Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

弱者のための世界6

 弱者ゆえに弱者のために何か出来ないだろうか。
 少ないものから差出せるということの尊さ。慈悲の実践は非人間的なところがあるので、凡夫には小さな慈悲だけが行える。
 余裕が無い時こそ、手を差し伸べる。そうした実践を小さなところから始めるくらいしかないのかもしれない。

 ロシアに対して、我々は静観するだけできっとウクライナは大きく変わってしまう。NATOに所属しているとか、結局全ての人に対して目指すことは人類には荷が重すぎるように感じている。

 犠牲になるのは、いつだって民衆であって、子供であって、死を運ぶのはそれを選択した者達。私達はそこに流されて生きるだけの小さな個人だ。
 利他的になれない私達は、この先もずっと同じような争いを続けて、それはこの人類、この種が絶滅するまで続くのかもしれない。

 はたまた、大災害によって儚く脆い我々が蹂躙され、小さく生きる以外に選べなくなる。そうなってようやく、功利主義は実現されるのか、ただのムラ社会として収まるのか、ともあれずっと同じような形で巡り続けることはある程度予想がつく。

 だからいつだって、私達のように弱い者は脇に追いやられ、捨て置かれる。また、その捨て置かれた中でも同じような構造が繰り返される。

 ともすれば永劫回帰の地獄を見ているようだ。人類に超人など生まれやしない。ただ、悪人正機がここに横たわるだけのように感じる。ヒトは生まれながらに悪であって、往生を目指すのだ。とは大乗仏教。哲学や教えではいまいちしっくりは来ないから、シンプルにしたい。
 ただ、どんな時でも周囲の人を善くする為に何かをする。共感し、援助し、また助ける。この行動の相互作用だけだと思う。大事なのは「何かをする」であって、そこには期待も、狙いも無いように、ただそれを行うということ。

 人間は意地汚いもので、誰かに何かをしてあげようとすれば、「あげる」という言葉から見て取ることの出来るように、それは利己的な性質を持つ。真に利他的な行為であれば、そんなことすら生じずただ人に為す。それだけがあるはずだろうから。(その人を支え、助ける行為そのものがあれば、そこに自分なりの意味や価値を見出しても、問題はないと考える。)

 この先、南海トラフ地震や火山の噴火などで日本が混乱期を迎える可能性が大いに示唆されているが、その時にまた、嫌でも目にすることになるだろう。
 自分だけを守ろうとする者、弱き者から奪おうとする者、数と暴力に訴える者、一時の生存に目が眩み、余裕が無いからと協力を忘れ、我々も奪い、殺し、侵す。他の霊長類の仲間がやることとそう変わらないことを行う。

 その後に残った綺麗ごとに何の意味があるだろうか。
 実現できないSDGsを掲げて、ただ口先だけの非難を重ねて我関せずと自身を守るばかり。その下地にあるのは暴力と戦争。不平等から生まれる巨大な暴力のうねり。

 たった百年も生きられぬ身で、そうした所を何世代も堂々巡りする。
 そう感じるのは私の目が濁っているから、暗愚な頭だからだろうか? ただ表面的な出来事をさらっているだけの無明であると?(であれば私は猶更弱者である。この場はその為に作ったのだから。)
 様々に勝ち取った規則やこの社会のカタチも、根源的な問題を解消するには至っていない。ある程度後ろに追いやることは出来ても、すぐに姿を現しては暴力が生じる。

 その中で私は透明であり、知らず知らずに脇へ追いやられ消えていく程度の弱者である。社会的に目立つものではなく、問題にも取り上げるまでもない、そんな弱者だ。(好んで頭でっかちなのではない。そうしなければ、この世界、人間社会を咀嚼できないだけなのだ。)

 マイノリティでないのだから、ぐちゃぐちゃ言うな。

 とか、

 頑張ればなんとかなる立場のくせに、弱者ぶるな。

 とか、

 きっと私にはそんな声が投げかけられる。

 そういった声こそが、取るに足らない些末な人間を追いやり、消していく。目立つ弱者、声高な弱者、マイノリティが救われるのが急務だから。それらは可及的速やかに平等にしなければならない。バリアフリーの社会にすれば、些末な弱者も生きられるようになるから。

 自助努力。同じコミュニティの中にいる下層の人間はそうやって誰かのストレス発散の為に存在していた。

 私はただ運がいいだけの弱者である。私のような社会性皆無の無能でも生きられるのだから、まだこの社会は何とか出来る余地があるはずだ(沈没の瞬間なのかもしれないが)。だからこそ、小さく。周囲の人達の為に何か出来ることをする。

 人はいずれ死ぬ。強者だろうと、弱者だろうと。

 それ故に、この身の欲を満足させる行為の虚しさがある。

 だから、利他的な行為そのものがこの生に役目を与える。

 そんなことを思う。

 ただし、これだけであれば、既存の教えの焼き増しと振り返りでしかない。

 普遍的な人を善くする実践的行動。
 これを資本主義、競争社会、得る者が全てを得る社会でどのように実現できるか、これを見出さなければ、凡夫たる私達がこの先を生き抜くには厳しい。
 精神世界としての慈悲であれば、それを仏教は示してくれる。実際に行動に起こすとなると、本当に数が少ない。
 誰でも出来るような行いでないことが見えてくる。

