Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

弱者のための世界4

消え去る前の小話

 孤独死の問題を取り上げる。

 なぜなら、私が必ず陥る問題だから。

 社会から見えない透明な存在である私がここにいるのは、こうした文章の中だけであり、冷淡な女の目と暴力的な男の目から逃れられずに喉を掻きむしる以外にない。私は私の膨張し異様な形に歪んだ性的なものを引きずる。人間かと思っていたが、それを見れば人間ではない。

 昔、ゴブリンというあだ名が影でついていた。あの時はニキビのせいだったが、今は哀れな小鬼かもしれませんね。人間から距離が離れれば、後は死ぬよりほかない。

 糞真面目な精神が私たちを疲弊させる。

 正直であろうとすればするほど、しっかりと仕事をしようとすればするほど、そうなる。孤独を感じやすく、ストレスを抱え、心筋梗塞脳梗塞の危険が高い。サラリーマンは雇われなのでそんな責任感を感じなくていいのに、感じさせるのはこの社会を真面目に捉えているから。

 人間なんて根本はクズで阿呆でどうしようもないんだから、やっぱり少し辛かったら手を挙げる。自ら助けを求めやすい社会が良い。

 そこにも卑劣な連中は連なるから、難しい所なんですけどね。

 例えば、適当で口の上手い連中が耳触りのいいことを喋り、現実をまやかす連中だ。私たちはそれに付き従い、そうした「信者」と分類されて、判断力を失っている。個人の時代というものは嘘である。それは弱者を置いてきぼりにする。私たちは弱いのだから、個人でなど生きられる筈がない。

 そこに理想はない。そこに誤魔化されれば、やはり思うつぼである。

 私たちは孤独である。手を差し伸べようともその声は聞こえない。その中で潰れていく喉は潰され、他者に迷惑を掛けたくないばかりに一人で消えゆく。

 SNSで繋がりが増えたという人間は、本質を見誤っている。そこには表面しかないのだ。実際に会わなければ、対話しなければ。その機会を生み出すツールとしては良いが、今は糞みたいな使い方ばかり目立ってしまう。

 私たちが社会と繋がるのは、生身であって、その繋がりをもっとうまく回せないか、この社会がつまづいただけで死なないような社会にしなければならない。生き辛さを抱える人間も生きられるようになっているのだから、死に至る社会構造だって変えられる筈だ。

 助けを求めるのが恥ずかしいと思うことはどこから生まれたのか。私は他者との交流が苦手だから、このまま孤独に消えればよいと考えて、助けを求めようとしていない。他人に迷惑を掛けて来たから、これ以上迷惑を掛けたくないという糞真面目な精神がある。しかし、どうあっても他人には迷惑を掛ける。だからせめて自分が出来ることをやる。些細な事でいいはずなのに、どうして大きなものを求めてしまうのだろう。周囲のまやかされた「キラキラ」が世間に目立っているからだろうか。

 福祉の網の目から透き通ってしまう私たちは、セルフネグレクトに陥ったとしても、誰からも助けてもらえない。「ただ迷惑な隣人」 として存在するだけとなっている。

 この社会構造を変えることは出来ないだろうか?

 自ら助けを求め、その助けを周囲に広げていく。小さな活動から、私たちは弱いのだから、そうやって協力していく他ない。対話なき場所には偏見と狂乱が満ちている。

 そうした活動をする人間は弱くない。私は弱くないのか、それとももう狂ってしまったのか、日常を続けるという行為は狂気である。明日を必ず迎えることが出来るという自信は現実ではない。

孤独死した40代女性「社会的孤立」が招いた悲劇 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

浴槽で亡くなった場合は、警察が水の張っている風呂の中から、遺体を引き上げる際に、栓を抜いてしまうことが多い。つまり、腐敗した体液が、排水溝にそのまま流れてしまうというわけだ。これが、のちに大問題を引き起こす。

マンションの1階ならまだしも、上層階で孤独死が起こった場合、下層階まで排水管を伝ってその臭いが下の階に漏れ出てしまうのだ。下手をすると、マンション1棟を巻き込むほどの、大騒動が勃発する。

 私たちは浴槽で熟成されたシチューのように不定形だ。透明だった存在は鼻を駄目にする臭いとしてこの社会に現れる。病んだ精神と病んだ社会が生み出した臭気が私たちであり、孤独死は私たちの行きつく救いである。

