33歳、弱者男性はさまよう
最後は誰でも一人で死ぬ。
どんな人間でも、どんな生物でも、この星ですら、やはり死んでしまうのだ。
最近もよく死について考えることが多いです。増える感染者、そしてそこで零れ落ちていく命。徐々に収まりは見せ始めているか、山頂はまだ先か、それは不明だ。
どうして死にたいというのか、防衛しているから。それによって、この辛い現実というものは私ではなく、死を冀うことによってそこから逃げようとしているから。
自己にたよれ、法にたよれ。
我々は頼る自己もなく、法も知らず、この情報化と細切りにされた快楽の灯火だけで生きている。人であることが広く繋がるように見えたが、実際は小さな輪とその外側の排斥が増えただけだった。
SNSを上手く使える社会性も無いまま、一人さまよう。様々な人々との対話、交流は出来ない者にとっては更なる苦痛を産むだけだった。残念ながら、どんな活動でもそうした他者との交流、社会性を増す為のソーシャルスキルトレーニングが私には不足しているように感じる。しかし、具体的に何が必要なのだろうか、アサーティブに自分の要望を伝えること? 拒否出来るようになること?
長く人と付き合おうとすればするほど、私は人に嫌われる。対策は分からない。
それは数多くの能に長けたように見える者たちによって、無力感を学習し続けているから、私達は弱い。けれども、どんな人間であっても死は逃れようがない。どれだけ資本を集めたところで、それが自身の子や家族へ繋がれたところで、結局持ち得るのはただ一つの死以外に存在しない。
そうした欲、苦しみの無意味さは生きている内にずっと付いて回る。
貧しいものの援助こそ、なにものにも代えがたい。権威も無く、ただ善いことについてだけを取り上げる。それは徐々に失われていく。バズるという言葉がそうさせるように、何かいいことを言ったような、沢山の人がくっついた権威付けばかりがはびこる。
ミルグラムの実験では、権威者が命令すれば死に至るほどの電流すらも人に掛けることを厭わなくなる。権威とはそのように、私達を倫理的に逸脱した異様な行動へと走らせる。浮動する我々には道が見えない。流されて、流されて、その果てに海底の砂礫のように丸くなることはあるか。
インフルエンサーがファンたちに攻撃させようとする行為(ファンネルと呼んだりするらしいが、私はそれが何かを知らない。)こうしたものも、結局人が正しいものを考えられず疎外されることに近いだろう。油断すれば、人は欲の渦に呑まれる。(私の過去の記事もそのようなものだ。この社会に適応できないが故の反発、弱く愚かな者の孤独は人を腐らせ、惨めに消えていく。)誰かを攻撃するのはよくないことだ。正しいからと、正しくない者に攻撃をして、謝罪させよう。
これにも大いなる欲が関わっていて、それ故に正しさは曇る。
私達にとって「善い」ことを為す。それだけを考えて、生きられれば良いが、この世界の欲とその苦しみにまみれた生活を続ければ続けるほど、それが出来なくなる。
人間の特性を活用し、生産し消費し、消尽されていく我々は、この形態から距離を取らなければならないが、そうすると生きられないように感じる。この小さな欲、苦しみ、快楽、消費、そうしたものを無くしたくないと、愛おしいと思う。
どこかで、大きな決断が必要だ。いつまでも得られぬもの、この欲と苦しみを繰り返し続ければ取り返しがつかなくなる。苦しまずに生きるとすれば、何か頼れるものが必要になる。私はそれを探している。今は仏教を調べて、その法と教え、その源流から今に至るまで、考え方が色々あるので今この社会で生きる我々に相応しい考えを過去の教えから再構築しなければ生きられないと思う。
Youtubeだろうが、Twitterだろうが、Instagramだろうが、プラットフォーマーが作り出すのはそうした欲と苦しみ、資本は増えるだろう、人気は増えるだろう、人の数こそが資本主義なのだから、その権化のようなもの。
それらを目の当たりにして、私達の脳は傷つく。それほどこの臓器は賢くないから、どんなものも素直に受け取るから。
では、弱者男性(女性)はこの資本の上澄みばかりが悪目立ちする社会でどのように生きればいいのだろうか。
出会う為の手段として、マッチングアプリ、結婚相談所などはあるが、これらは資本のあるなしが重要視され、それが無い者は見向きもされないカタログの肥しでしかない。結婚相談所では旧来の男女の価値観が色濃く残り、多様性などといった時代にはそぐわない。そこで働く人も、私達のような年齢の人達も、その価値観で育ってしまった為に、そのあるべき姿の亡霊に惑うから、やはりこちらも辛い。(年収の基準ラインが500万円とか、女性は大学とか就職先非公開でもいいとか、男性に比べ情報を出す量が少なくていいというのは、女性であるということだけで価値があるようにも感じられる。)
一人で生きるのが辛いから、二人で頑張っていきたい。
そう考えているのは、妄想なのでしょうか。
一人でも生きられる自信がついたから、結婚しようと思った。という言葉をどこかで見ました。とても良い考えです。
そして、それを見て「ああ、私は淘汰され死にゆくものに過ぎない」と感じるのです。どれだけ私は愚かなのであろうか、こんな生、などと思って。と云ふ心持ちで、何でもない言葉にも傷つくものですから、やはり、さまようのです。
労働者で、まだ体が動くから、ただ生きることは出来ている。
ただそこに集う欲が、苦しみが、私を生き辛くさせている。
他の人よりも私は弱いから、多くの人に相手にされていないから、などといった、自分を守る為に作り上げた歪な自己愛に苦しむ。子供時代に作り上げた脚本が今でも繰り広げられて、そこからの解放に至らない。交流分析をすれば、良くなりますか?
弱者でない者は、人間らしい営みをして、その現実の大変さ、忙しなさで一生懸命生きているように見える。それが、隣の青い芝でも、私達もそうではない辛さを抱えながら一生懸命生きている。こうやって足掻いて、それでも人生を落とさぬように、時に消えたく、時に破滅衝動にも苛まれながら、日々をやっている。