味がある者である。 価値があるのだとわざわざ主張しなければいけないのは、 自己を肯定出来ていないから。 無為な行動で時間を浪費するのは人生だから。
私達は自由である。だから易々と、自ら望んで奴隷となる。一つの思考の、一つの思想が全て。曖昧な人間が作り上げた社会の中で、確たるものは何一つない。ただ上手く世界観が重ね合わされているだけで、それが出来なくなれば容易く崩壊する。
結局のところ必要なのは自身にとっても他人にとっても辛くない社会であ る。
BLMやANTIFAがそれを実現したか? または白人のパフォーマンスが。
私は断言する。それらの泡沫活動が辛くない社会を実現することはないと。
残念ながらその間にアジア人は存在しない。
辛さは余裕のなさから生まれる。だから敏感になり、ガチャガチャ喚く。
「それならさぞ大層なお考えがあって、 その為の活動をしてるんですよね?」
そんなわけがあるか。無数の人間が生み出す曖昧さと混沌、 世界が無数に重ね合わされる過程の中で、寛容さを勝ち得る。 余裕のある社会が実現出来るか。結局競争は存在し、 死体を積み重ね、上下が存在する。
結局は晩年のサリンジャーのように隔絶して生きるより他ない。
目を閉じ耳を閉じ、、、何もしない。 ホールデン君のように騒ぐのですか?
いいえ。社会も自分もすぐには変わらない。小さな熾りが繰り返され、気付かぬうちに変化している。私の希死念慮が年を経るにつれて強まるのも、自身の顔をじっと見た時、ある時ふと歳を取ったと実感するあの瞬間も、目を閉じ耳を閉じ、、、そんな孤独はやろうとせずとも何れ現れる。また、自分を変えようなどと傲慢になれる人間。小さな熾りは自身でも気が付かない。嫌々適応したものがストレスなく行えるようになっただけだ。私達は適応し、流れ、停滞は有り得ず、ただただ最後には死んでいく。
自分を変えることは出来ないが、自身は変わっていく。世界に不満があっても自分を変えることはない。それでも生きられる余裕がある社会が理想なのだが、不条理な世界と理不尽な人の世で自分を変えて生きていく、サバイブする。これは臨機応変に対処できるスマートさと共に語られることが多いが、これを美徳のように語れば我慢が生まれる、辛さが生まれる、余裕がなくなる。ストレスを受けながら仕事を進め、度胸が付き、自身が付き、人を上手くやり込めることが出来る。自身の利を大きくすることが出来る。立場が出来る。居場所が出来る。
そうしたストレスは自身の成長(という幻)を得ることが出来る。
結局変えたのではない。無理やり型に当てはめようとして歪み、このような文章が連なる。
不条理に耐えていても、希死念慮は生じる。私は消えてしまいたいのだ。
大抵の誰かに見せる為の処刑は何かを切り取る。人間から人間らしさを切り取る。動物である事実を切り取る。悪意は発言を切り取る。そうであるならば私は自我を切り取ってみせよう。この思考、この雑文、 人間は他人に向けて言葉や文章を発するが、私はそうではない。 木霊であり、虚しい反響であり、 輝かしきは産声を上げた時に捨てていった。ただ自身の渇きを文章や小説に載せて生み出すだけの生き物。人間らしい生き方はないだろう。ぐずぐずと湿気で腐り落ちるフローリングとカビの広がる机の上で私は文字を連ねる。この地下室で圧殺されるために、もう捨てるものはほとんどないのだから。
希死念慮は不意に広がる。ストーカーのように付きまとい、さながら分裂病者の集団ストーカーと似ている。 私に敵対する何か、そんなものは存在しておらず、ただただ所属した社会で有用でないという事実が社会性の檻から囁かれるからだ。
その時々でうるせえなこの野郎と吐き捨て打ち消しのために人類へ の殺意が現れる。こんな人間なのだから消えてしまえ何が希死念慮だぶち殺すぞ。これも希死念慮の具体化である。 殺人は計画的に、それで死ねるぜ。 他人には堪ったもんじゃない。死にたかったから、 などと言われ殺意を振るわれるのだからそれはするべきではないが この反芻をやめられぬのだからあと数年持てばいい。 労働により強化される自死の気分は私の社会性の低さから生まれる 。人間たちの社会は私とは遠い。私は清掃と幻想であり、 少女のスクラップを愛したあの男であり、 国家転覆を破壊を暴力を頭に掲げる極左連中であり、 新幹線でナタを振り回し、秋葉原へ車で突っ込む。 社会性の欠落と存在するべきではない異物。そうして行き場のなくした人間の暴力性だけが残る。社会のタガが外れた暴力装置はこの社会に溢れている。私一人が自我を失い暴力装置として機能した所でそれは何でもない日々の一幕である。身近に処刑が溢れ、誰かの横暴を窘める物語が溢れ、声の大きい敵意だけが空虚なSNSに反響している。
広がった果てに望むのは幾許かの自我の霧散だ。 暴力も競争も価値も何もかもが自我があるために存在する。 思い悩むお前の頭もただ不安を打ち消し生きる為だけの産物。 生存だけが唯一肉体から希求される要件であり、 その他全ては私の自我も意識からも離れている。余暇ですら、 想像ですら。
全ての選択を無くし、同じ行為の反復のみが私の自我を切り取る。
、、、尤も、私は摩擦で擦り切れてもうないのかもしれないが。