Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

社会不適合者には弱者の為の世界など描けない。

消え去る前の小話

 なんだか定期的にやって来る「消えてしまいたい」という気持ち。
 まあ、手を挙げても誰にも助けてもらえないので、自分でやるしかないんですよね。
 自殺も自己責任で、どうぞ。私は、まあ、いずれ。

 

 社会不適合者とはなんでしょうか。
 主に私に人生に穿たれてしまった不愉快な世界観について述べる。

 私は勿論社会不適合者には分類されない。一応労働をし、自らの生活の向上、生涯発達に色々と努力をしてしまっているから。
 しかしながら、一点だけ、この社会から希求されるものを成してはいない。

 結婚。婚姻。

 私が死ぬときには生涯未婚率は恐らく半数に上る。
 私はそれに加担するし、それは私が魅力のない人間だからに他ならない。

 人間との対話に難を、自信のなさからくる孤立を、それらを抱えては結婚は出来ない。これまでに結婚相談所にいくら使っただろうか。恐らく五十万はくだらない。そして得られたものは、二、三度話をしては得られる消極的なお断りと数多くの拒否。
 全くこれらは私のような人間には堪えるものだ。誰かが言うだろう「普通」に生きていればそんなことはないと。

 「普通」などないが、そうした文化の中で生きてしまった、それを植えつけられてしまった。または性欲がそれを求めたか。

 私にとってはあまりにも大きなもので、性欲は私に自殺を呼び起こすから嫌いだ。こんなものは一割も無ければよかったのだ。

 なんにせよ、仕事で疲弊し、更に個人的な邂逅で気を遣おうものならもう、へとへとだ。対峙する相手はそれなりに異性とのコミュニケーションをしてきた者たちで、それらが全くない私とやり取りすれば、それは理解の及ばないもので、繰り返してみてもあまり改善が見られない。

 そうしたことを続けるうちに、疲弊してくる。彼らは私に興味がないのだ。
 しかし、相手に落ち度があるわけではない。生殖に適した相手を選ぶ、という行為はそもそもこうした形で果たされるものではないから、結局どこかで上手くいかなくなる。
 私達の社会性が、この協力体制が、競争ばかりではやがては疲弊することを知っているから、結婚という制度があるが、新自由主義は馬鹿馬鹿しく、競争の中でただただ自由という淘汰を掲げて笑っている。

 だから、この社会もそろそろもう上手くいかない。
 ナショナリズムが台頭し、我利我利の個が生み出すこの数字の悪夢。
 それを見て「どうしてこんなになってしまったのか」などとは言えない。私達が見て見ぬふりをして、きれいごとばかりで現実を無視してきたから起きてしまうことなのだから。
 私達は豊かにはなったのかもしれないが、そうした窮屈な社会の中で喚く。

 話を戻そう。

 私は日頃から人間達とどのように対話すればいいかも分からず、またそれは異性に対してより一層強まる。
 彼らと上手く続いているなと思えば理由も分からず応答は消えて行く。
 次の約束をしたと思えば、丁重に断られ。次は○○行きましょうと返事が来て、いつ行こうか打診すれば返事は消え。
 私という存在も消えていく。個人個人のマッチングなのだから、絶対的に機会を増やす以外にこれを解消する手段がないのは知っているが、こうした反応の一つ一つに知らず知らずの内に傷つく。それがストレスとなって、私を傷つける。

 就職活動と同じだが、仕事とは違い親密を得ようとする関わりは、私にはとても難しいらしく、ただただ無駄に資金だけが糞のように垂れ流される。
 これが夢にまで見た資本主義だ。その終わりに瀕して、お前は何を望む?
 富めるものが更に富み、それは何も「金」だけではない。容姿も、人格も、技術も、知識も、何もかもが資本を持つ者どもだけで回る。努力では遠く及ばない恵まれた連中ばかりが上澄みに溜まっていく。
 我々のような唾棄されるべき、絶望的な連中はなにがあろうとその上澄み共が生きる世界観を理解することはない。彼らの努力は生まれる前から積まれていた。

 私に積まれていたものは何であろうか。
 時折現れる無際限の暴力的思考だろうか。
 目の前の人間が最も苦しむ方法はなにがあろうか。不意に振るいたくなる暴力。
 それ故に安楽死を望んでいる。この日本ではまだだろう、明確に「死ね」はないが、言外の「死ね」は無数に存在する。