 孤独にひっそり死んだとしても、処理に数百万円かかる。私たちはどうあっても迷惑を掛けるのだ。だから、その迷惑が小さいうちに何とかしなければならない。仕事でやった失敗を隠し通すことなど出来ない様に、そうやって隠していても結局はどこかで漏れ出て破裂する。時間が経つほどに失敗は呪いへと変わり、手の施しようのない損失が生じる。

 だからこそ、小さなつまづきをフォローできる社会が必要なのだ。

 自助努力と口を酸っぱくしたところで、その最初の突っかかりで崖に落ちないようにしなければこの社会は自己責任にまやかされて駄目な所へ進んでいく。

 孤独死は社会からの孤立、親しい者からの孤立。

 隔絶された個人が至ってしまう<病>である。

 私が実践しようとしたが成功していない孤立しない方法は三つある。

  1.  家庭を持つ
  2.  決まった周期の社会活動に参加
  3.  カウンセリング

 まずは一つ目。

 家庭を持つという行為がある。私の世界観が変わらないのであれば、最初から最後まで、弱い男はパートナーも家庭も得られぬ。男らしさというものが生き物として効率的な選択をしている。だから、間引かれ淘汰されるべき人間が私である。ただし、人間はそうした動物的世界から逸脱している。動物ではあるが、非動物的な世界を作り上げた。だから私のような淘汰されるべき人間でも生きているのである。

 だから、もしかすると孤独死ではないかもしれない。しかし、その可能性はサイコロの同じ目が三連続で出るくらいには小さい。世間にある男性像からは遠く離れ、それは努力が足りないから足りないから、そんな風に扱われる。

 数年前、異性と知り合う機会を意識して作っていたが、結局そのほとんどが一度切りの場だった。大抵、私は切り捨てられる側に存在している。私の対話能力が悪いから、どうやら、あなたに興味があるんです、という意思表示が私は弱いのかもしれない。

 そんな風に思い試行錯誤している内に、つまずいちまった。ただこの辛い人生を協力して乗り切ろうとしたかったのだが、私は自分だけで精一杯だった。これは知らず知らずに打ち込まれた役割としての男が様々な「らしさ」を私に押し付けるからだ。

 男らしく、女を支えなければならない。傅かなければならない。金を稼がなければならない、強くあらねばならない。

 残念ながら、このらしさは私一人の問題ではないから、女が女らしさの解放を時折叫ぶように、男も男らしさの解放を叫ぶ。ただし、それは冷笑を持って聞き流される。前者からも、それを聞いた周りの連中からも。

 フェミニズムを謳う男が男らしさを押し付けているのを見て、私は失笑した。人間は性差から規定される役割からは逃れられない。その役割から離れて生きられるようになったにも関わらず、ずっとそれが残っている。PVを稼ぐ記事やコンテンツもここから生えている。そうして分断を生じさせようとする。

 拗ねてもいいが、そのわがままをただ感情のままに押し通してはいけない。良く考えなければならない。考える場合、SNSは表面的でセンセーショナルな言葉しか目立たない役立たずの拡声器だから、そんな場所で議論など生じ得ない。ただただ感情がぶつかり、弾け、炎上などとしょうもない喚きがそこにある。

 だから、けっきょく。

 私はこれを選ぼうにも選べなかった。

 一つの人間性の喪失である。

 次に二つ目

 また、毎週ある社会活動に参加することも一つだ。ボランティアでも、趣味の活動でも、誰か他者と対話が生じる所を探す。精神状態が良くなく、セルフネグレクトが生じる前に、社会との繋がりを増やしておく。なんでもいい。小説の朗読会でも、朝活でも、勉強会でも。何か居場所となる場所が必要なのだ。

 はじめは上手くいかない。変なやつだとして距離を置かれる。これが辛いのです。最初は会話出来ていたのですが、段々出来なくなって、止めてしまうんです。全員が私を陥れようとしているのではないでしょうか、どうして嫌うんですか。私が悪いんですよね、成長せず、ただここに留まる私が。

 私は沢山の人達と関わるのが苦手なので、ゲームや何かをしながら、というものでなければ上手くいかない。それを分かったうえで活動をしようとしてもまだ上手くいかないのだ。

 社会活動は人間関係なので、必ず嫌な面や面倒なところがある。この障壁が大きいと感じて躊躇してしまう。こんな奴等、こんな連中が、私を知らずに馬鹿にしている。監視している。私を陥れる為に、私をこの社会から排する為に。