 なれば、誰でも出来るような行いで、それが社会的にも価値ある形で出来る形に還元する必要があると私は思う。これまでの歴史で様々な出来事があって、それを曲がりなりにも行っているのが税金だろうが、そこには人と人との社会的な交流が失われている。この社会は孤独が叫ばれて久しいが、効果的にそれが解消される形にはなっていない。
 小さな快楽で孤独を誤魔化している。SNSや動画など、手軽に楽しむものだけが支えとなって、その空虚さで生きていく。結局のところ、酩酊物を使用していた昔から、形態が変わっただけでやっていることは変わらないのである。

33歳、弱者男性はさまよう

 最後は誰でも一人で死ぬ。

 どんな人間でも、どんな生物でも、この星ですら、やはり死んでしまうのだ。

 最近もよく死について考えることが多いです。増える感染者、そしてそこで零れ落ちていく命。徐々に収まりは見せ始めているか、山頂はまだ先か、それは不明だ。
 どうして死にたいというのか、防衛しているから。それによって、この辛い現実というものは私ではなく、死を冀うことによってそこから逃げようとしているから。

 自己にたよれ、法にたよれ。

 我々は頼る自己もなく、法も知らず、この情報化と細切りにされた快楽の灯火だけで生きている。人であることが広く繋がるように見えたが、実際は小さな輪とその外側の排斥が増えただけだった。
 SNSを上手く使える社会性も無いまま、一人さまよう。様々な人々との対話、交流は出来ない者にとっては更なる苦痛を産むだけだった。残念ながら、どんな活動でもそうした他者との交流、社会性を増す為のソーシャルスキルレーニングが私には不足しているように感じる。しかし、具体的に何が必要なのだろうか、アサーティブに自分の要望を伝えること? 拒否出来るようになること?
 長く人と付き合おうとすればするほど、私は人に嫌われる。対策は分からない。

 それは数多くの能に長けたように見える者たちによって、無力感を学習し続けているから、私達は弱い。けれども、どんな人間であっても死は逃れようがない。どれだけ資本を集めたところで、それが自身の子や家族へ繋がれたところで、結局持ち得るのはただ一つの死以外に存在しない。

 そうした欲、苦しみの無意味さは生きている内にずっと付いて回る。

 貧しいものの援助こそ、なにものにも代えがたい。権威も無く、ただ善いことについてだけを取り上げる。それは徐々に失われていく。バズるという言葉がそうさせるように、何かいいことを言ったような、沢山の人がくっついた権威付けばかりがはびこる。
 ミルグラムの実験では、権威者が命令すれば死に至るほどの電流すらも人に掛けることを厭わなくなる。権威とはそのように、私達を倫理的に逸脱した異様な行動へと走らせる。浮動する我々には道が見えない。流されて、流されて、その果てに海底の砂礫のように丸くなることはあるか。
 インフルエンサーがファンたちに攻撃させようとする行為(ファンネルと呼んだりするらしいが、私はそれが何かを知らない。)こうしたものも、結局人が正しいものを考えられず疎外されることに近いだろう。油断すれば、人は欲の渦に呑まれる。(私の過去の記事もそのようなものだ。この社会に適応できないが故の反発、弱く愚かな者の孤独は人を腐らせ、惨めに消えていく。)誰かを攻撃するのはよくないことだ。正しいからと、正しくない者に攻撃をして、謝罪させよう。

 これにも大いなる欲が関わっていて、それ故に正しさは曇る。
 私達にとって「善い」ことを為す。それだけを考えて、生きられれば良いが、この世界の欲とその苦しみにまみれた生活を続ければ続けるほど、それが出来なくなる。
 人間の特性を活用し、生産し消費し、消尽されていく我々は、この形態から距離を取らなければならないが、そうすると生きられないように感じる。この小さな欲、苦しみ、快楽、消費、そうしたものを無くしたくないと、愛おしいと思う。
 どこかで、大きな決断が必要だ。いつまでも得られぬもの、この欲と苦しみを繰り返し続ければ取り返しがつかなくなる。苦しまずに生きるとすれば、何か頼れるものが必要になる。私はそれを探している。今は仏教を調べて、その法と教え、その源流から今に至るまで、考え方が色々あるので今この社会で生きる我々に相応しい考えを過去の教えから再構築しなければ生きられないと思う。

 Youtubeだろうが、Twitterだろうが、Instagramだろうが、プラットフォーマーが作り出すのはそうした欲と苦しみ、資本は増えるだろう、人気は増えるだろう、人の数こそが資本主義なのだから、その権化のようなもの。
 それらを目の当たりにして、私達の脳は傷つく。それほどこの臓器は賢くないから、どんなものも素直に受け取るから。

 では、弱者男性(女性)はこの資本の上澄みばかりが悪目立ちする社会でどのように生きればいいのだろうか。

 出会う為の手段として、マッチングアプリ、結婚相談所などはあるが、これらは資本のあるなしが重要視され、それが無い者は見向きもされないカタログの肥しでしかない。結婚相談所では旧来の男女の価値観が色濃く残り、多様性などといった時代にはそぐわない。そこで働く人も、私達のような年齢の人達も、その価値観で育ってしまった為に、そのあるべき姿の亡霊に惑うから、やはりこちらも辛い。(年収の基準ラインが500万円とか、女性は大学とか就職先非公開でもいいとか、男性に比べ情報を出す量が少なくていいというのは、女性であるということだけで価値があるようにも感じられる。)

