Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 日々再生産される自我がある。昨日の私と今日の私は違っている。様々なことを言われたとしても、それらは過去の灰色に組み込まれる。繰り込まれる。結局、能無しだろうと日々を楽しく過ごせればそれだけでいいのだから。私は社会から浮いている。例えば、朝起きたらそれだけで勝ち。そう言っていたのは加藤純一氏だったろうか。私にはない人間性を楽しむこと、様々な配信者達が色々なことを言うのを聞けば、それぞれの自我とそれぞれの人生観がWEBを介して近接していく。世界観はそうやって近接し、しかしそれは重ね合わされることはなく、しばしばそれを勘違いする者が重なり合っていると考える。外側から見る自我と世界観がコンビニエンスに得られるようになった。そのせいで辛くなる。そのせいで楽しくなる。それを受けて自我は日々再生産される。昨日の私も今日の私も誰かの世界観によって矯正(歪)され続ける。

 余裕がないからこうした文章しか書けない。私は幾つかの小説を書こうと試み、失敗している。そんな物語を作ったところで誰も見るものはいない。それなりに誰かに見られるために整形した散文のはずだったが、その価値は未だない。それは何も生まず、私の知性的な挑戦としてそこにあるのみだ。作っておきたいものがある。私は相変わらず死を望んでしまうが、それをやるまでは死ねないのだ。だから早く殺せ。

 私は社会的な繋がりを喪失している。仕事以外に他人に求められない。しかしそれも怪しい。もはや何をしても私は何も生まない。労働力としても使えない。

 能力も精神も弱い。ただただ酷い自己愛の裏返しだけで生きている。愛で生を支える。全て一人で始まり、一人で終える。だから暴力は自らの体に差し込まれ、他者から加えられる力により歪んだ器だ。その中に流し込まれるのは孤独と希死念慮ばかりである。思い込みの激しさはもはや他者を見ていないことに他ならず、私の社会性が機能しなくなりつつある。暴力も絶叫も涙も全てが自分の中でしか回らない。それが社会的に掬い上げられるとすれば、犯罪か迷惑防止条例違反なのだろう。しかし、これは愛である。酷く歪な、他人が理解しようとも思えない愛で生きている。太陽に焼かれ焦がされて意味のある人生はここにあるのだろうか。価値という霧の中で迷い、私達は頭を抱える。適当に歩み始める。

GO AHEAD WITH YOUR AWESOME SELF or STAGNATE WITH YOUR AWESOME SELF.

I DO NOT CHOOSE EITHER .

 自身の中に生じたソシオパスである。その言葉が示すのは社会的に弱い立場で自己が追い詰められている時に現れる感情的な反動でこの社会へ怒りをぶつけるいじけた精神だ。ソシオパスに分類される人間は短絡的で、感情的で衝動的に犯罪行動を起こしがちだ。青葉くんもそうだろうし、新幹線の青年も、秋葉原の青年も、池田小学校の事件も同じである。思い込みの激しさとソーシャルサポートが不足していたから、こういった事件を起こすのは多くが男性だ。基本的に男性というものが何かを勝ち取り、暴力による生存を抱いてきたから、ニューロダイバーシティという誤差があったとしてもそれは変わらない。どんな男性でも不意に暴力性を発露させる。少なくとも私の周囲はそうだった。そうでないように穏やかになりつつあるが、それでも変わらない。そしてそれは、暴力を振るう存在として他のコミュニティに存在する者は警戒心を持って迎えられるということ。その時にギョッとされたり、一人で水族館などに行けばそういった目を注がれる。(これは被害妄想の可能性もあり、私は目線移動による磁力の変化を感じる能力が低い。試しに適当な女性を凝視すると彼らはそれに気づく。男性はそれほど気づかない。警戒心と不安を感じやすいのはそういった特性もあるように思う。)だから、助けてと言えない。言ったとしても、それらは冷笑を持って受け止められる。または男性らしさに押しつぶされる。Don't think FEEL. そうはいっても人間の基本的な特性は変わらないから私達は飛び込むだけである。そこで固まってしまっても、恥をかいても、馬鹿にされても、私はやったのだ。弱くとも地下室から出て、こんな暗黒啓蒙的な文章を連ねる前に、様々なことをして飛び込んでいく。それが不足している。それが出来るか出来ないか、出来なければ病むか犯罪を犯すか、文章<エクリチュール>はそこから逃げる為に入り込む。手に取り感じること、私達に必要なものはそれくらいシンプルでいい。上を見ろ、アグレッシブにやれとこの社会の是は人間をそうしたつまらない部分に押し込めようとする。会社で生きていればそれだけが人生のように見えてくるが、それが人生の大部分を占めてしまうからそこから離れられずにいる。

 40代の男性と女性がカラオケ店に入ろうとしている。その光景を目の前に置かれた時、どうだろうか。私が受けている社会的バイアスでは漠然と男性の方が悪いイメージを持ってしまうように思う。どうしてこんなところに一人で? と怪訝な感じを抱かれる。または嫌悪を持って受け入れられる。うっすらと嫌われている。という言葉がしっくりと来る。早くいい相手を見つけないと、薄毛になる前に。そう言われる理由は、恐らく彼等もそうなることを知っているから。籍を入れていれば、ソーシャルサポートが少ない社会だから、家族や小さい繋がりが主だから、それらは死なずに済む一つの方策なのだ。生殖要望とは別に、そんな意味が含まれている。私達は繋がっているのではない。繋がりの先端で区切られてしまっている。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火