 そんな風に、精神のバランスを取れていない状態ではお勧めしない。

 先にも述べたように、小さなつまづきで崖から落ちない様にするために、こうした活動がある。誰かの助けになることをして、感謝をされる。小さいことでもいいんですが、そうした経験がちょっとでもあれば人生の足しになるのだ。

 最後です。

 カウンセリングに行く。

 私もはじめ、しょうもないことで、と少し敷居が高いように思っていた。こんな愚痴かどうか分からないもやもやを、拗ねちまった怒りを、誰かに話して変わるものかと。そうした所で何も変わらないのだから、言っても無駄なんじゃないかって。

 男として考えた場合、その行為に結果を求めがちなので、そう思ってしまうが、ただ吐き出すという行為がつまづきをちょっとしたものに済ます役に立つ。感情はどこかで吐き出さなければならない。呼吸と同じようなものなのだから。

 ただの対話と何が違うのでしょうか?

 とひねくれた私が言い始めた。これを二つ目と分けた理由は、関わる相手がある程度の専門性を身に着けているから。友人や親しい人間、適当な他人に込み入った話をしたり、感情に寄り添ってもらおうとするのは実は難しいです。そこには「らしさ」が氾濫していて、無自覚な押し付けが生じてしまうから、上手くいかないこともある。(また、支えてくれた人がいたので何とかなりました! という話や書籍を見かけるけれど、私たちのように孤立している人間にそれは役に立たない。なぜなら、そんな相手を見つけることも出来ない弱い人間だからだ。)

 私はよく利用している。それなりにコストはかかるけれど、感情に寄り添いながら、少しずつ良い方向に変化させるやり方で、小さなつまずきや精神の痛みをひどくならない形にしてくれる。人にもよるんですが、こうしたものは本当に辛い、ヤバイ、といった状態になる前に行くのが本当に良い。抱えきれずに零れてしまう頃には数か月、数年単位で癒していくしかなくなるから、些細なことでもそうした傾聴してくれる他人にぶつけてしまうのが良い。(勿論、友人などの親しい人でも効果はあるんですが、何度も繰り返せばそれは迷惑だし、同じことばかりで変わらないから相手が離れる要因にもなってしまう。そうすれば更に孤立が深まる危険性が有る。)

 

 私は生来ものぐさなのであまりこうした活動をしないが、そうやってずっと籠った結果を知っている。自傷を始める暴力性を目の前で見ている。

 だからこまめに、こうした社会と繋がる小さい行動をするようにしている。消えてしまいたいこの無能はまだ死ぬ気が無い。波は激しくとも、凪ぎは時折訪れる。

 私の人生はつまづきばかりです。一気に孤立へ追い込まれたことはありません。この社会とは徐々に徐々に孤立していきました。急激な変化ではないので極端な行動に走らなかったのかもしれませんね。

 最後の最後です。

 セルフネグレクトは以下の悪化順序を辿ることが多いです。最初の兆候が出て来たと思った時に「忙しいから」と思うだけでなく、一度立ち止まって溜まっているものを吐き出す。なんでもいいので、こまめに発散する場を設ける。そういった意味で、カウンセリングは役に立つ。というのが私の実感です。
 自身の身の周り、他人の身の周り、細かい所から精神の異常が生じますので。 

  1. まず水場が汚くなる
  2. 次に自炊・掃除がなくなり
  3. ゴミが溜まり始め
  4. 出掛ける気力が消えていく。
  5. 寝床でずっとスマホの画面を見て無為な時間を過ごし、眠るだけ。(私はアルコールが人より分解できないので飲めず、ただ眠るだけです。)

  私は孤独に喘ぐ粗忽者。ここでは長く生きられぬ。

 だからこの記事を残している。弱さの境界に足を踏み入れ、途方もない不安と孤立に飲まれないよう、誰かの参考になればと思いここで文字を並べている。

 記事を書くにあたって下記引用の言葉が身に染みて分かります。
 私は中途半端な弱者として、ぎりぎり大人をやっています。
 だからきっと最後は孤独死。ビニールシート二枚重ねで床に敷いていた方がいいように思っています。

ふとした人生でのつまずきが、一気に本人を孤立へと追い込み、社会から隔絶したまま、孤立、孤独死してしまう。それは、私自身も含めて、誰の身にも起こりうることだ。

孤独死した30代女性の部屋に見た痛ましい現実 | 災害・事件・裁判 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

 今日は長くなってしまいました。

 さようなら。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火