 異性と仲良くなる方法も恐らくあるのだろう。私は多くの人間とはズレている。その世界観を共有できないから、理解していないような言葉で理解されないと悲しむ。しかしそれは人間から離れているから。

 ここまでそうした関係を作る為のやり取りをしてこなかった。出来なかった。そういったことを考えると、自身が社会不適合者のように感じてくる。今は多様性の時代だ、なんて言うけれど、子供のころから植え付けられていく観念は根強く、それが無ければどうしても「半人前だ」という感覚をずっと抱いている。
 多様性とは、綺麗ごとで全てをまやかすものである。不都合を多様性と言って無視して、都合のいい多様性だけを選んでいく。SDGsというものだ。
 「そんなつもりはなかった。傷つけたのなら謝る」
 こうした卑劣な言動と似ている。多様性を口にした時、自身の中にある無意識の差別について認識したか、緩やかに基準と合わない人間とは距離を置き、壁を作り、それらが積み重なればその基準が「普通」と呼ばれ、多数の中に合わない者は抹殺される。

 だから、私は社会不適合者である。
 京王線で「幸せそうな女を殺したかった」と事件を起こした人間がいた。
 自身をナンパ師と嘯き、その根底には異性に対する軽蔑と憎しみ。間違った合理化によって、自身を同じような形に置くことによる防衛機制が働く。

 イドより、自我へ。社会的に間違った形でリビドーが生じるのは何故だろうか。
 それこそが、私達の分断であり、世界観の断絶であり、間違った形の接続に他ならない。現実に沿う形で適応して出て来る欲動が、その現実を破壊されてしまえばそれはまた間違った適応によって生じる。認知は歪み、この世界は私を監視する者だらけで、私の思考は全て読み取られ多くの他人から軽蔑の眼差しを受ける。私をどこかで陥れようとしている。浴槽から、リビングから、玄関から、どこからともなく「お前は死ねばいい」「消えろ」「クズが」といった声が聞こえる。病感としての幻聴。私は別に正常だろう。
 情報化社会により、私達は分断された。
 資本主義により、私達は分断された。

 生まれ持った資本により、大きな差がみられる。何もかもを持つ人間と、何もかもを持てない人間に分かれ、やはり暴力がそれを解決させようと生じる。

 もううんざりしているが、自死した所でこの地獄は変わらぬ。
 なれば別にすぐに死ぬ理由もない。私達は地獄に落とされて、その生死で喚いているだけなのだから、この世界で生じることの全てはまやかしである。
 真理も、宇宙も、人間どもの欲望も、結局はエネルギーの終着、静止以外にないのだから。

 労働者として仕事がそれなりに出来ていたとしても、結局ここに戻ってきてしまう。満たされぬのだから、この先確実に狂ってしまうのだから、誰かに加害してしまうのだから、それならそんな不合理な存在は今すぐ消してしまえ。
 そうした合理化で満たされないという文字を埋めている。私は人間ではないのだという合理化を続けている。

 この社会人生活を振り返れば、おそらく私はそれほど労働力として劣る人材ではないのだろう。経費として消費されるだけの価値はあるということだ。(ただし日本的企業の中だけの話である。)
 けれども、自身の性欲に振り回され、異性との対話はどこか人からずれて上手くいった試しがない。学生時代に、そんなことで思い悩んでいたが、少ない同性の友人以外私には存在していない。「何を考えているか分からない」そういった言葉で私は切り取られ、誰かとの対話は上手く出来ず、斯様な表現ばかりをずっと続けている。
 表現することを止めないのは、そこらで迎合されたマジョリティたちとの共通言語があまりなかったから。どうにかして、自分を表現しなければ生きていけないから。
 この社会の中では、その表現の中にも埋もれて消えている。

 社会のどこでも所属しているフリだけを続けた。
 いつ淘汰して頂けるのでしょう。

 だから、異性を憎む者たちを見ると、それらがどうしてそのような気持ちを抱くに至ったかが何となく想像できる。そうするべきではないけれど、攻撃することで、それらは取るに足らないものだよ、そんなに強く思わなくていいんだよって、心が防御反応を起こしているだけだ。代償行為が表現なのか、自己にある暴力衝動なのか、たったそれだけの違いであり、私も少しずれればそうした悪意ある加害者と変わらない。
「幸せそうだから、それを奪ってやりたい」