 一人で生きるのが辛いから、二人で頑張っていきたい。
 そう考えているのは、妄想なのでしょうか。
 一人でも生きられる自信がついたから、結婚しようと思った。という言葉をどこかで見ました。とても良い考えです。
 そして、それを見て「ああ、私は淘汰され死にゆくものに過ぎない」と感じるのです。どれだけ私は愚かなのであろうか、こんな生、などと思って。と云ふ心持ちで、何でもない言葉にも傷つくものですから、やはり、さまようのです。

 労働者で、まだ体が動くから、ただ生きることは出来ている。
 ただそこに集う欲が、苦しみが、私を生き辛くさせている。
 他の人よりも私は弱いから、多くの人に相手にされていないから、などといった、自分を守る為に作り上げた歪な自己愛に苦しむ。子供時代に作り上げた脚本が今でも繰り広げられて、そこからの解放に至らない。交流分析をすれば、良くなりますか?

 弱者でない者は、人間らしい営みをして、その現実の大変さ、忙しなさで一生懸命生きているように見える。それが、隣の青い芝でも、私達もそうではない辛さを抱えながら一生懸命生きている。こうやって足掻いて、それでも人生を落とさぬように、時に消えたく、時に破滅衝動にも苛まれながら、日々をやっている。

 誰も覚えちゃいないんですけどね。 
 どこかで野垂死んで、腐って蠅がたかるまでは。

社会不適合者には弱者の為の世界など描けない。

 なんだか定期的にやって来る「消えてしまいたい」という気持ち。
 まあ、手を挙げても誰にも助けてもらえないので、自分でやるしかないんですよね。
 自殺も自己責任で、どうぞ。私は、まあ、いずれ。

 

 社会不適合者とはなんでしょうか。
 主に私に人生に穿たれてしまった不愉快な世界観について述べる。

 私は勿論社会不適合者には分類されない。一応労働をし、自らの生活の向上、生涯発達に色々と努力をしてしまっているから。
 しかしながら、一点だけ、この社会から希求されるものを成してはいない。

 結婚。婚姻。

 私が死ぬときには生涯未婚率は恐らく半数に上る。
 私はそれに加担するし、それは私が魅力のない人間だからに他ならない。

 人間との対話に難を、自信のなさからくる孤立を、それらを抱えては結婚は出来ない。これまでに結婚相談所にいくら使っただろうか。恐らく五十万はくだらない。そして得られたものは、二、三度話をしては得られる消極的なお断りと数多くの拒否。
 全くこれらは私のような人間には堪えるものだ。誰かが言うだろう「普通」に生きていればそんなことはないと。

 「普通」などないが、そうした文化の中で生きてしまった、それを植えつけられてしまった。または性欲がそれを求めたか。

 私にとってはあまりにも大きなもので、性欲は私に自殺を呼び起こすから嫌いだ。こんなものは一割も無ければよかったのだ。

 なんにせよ、仕事で疲弊し、更に個人的な邂逅で気を遣おうものならもう、へとへとだ。対峙する相手はそれなりに異性とのコミュニケーションをしてきた者たちで、それらが全くない私とやり取りすれば、それは理解の及ばないもので、繰り返してみてもあまり改善が見られない。

 そうしたことを続けるうちに、疲弊してくる。彼らは私に興味がないのだ。
 しかし、相手に落ち度があるわけではない。生殖に適した相手を選ぶ、という行為はそもそもこうした形で果たされるものではないから、結局どこかで上手くいかなくなる。
 私達の社会性が、この協力体制が、競争ばかりではやがては疲弊することを知っているから、結婚という制度があるが、新自由主義は馬鹿馬鹿しく、競争の中でただただ自由という淘汰を掲げて笑っている。

 だから、この社会もそろそろもう上手くいかない。
 ナショナリズムが台頭し、我利我利の個が生み出すこの数字の悪夢。
 それを見て「どうしてこんなになってしまったのか」などとは言えない。私達が見て見ぬふりをして、きれいごとばかりで現実を無視してきたから起きてしまうことなのだから。
 私達は豊かにはなったのかもしれないが、そうした窮屈な社会の中で喚く。

 話を戻そう。

 私は日頃から人間達とどのように対話すればいいかも分からず、またそれは異性に対してより一層強まる。
 彼らと上手く続いているなと思えば理由も分からず応答は消えて行く。
 次の約束をしたと思えば、丁重に断られ。次は○○行きましょうと返事が来て、いつ行こうか打診すれば返事は消え。
 私という存在も消えていく。個人個人のマッチングなのだから、絶対的に機会を増やす以外にこれを解消する手段がないのは知っているが、こうした反応の一つ一つに知らず知らずの内に傷つく。それがストレスとなって、私を傷つける。

 就職活動と同じだが、仕事とは違い親密を得ようとする関わりは、私にはとても難しいらしく、ただただ無駄に資金だけが糞のように垂れ流される。
 これが夢にまで見た資本主義だ。その終わりに瀕して、お前は何を望む?
 富めるものが更に富み、それは何も「金」だけではない。容姿も、人格も、技術も、知識も、何もかもが資本を持つ者どもだけで回る。努力では遠く及ばない恵まれた連中ばかりが上澄みに溜まっていく。
 我々のような唾棄されるべき、絶望的な連中はなにがあろうとその上澄み共が生きる世界観を理解することはない。彼らの努力は生まれる前から積まれていた。

