Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

310840

消え去る前の小話

 先の地震を思い出していた。放射性物質を体に溜めない様にするためにはヨウ素を摂取するとヨウ素と結びついて体外へ排出されるから。ポピドンヨードを飲んだ人がいた。今回もそうならないことを思うが、人間は自分で何かを判断しようとしていない。誰かの権威付けがなければ動けない、それが一番正しい、それに目が眩み愚かな銭稼ぎを行う。本当に必要とされている人に届かない。自分自身がかわいいから、それが一番だから、例えその行動が利に適っていなくとも、結局不安の中で巡る命。ムラで生きていれば強固に異物を排し、個人で生きればこの馬鹿騒ぎである。感想と事実は分離されない。ウソのようなホントウのはなし。達には自分で考えて判断するということが出来ないのはそういった教育ではないから、スコアと横ならびとそれらに基づく権威付け。誰かが言ったを飲み込めないのが私達だ。それを理解していても流れに呑まれていく。レビヤタンが哄笑する世界は加速主義的だ。様々なものが早く回り、人間の処理や反応が画一的になるか、独特になるか、その様相はさながら遠心分離器のようである。

 快感を覚える。人は人を殺し憎み愛しその中で潰れ腐り果てる。私は一人で仕事をしたいわけではないのに、出来るだけ誰かの迷惑にならない様に行動したつもりだったが、誤解されてしまう。そもそも誤解しかないまま私は生きている。人間達の中にあるのが誤解なのだから、私は太陽以外を信ずることはない。極端な思考の私は誰かに頼ろうとすればそれに甘えた自宅では早く殺せと喚く。これは肉体と社会性の反抗である。私は私の中で反抗を繰り返しそうやって死んでいくのだ。ルッキズムという言葉が噴出した所で外見が整った者のほうが話に説得力がある。ダブルバインドに落ち込み、余計辛い思いをする可能性だって考えられる。ただただ極端な規制は誰かの被害妄想に端を発しているように感じている。ノイジーマイノリティが叫ぶ社会は現在の社会に対する反発である。単純に反対方向に足を向けるだけでそれらが具体的だが稚拙な解決構想として表出する。緩やかに繋がれないから攻撃しそれらを隠そうとする。色々な人がいるのだから向き不向きがある。ショービジネスがステレオタイプな美を提供しそうでない者はそうでない者で別の形で表現する。押し付けが生じるのはそれがビジネスだから、それに向かっていった際に資本を回さなければならない。そうして消費してもらわなければならない。だからその押し付けに苦しむ。あなたらしく自分らしくそれらが押し付けられそういう風にしか<らしさ>を考えられなくなっている。容姿で判断されるのが辛い。しかしながら人間が評価される<容姿>というものは所作、表情、言動、それら全てを含めた非言語的な対話に含まれてくる。パッとした美しさ格好良さは多分に積み増しされているだろうが、自分でやれるだけのことをやる。そうやって協調していければいいのだが、どうしてかそうならない。容姿の不当な扱いを増していると感じるのはマッチングアプリなどの出会い系だ。実際に会って対話するところから始まっていたものが画像・文章・個人の属性で判断する形となり、より一層人間を見ず二次元的なコードとして人間を理解しようとするが為に容姿というものが宙に浮いて現実味を失わせる。私達は自身を過大評価する。玉石混淆のカタログを眺めそこに自分を比較して自分のレベルがどこかを考える。過大評価をするから自身の場所よりも上向きに据え口では低く見積もったフリをしてもそうではないと思い込む。マッチングアプリ弱者そう評した所でそれらが過大評価である。自身の中に有るそうしたものを振り返る良い切欠になったので下記にリンクを載せておく。ルッキズムだと言うのであればマッチングアプリに対しそれらを助長するような形を禁ずるべきである。ただし私はその思想に同意はしない。人間が視覚と嗅覚の情報から逃れることは出来ないのだから、ある程度はそういった動物の特性として持っているのだと皆が自覚して、過度にならない様に気を付ければよい。それだけ人間か賢いかと問われれば、素直に首を触れないのが辛い所だが。

普通の人でいいのに! - 冬野梅子 / 【読み切り】普通の人でいいのに! | コミックDAYS

 これは戒めになる。私達は自分のことを上手く把握できない。意識の先には頼りないセンサーが付いているばかりで、それ自身を表現することがない。この主人公が持っている自身の過大評価、周りとは違う価値を持っていると思い、好意を向けてくれる人に対して向き合おうとはせずにだらだらと関係を続ける。勝手に態度を決め付けてその人を見ない。だから私は自身の中に埋まったこれらの押し付けを破壊する為に、1人で蛆が沸くまで生存を続ける。普通とは幻想であり、百に満たない数の処女であり、太陽ですら有り得る。尤もそれが私達を適切に照らす保証は全くないが。自己と他者の価値観の違いや世界観のズレを相手の責任に押し付ける。SNSのキラキラは虚飾であり現実はそれよりも淡々と進む。セックスは対等だろう。しかしここでは対等ではなかった。どうしてだろうか、似た者同士と納得できない自分。その齟齬に苛立ちキレては相撲を取る。やはり行動そのものに目が向けられることは少なく自己の世界観だけが底に横たわる。それらは重ね合わせで、重ならない領域が重なったように見えるのは階層の違いか薄く広く繋がっていくから。マインドフルネスの最中に見た膜面の幻、様々なものが薄く重なり合っている。自己はここにない、自我はここにない、それらはただ存在する。私は分厚い自身の膜の中で激しく振動する。それは外には出てこないのだ。

 経済活動を回さなければ崩れてなくなってしまうから、私達は消費の奴隷であり、またそのハムスター運動器具の内部で走り続けなければならない。回らなければ経済は止まり、会社は倒産し、私達は食うものに困る。回るからこそ弱者も餓死せずに生き延びることが出来る。ここから離れるのはとても難しいが、上手く距離が取れるような形が選択できるように考える必要がある。様々な問題提起そのものは社会の役に立っているが、残念ながらそれを解決する具体策は性急で広い視野で考えられているとは言い難い。目の前を漕ぐ時にその先に有るものが想像できているかを考える。SNSが分かりやすさを追求した為にそれらの活動も広い視野がなく、反対の意見を参考にすることもなく、爪の間に針を通すような付け焼刃でしかない。

 問題提起は出来ていてもそれらを長い目で見てどうすればよいか、継続可能な社会としての観点があるかどうか。現在広がっている話はSDGsの観点からやや離れているように感じる。グレーが容認されない。何かに所属すること、何かの思想を借りて代弁すること、ただただその場限りの義憤は何の解決も生まない。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火