Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 私はブログを毎日更新したが、その結果得られたのはそれらが何も産まないということだ。仕事、会社から出された課題が休暇中に消化出来ず吐き気を伴う。もしくはただの現実逃避。逃避する先はどんどん消えていく。生きなければならない。首になる。私は社会不適合者だ、人間の営みの中で外れた個体なのだから、早く社会から去れ。憂鬱症の私は完璧主義者で、私は完璧ではないからその相違に苦しむ。欲を持つ人間の愚かさ、私がそもそも愚かなのだ。自己の頭で得られたものは限りなくゼロに等しい。整地されてそれで、終わりが完成する。仕事の意味と生きる意義と異議を唱える論客は内臓を掻き乱す。自己の中で世界観は摩擦し続ける。錬磨された世界はどこへも誰とも近接せず囲われている。宇宙の目が宇宙をやり直す。あの演奏の中から、自我は再訪である。意味のわからぬ文章を垂れ流すより他はない。それになんの価値もない。そもそもそれらは相対的だ。自身で価値を決めて誇る。しかしそれを評するのは他人だけである。そうして錯誤した結果、私達は自我の資本化、この資本経済に全てを差し出す。それを悪いとは言わないが、過剰になりつつある。そこから私を救い上げてくれ、そうして待ち受ける貧困。品行方正な形に入っていたらいつの間にかそうなってしまった。助けてくれ。しかし他人に不寛容でそれが自由として横たわるこの社会でそう言ったところで自身のカードで勝負する以外にない。それが分かりきっているから憂鬱なのだ。

 自殺は個人の問題ではない。それらは尊厳死があればなんとかなるものではない。その社会の病んだ構造を破壊しなければならない。自殺は社会によって病まざるを得なかった個人があり、それらは病人だ。病人に死を選べとその選択を用意する社会は間違いなく病んでいる。だから皆糞を愛する。糞まみれを喜んでいる。

 その結果私は傀儡であった。社会の形によって引っ張られて死ぬ。夢喰らい……私には何もない。近くに現れたのはただ生きているだけの自我。目につく個人を破壊せよ、見えないのだから一度だけ見える瞬間を作らなければならない。その瞬間に私は生きられる。一過性の銃弾を眼球にねじ込む。錐状体が吹き飛び私はその瞬間自我にヒビを入れる。外側に現れない致死性のヒビは認識出来ずにいる。私は単純な生命の判断機構の物体に変化するのである。複雑な脳神経系から離れろ、人類が哀れむ神経のこぶこそが私である。
 傀儡でない人間はどれだけいるだろうか。BLMも性差別もマイノリティも極左も全て傀儡である。イデオロギーの奴隷が暴力を振りかざす。人間は弱いから私達は自ら望んで傀儡となる。お前はお前の実存を亡き者に落とした。背負い込んだ考えはただ太陽礼賛のみである。そこで焼け焦げることだけが私をこの傀儡から破壊せしめる。糞だろうがそうなってしまえば関係ない。
 それらは目の前にない。私は愚かな自室で頭を抱えている。またはそれを知らずに呆けている。孤独は常に淘汰に怯えなければならない。先がないのだから、その身に破滅を宿し始める。宗教的な観念が私の頭を壊し、意識を持つ。掃除夫が作り上げた王国はその中でのみ機能し、それは周囲に出てもその王国として成り立っているとは言えない。そして、私もそのような王国の徒として、同様に王国を再建する。その為に太陽があり、構造破壊を目指し、この社会の短絡者としてここに言葉を残している。自身の言葉で語れよと歌手が言っていたが、自身だけに分かる言葉など、本当はいらないのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火