 私に積まれていたものは何であろうか。
 時折現れる無際限の暴力的思考だろうか。
 目の前の人間が最も苦しむ方法はなにがあろうか。不意に振るいたくなる暴力。
 それ故に安楽死を望んでいる。この日本ではまだだろう、明確に「死ね」はないが、言外の「死ね」は無数に存在する。

 異性と仲良くなる方法も恐らくあるのだろう。私は多くの人間とはズレている。その世界観を共有できないから、理解していないような言葉で理解されないと悲しむ。しかしそれは人間から離れているから。

 ここまでそうした関係を作る為のやり取りをしてこなかった。出来なかった。そういったことを考えると、自身が社会不適合者のように感じてくる。今は多様性の時代だ、なんて言うけれど、子供のころから植え付けられていく観念は根強く、それが無ければどうしても「半人前だ」という感覚をずっと抱いている。
 多様性とは、綺麗ごとで全てをまやかすものである。不都合を多様性と言って無視して、都合のいい多様性だけを選んでいく。SDGsというものだ。
 「そんなつもりはなかった。傷つけたのなら謝る」
 こうした卑劣な言動と似ている。多様性を口にした時、自身の中にある無意識の差別について認識したか、緩やかに基準と合わない人間とは距離を置き、壁を作り、それらが積み重なればその基準が「普通」と呼ばれ、多数の中に合わない者は抹殺される。

 だから、私は社会不適合者である。
 京王線で「幸せそうな女を殺したかった」と事件を起こした人間がいた。
 自身をナンパ師と嘯き、その根底には異性に対する軽蔑と憎しみ。間違った合理化によって、自身を同じような形に置くことによる防衛機制が働く。

 イドより、自我へ。社会的に間違った形でリビドーが生じるのは何故だろうか。
 それこそが、私達の分断であり、世界観の断絶であり、間違った形の接続に他ならない。現実に沿う形で適応して出て来る欲動が、その現実を破壊されてしまえばそれはまた間違った適応によって生じる。認知は歪み、この世界は私を監視する者だらけで、私の思考は全て読み取られ多くの他人から軽蔑の眼差しを受ける。私をどこかで陥れようとしている。浴槽から、リビングから、玄関から、どこからともなく「お前は死ねばいい」「消えろ」「クズが」といった声が聞こえる。病感としての幻聴。私は別に正常だろう。
 情報化社会により、私達は分断された。
 資本主義により、私達は分断された。

 生まれ持った資本により、大きな差がみられる。何もかもを持つ人間と、何もかもを持てない人間に分かれ、やはり暴力がそれを解決させようと生じる。

 もううんざりしているが、自死した所でこの地獄は変わらぬ。
 なれば別にすぐに死ぬ理由もない。私達は地獄に落とされて、その生死で喚いているだけなのだから、この世界で生じることの全てはまやかしである。
 真理も、宇宙も、人間どもの欲望も、結局はエネルギーの終着、静止以外にないのだから。

 労働者として仕事がそれなりに出来ていたとしても、結局ここに戻ってきてしまう。満たされぬのだから、この先確実に狂ってしまうのだから、誰かに加害してしまうのだから、それならそんな不合理な存在は今すぐ消してしまえ。
 そうした合理化で満たされないという文字を埋めている。私は人間ではないのだという合理化を続けている。

 この社会人生活を振り返れば、おそらく私はそれほど労働力として劣る人材ではないのだろう。経費として消費されるだけの価値はあるということだ。(ただし日本的企業の中だけの話である。)
 けれども、自身の性欲に振り回され、異性との対話はどこか人からずれて上手くいった試しがない。学生時代に、そんなことで思い悩んでいたが、少ない同性の友人以外私には存在していない。「何を考えているか分からない」そういった言葉で私は切り取られ、誰かとの対話は上手く出来ず、斯様な表現ばかりをずっと続けている。
 表現することを止めないのは、そこらで迎合されたマジョリティたちとの共通言語があまりなかったから。どうにかして、自分を表現しなければ生きていけないから。
 この社会の中では、その表現の中にも埋もれて消えている。

 社会のどこでも所属しているフリだけを続けた。
 いつ淘汰して頂けるのでしょう。

 だから、異性を憎む者たちを見ると、それらがどうしてそのような気持ちを抱くに至ったかが何となく想像できる。そうするべきではないけれど、攻撃することで、それらは取るに足らないものだよ、そんなに強く思わなくていいんだよって、心が防御反応を起こしているだけだ。代償行為が表現なのか、自己にある暴力衝動なのか、たったそれだけの違いであり、私も少しずれればそうした悪意ある加害者と変わらない。
「幸せそうだから、それを奪ってやりたい」

「何故、お前たちは普通のレールに普通に乗っている(ように見えるのか)」

 私達は感情の奴隷である。この一連もその奴隷の足跡に過ぎない。

 この感情に流され、短絡的で、取り返しのつかないあやまちを繰り返す。

 サラダ油もそう。「女性」というものを短絡的に一般化して、それら全体が自身をこの社会からつまはじきにしている。そんな風に思い、それを強化していく。
 「幸せそうな女を殺してやりたかった」
 どうしてそう思うのか。恐らく皆が、その考えを軽蔑するのだろう。
 同じ人間として見ていない。「女」というものが人でなく、「女」という別の形で処理されているから「女」がこの世界に求められて生きて、沢山の人間との交流を得られることが多いことにやっかむ。
 それらは性欲によって。
 それらはその社会性によって。

