Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

弱者のための世界6

消え去る前の小話

 弱者ゆえに弱者のために何か出来ないだろうか。
 少ないものから差出せるということの尊さ。慈悲の実践は非人間的なところがあるので、凡夫には小さな慈悲だけが行える。
 余裕が無い時こそ、手を差し伸べる。そうした実践を小さなところから始めるくらいしかないのかもしれない。

 ロシアに対して、我々は静観するだけできっとウクライナは大きく変わってしまう。NATOに所属しているとか、結局全ての人に対して目指すことは人類には荷が重すぎるように感じている。

 犠牲になるのは、いつだって民衆であって、子供であって、死を運ぶのはそれを選択した者達。私達はそこに流されて生きるだけの小さな個人だ。
 利他的になれない私達は、この先もずっと同じような争いを続けて、それはこの人類、この種が絶滅するまで続くのかもしれない。

 はたまた、大災害によって儚く脆い我々が蹂躙され、小さく生きる以外に選べなくなる。そうなってようやく、功利主義は実現されるのか、ただのムラ社会として収まるのか、ともあれずっと同じような形で巡り続けることはある程度予想がつく。

 だからいつだって、私達のように弱い者は脇に追いやられ、捨て置かれる。また、その捨て置かれた中でも同じような構造が繰り返される。

 ともすれば永劫回帰の地獄を見ているようだ。人類に超人など生まれやしない。ただ、悪人正機がここに横たわるだけのように感じる。ヒトは生まれながらに悪であって、往生を目指すのだ。とは大乗仏教。哲学や教えではいまいちしっくりは来ないから、シンプルにしたい。
 ただ、どんな時でも周囲の人を善くする為に何かをする。共感し、援助し、また助ける。この行動の相互作用だけだと思う。大事なのは「何かをする」であって、そこには期待も、狙いも無いように、ただそれを行うということ。

 人間は意地汚いもので、誰かに何かをしてあげようとすれば、「あげる」という言葉から見て取ることの出来るように、それは利己的な性質を持つ。真に利他的な行為であれば、そんなことすら生じずただ人に為す。それだけがあるはずだろうから。(その人を支え、助ける行為そのものがあれば、そこに自分なりの意味や価値を見出しても、問題はないと考える。)

 この先、南海トラフ地震や火山の噴火などで日本が混乱期を迎える可能性が大いに示唆されているが、その時にまた、嫌でも目にすることになるだろう。
 自分だけを守ろうとする者、弱き者から奪おうとする者、数と暴力に訴える者、一時の生存に目が眩み、余裕が無いからと協力を忘れ、我々も奪い、殺し、侵す。他の霊長類の仲間がやることとそう変わらないことを行う。

 その後に残った綺麗ごとに何の意味があるだろうか。
 実現できないSDGsを掲げて、ただ口先だけの非難を重ねて我関せずと自身を守るばかり。その下地にあるのは暴力と戦争。不平等から生まれる巨大な暴力のうねり。

 たった百年も生きられぬ身で、そうした所を何世代も堂々巡りする。
 そう感じるのは私の目が濁っているから、暗愚な頭だからだろうか? ただ表面的な出来事をさらっているだけの無明であると?(であれば私は猶更弱者である。この場はその為に作ったのだから。)
 様々に勝ち取った規則やこの社会のカタチも、根源的な問題を解消するには至っていない。ある程度後ろに追いやることは出来ても、すぐに姿を現しては暴力が生じる。

 その中で私は透明であり、知らず知らずに脇へ追いやられ消えていく程度の弱者である。社会的に目立つものではなく、問題にも取り上げるまでもない、そんな弱者だ。(好んで頭でっかちなのではない。そうしなければ、この世界、人間社会を咀嚼できないだけなのだ。)

 マイノリティでないのだから、ぐちゃぐちゃ言うな。

 とか、

 頑張ればなんとかなる立場のくせに、弱者ぶるな。

 とか、

 きっと私にはそんな声が投げかけられる。

 そういった声こそが、取るに足らない些末な人間を追いやり、消していく。目立つ弱者、声高な弱者、マイノリティが救われるのが急務だから。それらは可及的速やかに平等にしなければならない。バリアフリーの社会にすれば、些末な弱者も生きられるようになるから。

 自助努力。同じコミュニティの中にいる下層の人間はそうやって誰かのストレス発散の為に存在していた。

 私はただ運がいいだけの弱者である。私のような社会性皆無の無能でも生きられるのだから、まだこの社会は何とか出来る余地があるはずだ(沈没の瞬間なのかもしれないが)。だからこそ、小さく。周囲の人達の為に何か出来ることをする。

 人はいずれ死ぬ。強者だろうと、弱者だろうと。

 それ故に、この身の欲を満足させる行為の虚しさがある。

 だから、利他的な行為そのものがこの生に役目を与える。

 そんなことを思う。

 ただし、これだけであれば、既存の教えの焼き増しと振り返りでしかない。

 普遍的な人を善くする実践的行動。
 これを資本主義、競争社会、得る者が全てを得る社会でどのように実現できるか、これを見出さなければ、凡夫たる私達がこの先を生き抜くには厳しい。
 精神世界としての慈悲であれば、それを仏教は示してくれる。実際に行動に起こすとなると、本当に数が少ない。
 誰でも出来るような行いでないことが見えてくる。

 なれば、誰でも出来るような行いで、それが社会的にも価値ある形で出来る形に還元する必要があると私は思う。これまでの歴史で様々な出来事があって、それを曲がりなりにも行っているのが税金だろうが、そこには人と人との社会的な交流が失われている。この社会は孤独が叫ばれて久しいが、効果的にそれが解消される形にはなっていない。
 小さな快楽で孤独を誤魔化している。SNSや動画など、手軽に楽しむものだけが支えとなって、その空虚さで生きていく。結局のところ、酩酊物を使用していた昔から、形態が変わっただけでやっていることは変わらないのである。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火