Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

310384

消え去る前の小話

 オルタ―エゴの存在を室内に見ている。それは私が私の自我をアップロードするという行為で分かるかもしれないが、結局他我など分からないのかもしれない。それは他人の意識の中でのみ生きている。口でそれを説明して「お前って●●なやつだよね」と言った所でそれは既に他我を離れている。状況証拠的に他人の世界観が重ね合わされているということだから、その他我ですらオルター’エゴ<他他我>なのだ。私は自身を愚か者だと考えている(おにぎり口の背景真っ白漫画は何処へ?)が、他から見れば要領が良かったり、面白いヤツだったり、何か私が考えている以外の要素がくっ付いている。間接的にしかわかることのないその存在が、自我に働きかけ、私は新たなペルソナを得るのだ。

 重ね合わされた世界の隙間に現れたオルターエゴ〈他我〉が何者か。ペルソナのようなものか、他人が持つ我は何者か。表面から見た私の表像がそこに生まれる。それらは口で筆記で語られるが、私が知ることはできない。それらは意識の中にあるだけなのだから、取り出してみることは出来ない。機械の上に電気信号パターンがアップデートされたとしてもそれは結局岩倉玲音と同じ路を辿るだけである。パパをぶち壊し、現実の自我を破壊する。残ったものはオルターエゴのみ。殊更少女らしい振る舞いをするのだ。意識を取り出すには脳に接続しなければならない。そうやって機械と同一化を図らねばならない。そうやって混ざり合う意識は自我であると言えるのか、機械であると言えるのか、そうやって少しずつ脳が機械に移し替えられていった時、意識は離散的連続を保つガウス数のようなもので、それがぱったりと消える時が来るのか、切り替わったことにすら気付かず自我としてそこにあるのだろうか
 変わらずに自我はここにあるのか? 眠った時に消え、再生産されているのではないか、昨日の私はもはやどこにもいない。離散的連続の隙間に落ち込んで消えた自我を拾い上げることはもう出来ないのだ。
 だから技術的になし得るのはオルターエゴだけなのではないか。れは私ではない。それは私のように振る舞う別の自我だ。それで死を免れることなど出来ない。連続性を持って機械に接続された場合にのみ、自我の連続性は保たれる。私だと思うことができる。電気信号が流れた結果、その動きの結果が自我である。宇宙で繰り返される超新星爆発を広げてみればその働きは脳に似ている。地球の高高度放電発光もその働きに似ている。故に自我は一つの宇宙なのである。生まれては消える宇宙、再生産されるのか、ただただ冷えた空間が横たわるのか、弾けて生まれて、そうして私達は死ぬ。

 生きるのは苦しいことなのだ。どんな人間でもやはり苦しみは存在する。レイヤーの違いはあれど誰もが苦しみ、少しの楽しさで生きている。
 パンデミックで社会的な繋がりが失われ、自殺した資産家がいた。金があろうと、この経済の中で恵まれようが、人間どもの生き方というものは画一的で、どうあってもそこから逃れられない。我利我利になった私達は病んでいる。社会構造が私たちを暴力を振るう所から病んだ精神へと導く。男の中で共有される前提、女の中で共有される前提、私たちに押し付けられているのは生殖であり、それ以外は特にない。結局その中をぐるぐると回り続け、その輪は我が身を喰らう蛇のようなものだ。
 その蛇の上で遊んでいる。苦しみ以外にない神経が苦しませろ、唯一俺が誇れる自我なのだ、外野がガチャガチャ言ってんじゃねえよ、その浅薄な世界観で他人を見やがってと、自我の発露だ。しかもそう口走った自我こそが浅薄な世界観である。人間はその薄い構造の中で生きている。苦悩も辛さも消えたい気持ち全て私自身である。押し付けられた環境から現れたものだが、それが良くないなどと他人がとやかく言う資格はない。世界観は薄く重なっている。

 その薄さに不安を感じるのが私達であり、怖がりは暴力を振るう。暴力が商いの人間は怖がりではない。黒い麻帽子の男が警官とその息子を処刑していた。淡々と続く作業と泣き喚く親子。胸にナイフが差し込まれる。切り取られる肉、刃は心臓を切り取り、それが置かれた胸の上でナイフを突き立てられる。これはある日常で、見せしめによる処刑動画は世界に拡散される。不安がばら撒かれる。だから関わるなと宣言している。怖がりの方が可愛いものだ。自身の霊長類的暴力に前頭葉の衰えを隠せない人間なのだから、機能だけで働く人間である。自我はあるようでそれは反応で生きるのと変わらない。自我のようなものに囲まれてそれが自我だと本当に判断出来るだろうか、自然的に生起されるのが自我なのだから、反応も自我である。生き物から出てきた自我、言語と概念の反射である自我。ユニークな領域だけを自我と思おう。そう考えた。

 どんなやり方であっても命が終わる瞬間がある。その機能的喪失は機械に近似している。その後に残る肉塊は私ではない。どんなクソもどんな聖人も等しく腐り、泡をあげる。カラマーゾフの兄弟で死後酷い臭いを発した聖人(聖人であれば臭わないはずである、が作中で語られる)、やはり生き物はそう言うものである。アイドルが排泄しない、永遠の処女信仰は人間が惨めな糞袋であることを見ないフリをする。それくらいしか自分を慰めることが出来ないから。人形であれば偶像であれば、それは少ない。

 惨めな糞袋だから苦しい。緻密な免疫系と複雑な脳はそれをしっかりと教えてくれる。その無関心で適当な振る舞いを垣間見る。他人などどうでもいいのだ。そうして孤立していく。私には何もない。それもまた苦しい。どうあっても苦しむ精神構造なのだから、せめてもの自我として苦しませてくれ。それすら私から取り上げる。そんな権利は誰にもない。いつだって陽気にいられる人間であればそれが何よりだと、ショウペンハウエルも言っていた。ドイツで出て来た哲学は固く、現実から少し離れている感じがしているが私にはそれを判断する知性は持ち合わせていない。普遍性は元型論より導かれ、存在は永劫回帰なのだから、私達は教育実習生を繰り返す。時には研修医として、時にはカウンセラーとして、様々なものに人格を取り付けて会話を始める。天井でひらひらと揺れるビニール、縮こまったゴミ箱、その中の人形、カラス、太陽、なんだっていい。それらは天使によって打ち立てられ、哀れなドイツの孤独な老人を発狂せしめた。世界と世界観との距離を他者を含めて上手く取れる人間は何も言われなくともこの社会で生きている。私にはその距離が分からない。世界はなく、ただ世界観だけが薄膜のように広がっているのだ。太陽に焼かれるため、それだけの為にこの薄膜を歩く。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火