 ひとえに孤独が私達を蝕む。誰かに受け入れて貰えないから、自身のパーソナリティは軋轢や面倒を産むから遠ざけられる。又は、何を考えているか分からないから。

 だから、木嶋佳苗のような者が現れ、私はそれによって殺される運命なのだと信じてしまう。私はこの社会に居るべきではない「死者」なのだから、私はこの場、この社会に提供されている全てのサービス、全ての関わり、全ての所属、それらに全く所属していい存在ではないのだ。とまで考える。

 だからこそ、私は太陽に焼き焦がされることを望み。

 それらが成される時は未だに来ていない。

 また「女性」というものに対して、最新の世情はどこか発狂と錯乱が募っている。平等な権利、平等、平等。

 性的搾取。性的対象。女性の権利の侵害。性犯罪の誘発の危険性。

 果たして、女性らしさ。というものをどう受け入れればいいのだろうか。

 私達人間は動物である。
 私はただ何もなかっただけで、様々な暴力性がそこから生じることを良く知っている。

 受け入れて貰えないのでいいですから、死ねないのであれば、酩酊物の中でゾンビのようになって死んでいきたい。
 残念なことだが、この国でヘロインなど使うことは出来ない。唯一許されたアルコール、ニコチンなどは私の役に立たなかった。
 だから、人間未満として、ただ労働し納税を続ける機械として、使いつぶされるまで生きるだけである。

 性犯罪の助長。という言葉は何も根拠がない。
 この世の中に沢山存在するコンテンツ。それらは全て空想上の物事であり、それを受ける者への影響があるからとそれも空想をぶつける。
 私は以前、この日本ではフェミニズムはもう終わったと書いた。
 後はちょっとした難癖。女性にも権利を、というのは男性の協力が不可欠で、それらはせざるを得ない状況に置かれている。

 レースクイーンなど「ある程度性的な」ものをアピールする行為がどうしてか悪のように、美しさというものが悪のように見るようなことが増えていく。
 それは多様性を侵害する。優性論的価値観を皆に与える。人間が尤もらしい言葉を連ねることは容易だ。

 それ自身が、多様性を破壊していく。

 私達は多様性を破壊していく。

 SDGsと綺麗ごとを喚き、多様性を、全てを生き辛さの満ち満ちた世の中に変えた後に、やっぱり窮屈だし寛容へ。そうやって同じことを繰り返すのではないだろうか。
 人間はいかに文化を発展させたところで、今世の中にあふれる馬鹿馬鹿しい「新しい」価値観。それらは恐らく、私達が歴史も過去も知った気になって、本質を理解することが無いから、過去、幾らか前に有ったようなことを何度も繰り返す。

 螺旋だろうか。

 私達は真に平等など成し得ない。
 この哀れな霊長類どもは、自身の利を引っ張ること以外頭にないのですから。

 と。

 ただ癲狂を始めた哀れな生き物が文字を重ねた。
 お願いですからね、楽に、早く、逝かせて頂ければと切に願っております。
 明日を生きたい、絶対に生き抜くんだ、と願われる方には本当に申し訳ないのですが、それでもやはり、人間的に満たされていないので、もうやめてしまいたくなるのも、分かっていただければ幸いです。

Cut out

 私たちに逃げ場はなくなった。

 全ての活動が馬鹿馬鹿しいポジショントークと我利我利の攻撃性に終始していくのだ。ただただ感情的に、センセーショナルに、クソまみれの二者択一が世界に浸透していく。

 全て切り取れば、糞便性の追求者としてこの社会が変化する。

 これらは人間の限界なのだろう。最早、聞く耳を持たない。

 SNSもメディアも、それらで騒がれていることが全てまやかしで、妄言で、糞便性の体現として「糞を愛する人間」の図式に終始する。

 過去、現在、未来。それら全てに事実は存在したことはなかった。

 このブログで語られる言葉この文字の羅列は全てフィクションであり、誰かを攻撃する意図はなく、ただ私達の経済活動の無意味さをここで生きる中で切り貼りしているだけだ。

 全てのものはあなた自身の「世界観」であり、接続される存在としてこの場(社会)を表現している。全ての人類はこの世界そのものに生きてはいないのだから。

*****

 ただ一人の自涜から終生、ただ一人の散歩から追憶、夢に縛られて仕事を辞めて首輪を掛けて消えた。今日はお肉を食べますから、その部位が答えられなかったら嗤いモノにしますからね。それを経験してスマホ依存と向き合い、この社会との関り方を知れてよかったです。もっと自分の意見、生の感情というものに焦点を当てて生活したいです。友達とも、しっかり目の前に存在しているってことを分かって、付き合っていければと思う。だから間違ったやせ薬で体を壊した。それは糖尿病治療の薬で、ただ体重だけが減って満足しました。その体は不健康な餓鬼であり、丁寧に生きていられない私達の怨嗟だ。それは、つまるところ永久に人間は同じ器官であり、この身に生じた暴力と怒りは僕の内奥で自我を壊した。不釣り合いな世界との接続は多数に共有されている。このどん詰まりの薬中どもの坩堝の中で小さな希望にすがり死んでいくそれもまた中毒者の経済活動であって、それは利用されてるのを分かりながらもやめられずにいるこの生の愚鈍さによるものなのだろう。助けてくれよお、駄目だから社会を攻撃して死刑にしてくださいとか言ってみせようか。どうにかどうにか生きたいのですが、それは皿に載った魚がまだ生きていて沢山の香辛料の中で死んでいくって感覚とその食感と味で首振って喜ぶから、セルフネグレクトしたペットたちの墓を建ててその不理解に苦しんで活動するNPO団体です。

