Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

315584

消え去る前の小話

 今の流れは誰が生み出したのだろうか、犯人を見つけようともキリがない。私はただ、正しいことをした。飛躍する理論が社会を動かす。過去の過ちが利用され、機械的な構造だけが回り続ける。
 審判、機械的偏愛。
 世界は個々の中に沈み込み、それらを重ね合わせ流していくオールドメディアはその意味を失う。

 HUBとなる人間を見たことがあるか? 明確に見た、存在している。そう言い切れる者はいない。人間の元型は何か? 神の血と泥である。金と銀と銅である。皮と肉に浸された彼岸である。

 流れは生み出された。戦わずして社会は何者かに負けたのだ。

 その中で私はなんでもないから死にたいのだろう。この世界が愛に満ちているから居なくなってしまいたいのだ。もしくはそう思わされている。思うように仕向けられた社会構造、人間の価値観、その中の強力な押し付け。

 このなんでもない毎日、能力の足りぬ私が仕事をしているが、人間たちから見てみればそれは仕事ではない。どうして私は死ぬ勇気すら無いのだろう。それもこの世界が愛に満ちているからだ。耳慣れぬチャイムの音が響き、一日が始まる。今日も目の前の物事を整理し、何かを推し進め、多くの他人に沢山のことを聴き、やるべき仕事を進めている。手戻りを引き起こしている。膠着させている。

 不意に見知らぬ他人に殺意を向けるのに? それは愛の反復である。どうせお前に人殺しは無理な相談だ。哀れで惨めな生き物なのだから、処刑されるまでは馬鹿馬鹿しい人生を送るのが君の運命なのだよ。指を差されたが、私に捻じ込まれたのは動物であるという事実だけである。起きて食って眠る。それだけを繰り返す。回転寿司。寿司勇者。私はあの乾いた〆鯖である。何れ廃棄される食品の一つだ。

 この言語も意味はない。私は社会人ではない。私は人間ではない。だから私は人間のルールで処刑されなければならない。上向きな人間が他人への期待をし過ぎて感情的になる。人間は人間に入れ込むのが好きだから、他人を同一のグループと見做す。
 下向きに熱意などなく、人間らしい賢さもなく、私は泥の沼に沈んでいく。歳をとればそれだけ私は死ぬべき個体である事実が増えていく。早くしろ、社会はクソみたいな俺を生かすな。などと喚いたところで私は自殺などしない。宅間守と同じような人間崩れなのだから、死のうとすれば社会に害をなす。太陽に焼かれ構造を破壊しなければならない。

 薬物で脳を破壊しろ。依存性などではなく、文字通り殺してしまえ。こんな思考など、こんな行動など、私は死ぬべきだ。この競争で壊れるのだから、早くしろ。生き物であることすら嫌気が差す。

 だから私は人殺しである。生存競争を是とし、私達は合法的にシステム的に構造的に人殺しを許容している。誰かによって人が死ぬのを許容せざるを得ない。倫理的、法律的、人道的に基づいて人殺しは許容されないものだが、私達は生き物として人殺しは許容しているのだ。自身の居場所を守るために、他の人間が死のうが構わない。特に男性は命の価値が低い。それらが社会、文化の隙間から分かってしまう、見えてしまうからこそ、男性の自殺は女性の倍ほどもある。30歳の男性と女性が自殺した時、大きな問題となるのは後者である。過労死で男性が幾ら死のうともあまり社会へのインパクトはなかったが、女性が亡くなれば話は別。

 こうした自然な態度は命の価値を人間自身がそのように考えているからだ。男性は戦って死ね。自らの暴力性で勝ち取り、奪い、居場所を作り、そうやって死んでいくしかない。多様な価値観がそれらを否定するが、私が生存してきた場所ではやはり性役割に縛られて来たように思う。だからこそ私は死にたいのだ。この人間という生き物から消え去りたいのだ。

 繰り返し叫んだところでそれらは疎外を得ただけだ。

 哀れな化物め、この場末のブログから出て来るんじゃないぞ。お前は底で唸り、呻き、搖動し、人間ではないのだから、この社会に出て来るべきではない。器官には人間達の死が司られた。世界観の重なりは疎外器官(独身器官)を生み出した。その中から化物が現れる。私はその化物に人間を貸し出して、私は人間ではないと嘯く。囁かれる声は幻聴ではない。自身の敵意、不安におののく感情がそれを引き起こしている。本格的に太陽に焼かれなければ私の生存はない。

 人間は死を選ぶ器官の存在を想像上だけで行ったが、それは実在する。

 自殺は制御可能である。環境の一つ一つに織り込まれた社会からの疎外、病気、障害認定は救いとならない。それが生み出すのはちょっとした手当と多くの労働から疎外されるという現実だ。優勢論は間違っているが、この社会の持つそれなりを満たせないのであれば貧困と死に導かれるより他ない。格差が広がり、犯罪が増え、アメリカで生じる犯罪の多くが黒人であるのは貧困が大きな要因だからだ。遅かれ早かれ衰退しない為にはそのような競争と貧困の只中を突き進む必要があるが、この仕組みはやはりどこかおかしい。世界の速度は二次関数的に発散を始め、そこに立てる人間は限られている。このシステム、構造は最適ではないが、その中で最適化が進んでいく。このシステムも人間の曖昧性から整合が取られて来たが、それが許されなくなる。適応の仕方を間違えれば、ただただ発散が生じ、私達の辛さは永久に消えることはない。

 全てが現実から離れる。人間は殺しを目の前から遠ざけた時から、距離を取り始めた。情報は口伝から離れ、顔も知らぬ人間の情報を得る。私がここにいようがいまいが地球上の誰とでも情報交換が出来る。
 目の前にある現実は現実感を失い自身の世界観だけがこの地に広がる。私たちを死に至らしめる数々の暴力、競争、、、そして愛。愛とは排除であり、世界観の極北である。個の世界観に閉じ籠れば閉じ籠るほど愛に満ちた世界が現れる。エコーチャンバーは愛の波動である。その繰り返しと発散は愛のプロセスである。何かを愛するということは排斥することである。

 私達は愛によって殺され、愛によって居場所を得る。この社会の愛により私は排斥されていく。それが持続可能なよりよい社会、SDGsなのだろう。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火