「何故、お前たちは普通のレールに普通に乗っている(ように見えるのか)」

 私達は感情の奴隷である。この一連もその奴隷の足跡に過ぎない。

 この感情に流され、短絡的で、取り返しのつかないあやまちを繰り返す。

 サラダ油もそう。「女性」というものを短絡的に一般化して、それら全体が自身をこの社会からつまはじきにしている。そんな風に思い、それを強化していく。
 「幸せそうな女を殺してやりたかった」
 どうしてそう思うのか。恐らく皆が、その考えを軽蔑するのだろう。
 同じ人間として見ていない。「女」というものが人でなく、「女」という別の形で処理されているから「女」がこの世界に求められて生きて、沢山の人間との交流を得られることが多いことにやっかむ。
 それらは性欲によって。
 それらはその社会性によって。

 ひとえに孤独が私達を蝕む。誰かに受け入れて貰えないから、自身のパーソナリティは軋轢や面倒を産むから遠ざけられる。又は、何を考えているか分からないから。

 だから、木嶋佳苗のような者が現れ、私はそれによって殺される運命なのだと信じてしまう。私はこの社会に居るべきではない「死者」なのだから、私はこの場、この社会に提供されている全てのサービス、全ての関わり、全ての所属、それらに全く所属していい存在ではないのだ。とまで考える。

 だからこそ、私は太陽に焼き焦がされることを望み。

 それらが成される時は未だに来ていない。

 また「女性」というものに対して、最新の世情はどこか発狂と錯乱が募っている。平等な権利、平等、平等。

 性的搾取。性的対象。女性の権利の侵害。性犯罪の誘発の危険性。

 果たして、女性らしさ。というものをどう受け入れればいいのだろうか。

 私達人間は動物である。
 私はただ何もなかっただけで、様々な暴力性がそこから生じることを良く知っている。

 受け入れて貰えないのでいいですから、死ねないのであれば、酩酊物の中でゾンビのようになって死んでいきたい。
 残念なことだが、この国でヘロインなど使うことは出来ない。唯一許されたアルコール、ニコチンなどは私の役に立たなかった。
 だから、人間未満として、ただ労働し納税を続ける機械として、使いつぶされるまで生きるだけである。

 性犯罪の助長。という言葉は何も根拠がない。
 この世の中に沢山存在するコンテンツ。それらは全て空想上の物事であり、それを受ける者への影響があるからとそれも空想をぶつける。
 私は以前、この日本ではフェミニズムはもう終わったと書いた。
 後はちょっとした難癖。女性にも権利を、というのは男性の協力が不可欠で、それらはせざるを得ない状況に置かれている。

 レースクイーンなど「ある程度性的な」ものをアピールする行為がどうしてか悪のように、美しさというものが悪のように見るようなことが増えていく。
 それは多様性を侵害する。優性論的価値観を皆に与える。人間が尤もらしい言葉を連ねることは容易だ。

 それ自身が、多様性を破壊していく。

 私達は多様性を破壊していく。

 SDGsと綺麗ごとを喚き、多様性を、全てを生き辛さの満ち満ちた世の中に変えた後に、やっぱり窮屈だし寛容へ。そうやって同じことを繰り返すのではないだろうか。
 人間はいかに文化を発展させたところで、今世の中にあふれる馬鹿馬鹿しい「新しい」価値観。それらは恐らく、私達が歴史も過去も知った気になって、本質を理解することが無いから、過去、幾らか前に有ったようなことを何度も繰り返す。

 螺旋だろうか。

 私達は真に平等など成し得ない。
 この哀れな霊長類どもは、自身の利を引っ張ること以外頭にないのですから。

 と。

 ただ癲狂を始めた哀れな生き物が文字を重ねた。
 お願いですからね、楽に、早く、逝かせて頂ければと切に願っております。
 明日を生きたい、絶対に生き抜くんだ、と願われる方には本当に申し訳ないのですが、それでもやはり、人間的に満たされていないので、もうやめてしまいたくなるのも、分かっていただければ幸いです。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火