 私達の糞はどこにでも存在する。ただその存在だけが私達です。それはそれとしてやっていくしかないのですから、どんなにクソでも、この社会と人生と生命の輝きは巡り続けるので、この体で廊下を走らないで、もう老化しているんだから転べば命はないぞと、毎日死ぬ人を思ってはまだ死んでいない喒とまだ存在しない俺とが、この先はポジティブ幻想で、まだ怒り、否定、取引、抑鬱、受容のプロセスを進めていないから、ずっと怒りだけでわだかまる。刃物、火、弱者。弱いものが更に弱いもの叩き、この世界は何たる地獄と天国の狭間で、資本主義者たちが上下を分け続ける。何もかもを持つものと、何もかもを持たないものに別れて、前者は努力した結果だとその背景を無視しながら傲慢な人生を生き、後者は努力した結果だとその現状に麻痺しながら暴力を発露する機会をうかがうだけの人生を生きて、生きて、生きて、私達はその泡のような生をずっと続けている。この全ての流れに「価値」や「意味あるものごと」といったものはまず存在していない。

 続けられているのは、愛の灯火を摩耗した肉体の中で不完全燃焼させることだけ。

 この哀れな言葉の連なりには死の意識を振り分けること以外無く、ただ摩耗するこの体と共に、やはり世界は或る少ない方向性だけを向いて、これらの無為なる生を続けさせようとしている。

 私達が理解できるのはあくまでも「世界観」であって「この世界」そのものではないから、少ない方向性だけで世界と「接続」を繰り返せば、それは絶滅と抹消のプロセスの最中に他ならない。災厄は人の手自らで執り行われ、その厳かな者たちが結局のところ、知的好奇心だけを満たし、この世界を「或る世界観」として規定し続けることで、同性愛者の奈落的な性欲と世界は不釣り合いであるという指向の中で亜硝酸エステル類とMETHとで浮沈を繰り返している。その青年の走らせる手と、私の醜い何者かの知性とが宿らぬ体だけが励起していた。ピザを頼んで、届かないから、犬と散歩に行きました、糞便はそのままにしてうだうだと中年女性に絡まれて、糞をそのまま半分喰って、残りをその女性の口の中に捻じ込んでやった。叫ぶ。花火に喜んで飛んでいくとそれは全て終わっていて、終わった場所で花火中継をワンセグで見ている男が二人いた。だから私はランニング中の汗で張り付いたシャツと共になぜか不快感を抱いてしまって、掃除機の鳴る音が土日の合図で、いつも朝起きるのが遅いからって同居人は足をつねってくる。痛い。止めろって、星になれないだろ、誰もがニセモノだって馬鹿にするから、喉を焼き、体を裂き、天へ、天へと私は叫び星になろうと空に告げてもの彼らはつまらなそうに無視ばかり。

 星になれたなら、ここではなくてずうっと光ってられるんだけどなあ。

*****

 結果は轢死でした。

 人生は逃避と酩酊で彩られてきた。

 明日死ぬかもしれない。それほど生きることが難しかったから。

 しかし今は、明日死ぬかもしれない。という事象はこの国ではあまり起きない。

 人と向き合わず一人で幾日も過ごすことだって可能だ。協力しなければ生き抜けない。そんな形が変化して、誰もが一人で満足し続ける。

 これもその果て。私というものの限界である。

数字は幸福を呼ばない

 この社会で規定された数字が私たちを惨めな気持ちにさせた。

 私は全ての数字を恨んだが、それら全てを数値化し、定量化し、私たちの居場所なんかどこにもないかのように、全てが数値化し、資本化し、まざまざと人生を突き付ける。

 人間の理性的な部分がこの世界に答えを求める。答えがあれば対応できる、対策できる、それによってよりよくなれるのだから。

 本当だろうか。

 

 うつ病に至る思考は全てどのようなものかを数値で表し、危険性のある人の予防が可能になる。駄目になってしまう前に、対策が打てる。

 私たちは病になる前に、それを防ぐことで強靭さを手に入れる。健康でなければ、価値の生産が出来ないから。この社会を回せなくなるから。

 助かる人が多いのだから、落ちる前に補助してやる。それはよいことだ。

 

 ではそれが、それ以外の判断基準に使われてしまったとしたら、どうだろうか。

 うつ病のなりやすさ、ストレス耐性、対話能力、病への耐性、様々なもので私たちの値が規定される。中国のあのスコアのように、人に数字が付く。

 どんな人間と繋がりがあるか、学歴は、出した論文は、特許の数は、SNSでの立場は、そうしたところで私たちの価値が規定される。

 もう既にそのようにはなっている。

 それはSNS疲れなどに現れている。そこに存在する恵まれたものと私達を比較してしまった所から惨めな人生が始まる。
 我々は孤独なのだから、その数字という想像上の概念は私達ではない。単なるパラノイアの妄想である。勿論、この社会も、この世界も。

 

 死刑になりたい。

 この社会に殺してもらおうとする。

 

 情報化社会で二分された私達は、数字の中で溺れゆく。

 適応できないのだ。
 そうして繰り返されていく。多くの人間が同様の行き先に進んでいく。姿もなく、顔も形もなく、ただ消尽され、消費され、喰らいつくされていく。

 この場所に立ち死ぬ。

 ヌーメンである。この体も心も、全ての反応も、神の吐息に他ならない。その頷きから、体は吐き出されて

 「そのように動いた」

 イデアは消費の最中に埋没し殺されてしまった。
 我々の中に残るのは、ただそれがあったという事実と、消尽されたこの自我だけである。

 

 それ即ち、この心を穿つ愛憎。

 この体には数字だけが張り付いている。
 皆はそれに気づかぬまま、病んだ自我をこの世に晒し、喧伝している。
 正しさも答えも存在しないものの為にそこに置いてあった。

今年もままならぬ

 気が付けば今年一年を生存していた。

 ただ、辛いのだと口にしてみても、自身の暴力性が様々に発露しつつあり、脳機能の衰えを感じたのが今年だった。
 明らかにストレッサーが増えており、私の体も、動物として異様な労働に割く時間によってあまりよくない状態が続いていている。

 枷。生存欲求とこの社会生活を破壊してしまおうと願うものの狭間を歩く。

 私は誰かの為に生きたいのだと感じているが、自分の為だけにしか生きられない道を歩んでいる。この矛盾、つくづく人間は社会性のある動物で、それを切り離そうとすればするほどに人々が病んでいくように思う。様々な資本経済活動が私達を回し、消費の奴隷、エコノミックアニマル、SNSインフルエンサーSDGsLGBT、様々なものが新たな価値として、批判として、高度に、詳細に、安易で安直な行動しか選べない者たちは、やはり置いて行かれる。ラストベルトのようなものだ。

 錆。この体も歩んだ歴史も単なるシステムの一部でしかない。

 自我などなく、自由などなく、私というものはこの脳機能と反応を繰り返す。人種、思想、宗教を越えたもの、❝❝超社会性❞❞とでも言おうか。(これは私の認知を示しているだけであり、別の適した言葉があればそれに修正する。)全ての者には価値が役割が存在する。その全てを尊重し、この世界をよりよく、誰もがこの社会の一員を成す。

 私の役割を振り返ってみれば、真社会性を持つ蟻や蜂たちと同様に、生殖機能を持たない労働する機械に近いのではないかと感じている。数十年という短い期間の中で、役割は分割され、人は村から都市へ、労働は合理的に、効率的に、私達の体を単一の機能しか持たない細胞へと還元していく。ただ労働をし、生産に加担し、消費と納税だけの生物へと成り果ててしまったか。

 神。祈りは全てが叶わぬから繰り返されその言葉は宙に彷徨う。

 センセーショナルに犯罪が報道されるに従い、その手法がメディアから提供される。近年起きている可燃性液体の犯罪行為。これは、単にスポイルされてしまう個が生じてしまうから、仕方のないことなのか。
 その非道な行為を支持することは在り得ないが、こうした者が生じる事象を少なくは出来ないのだろうか。

 一つは豊かさがそれを担う。しかし、それだけでは足りない。今の社会は豊かではなくなりつつあり、余裕の無い社会が人間らしさを棄損したから、そのような短絡的な行動に駆り立ててしまうのだとすれば、この社会が加速させ続ける消費とイノベーションとその競争は、人間が元から持つ暴力性を頭でっかちに適応させたものに他ならないのであるから、そのから取り残される人間のことはあまり考慮に入れられていない。社会保障はあっても、それが成り立たなくなる。

 様々な場所に攻撃性の発露が見られ、誹謗中傷は正義感により止むことはない。

 取りこぼしなく、個々を繋げ続ける。全ての人間は役割を持つ。社会と繋がり、認められている。そうした感覚があれば、孤独から怒りに満ちた視界となるのを多少は抑えられる。しかし、上にある恵まれた者たちを意識せずに済むことにはならない。

 これから、と、これまで、の人について考えなければいけず、私はこれまで、の人に分類される。
 これまで、の人は歪に発達した自我状態と、多くの報われなさ(個人差はあるが)がその中にあり、それは私の根本が人間嫌いであることにも起因している。

 異性が嫌いだ。というモチベーションで行動しているノイジーマイノリティが目立ってきているのも、これまで、の人達だ。
 該当する人達が様々な負の感情を持ち、それによってもたらされる行動によって、性別に関することに対して、敏感になっていく。
 これもまた「私は気に食わない」という感情を「正しそうに見えるもの」で覆って社会的に良い行動、価値あるもの、そうした役割があると間違える。本当にやらなければならないことから離れた些末時ばかりに焦点が当たってしまう。
 私はNOであなたはOKということに対して許容されにくくある。これまでの文化や歴史的背景を破壊しようとするもので、自身が持ち得るものしか見れないように私達は寛容さを失い続けている。

 皆が等しく多少の気遣いを必要とする。
 ちょっとしたことで上手く回る。そうした社会がいいのだろうか。

 人を食い物にする人間も必ず現れる。巨大なクソのようなものを引っ提げて様々な制度、機会を利用して生じる。

 うんざりするような出来事が目立っている。
 私は私の人生をまだ続けられるだろうか。

 色々なものが損なわれ続けるこの体に、これまで、を続けるのが難しい。
 それだけは知っている。

現実とはかくも虚飾に彩られる。

 久しぶりに何か書こうと思います。

 炎上。というより、恥知らずな生き方を僕は羨ましく思います。確たるものは決してないのに、自身の絶対性を多幸感と共に外に出せる。その空虚な賛同で食うっていうのは、まさに「人格の資本化」であり、資本主義への過剰適応だと思う。性風俗の従事者が自己のアイデンティティを歪なものに変えてしまうようにまた、恥知らずな生き方も歪みが生じる。
 だからある意味整合の取れない行動を取るけれど、それは「そうやって生きて来たから」仕方のないことなんだ。

 妄想で語る成果主義には誰もそこにかかる辛さを見ない。なにかそれが救いとなるような感覚を抱く。

 救い。救い。救い。

 宗教亡き僕らが救いを得ることは決してない。

 残念だけれど、神はもうはるか前に霧散した。そうして人の時代が出来たが、至る所に小さなカルトが生じているだけなのだ。この非情で、無意味で、不条理な現実は酒で濁らせろ。気の利いた話で、短い時間でコンテンツを大量に消費して、消費の奴隷として、その気狂いじみた世界を回し続ける。

 批判的嗜好はなく、批評的態度で世界を十全に切り取った気でいる。
 それこそが思い上がりで、僕らが賢い筈がない霊長類としてこの地球に君臨している事の強烈な違和感を産む。

 そういった面で言えば、僕はyoutubeに代表されるプラットフォーマーが嫌いだし、このクソみたいな金稼ぎ、拝金の亡者となるのは避けていきたい。哀れな労働者でいい、僕も例に漏れず全き資本主義者ではあるものの、常にそれだけとならないような生き方を考えている。(嫌いだが役に立つものもある。摂取しないというわけではない。この呪詛まみれの地獄でも、泳げる場所はあるのだ。)

 誰か一人の言葉に賛同する。それが正しいと、それがすべてだと思う。
 人って本来それほど賢い動物ではないのかもしれないね。

 〇〇が言っていたから、そうやって「分かり易く」「シャープな」ものに惹かれる。
 論破をすれば格好いいから。1次ソースなんてなくても手軽に、簡単に、どこか自分が知的に思えるから。

 ディベートやってんじゃないんだよ。生きるってのは。

 と、何となく思う。議論は説き伏せて、自身の考えの有効性を打ち立てるのではなくて、どうすり合わせて行けるか、どこを妥協し合うか、といたところが重要になる。

 人は変わらないから「確かにそうだ」と思って、協力できるようにしていかないといけない。僕は個人の力を信じない。蟻が一匹では渡れない川を渡るように。
 つまるところそれは、全てのインフルエンサーへの否定であり、メディアの爆砕であり「わたしはわたしであるところのわたし」しかなく、黴菌を取り払うことに他ならない。
 最終的には人が社会を回しているのだから、その人との関わりに帰着する。
 それはある程度生身で、Face to Faceで、感情と合理性の狭間を曖昧に行きかう。僕は明確な関係など、そうしたルールを好んではいるが、結局人とどう出来るかになる。
 この世界観の重ね合わせが希薄な世界で、ずっとずっと何かを分かった気になって、まったく知る気もないようなことが増えていく。それは役に立つんですか、それは必要ですか、それはどんな価値がありますか、それは、それは、それは。

 理屈じゃないんだよ。この世界ってやつは。

 好き嫌い、誰かの拙い感情表現で左右されるのが僕らで、頭でっかちな僕らはあまりにも非力だ。
 猫が伸びやかに、青空の下を散歩する時に、見るものは狩りと殺戮と発情。
 なにがあろうと襲うと決めたのだから、獲物を狙い、そして飛び掛かる。
 戯れに狩りをして、そして獲物がいなくなって、猫も餓死した。生き物は貪婪、適応とは不合理そのもの。

 何かを攻撃する。見下す。
 そうした輩とも距離は置かねばならない。

 もうこの世界で生きるのは窮屈な合理性と、そこから零れ落ちる者を排除しなければいけないのか。
 生き物を絶滅に追いやっているのは僕らだ。いくら資金を投入しても、保護活動を続けたって、レッドリストの生き物たちが絶滅するのは時間の問題だ。
 もしかすると、僕らが回すこの社会は、その排除によって人類の数すらも減らそうとする試みの只中にいるのかもしれない。もうこの世界で、七十億もやれないから。
 エコでグリーンな社会というのは、もちろん人間にとっての、という但し書きが付いている。全ての生き物が緩やかな生態系の変化と、成長と死を繰り返す。
 勝手に自分たちが素晴らしいもので、目をかけて貰える存在だと、知らず知らず高慢な考えを持ってきた。

 だから少しでも静かに、穏やかで多くの人の呪詛に触れないような世界で生きていたい。それも虚飾だけど人の中で死ぬには、そうするしかないから。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火