数字は幸福を呼ばない
この社会で規定された数字が私たちを惨めな気持ちにさせた。
私は全ての数字を恨んだが、それら全てを数値化し、定量化し、私たちの居場所なんかどこにもないかのように、全てが数値化し、資本化し、まざまざと人生を突き付ける。
人間の理性的な部分がこの世界に答えを求める。答えがあれば対応できる、対策できる、それによってよりよくなれるのだから。
本当だろうか。
うつ病に至る思考は全てどのようなものかを数値で表し、危険性のある人の予防が可能になる。駄目になってしまう前に、対策が打てる。
私たちは病になる前に、それを防ぐことで強靭さを手に入れる。健康でなければ、価値の生産が出来ないから。この社会を回せなくなるから。
助かる人が多いのだから、落ちる前に補助してやる。それはよいことだ。
ではそれが、それ以外の判断基準に使われてしまったとしたら、どうだろうか。
うつ病のなりやすさ、ストレス耐性、対話能力、病への耐性、様々なもので私たちの値が規定される。中国のあのスコアのように、人に数字が付く。
どんな人間と繋がりがあるか、学歴は、出した論文は、特許の数は、SNSでの立場は、そうしたところで私たちの価値が規定される。
もう既にそのようにはなっている。
それはSNS疲れなどに現れている。そこに存在する恵まれたものと私達を比較してしまった所から惨めな人生が始まる。
我々は孤独なのだから、その数字という想像上の概念は私達ではない。単なるパラノイアの妄想である。勿論、この社会も、この世界も。
死刑になりたい。
この社会に殺してもらおうとする。
情報化社会で二分された私達は、数字の中で溺れゆく。
適応できないのだ。
そうして繰り返されていく。多くの人間が同様の行き先に進んでいく。姿もなく、顔も形もなく、ただ消尽され、消費され、喰らいつくされていく。
この場所に立ち死ぬ。
ヌーメンである。この体も心も、全ての反応も、神の吐息に他ならない。その頷きから、体は吐き出されて
「そのように動いた」
イデアは消費の最中に埋没し殺されてしまった。
我々の中に残るのは、ただそれがあったという事実と、消尽されたこの自我だけである。
それ即ち、この心を穿つ愛憎。
この体には数字だけが張り付いている。
皆はそれに気づかぬまま、病んだ自我をこの世に晒し、喧伝している。
正しさも答えも存在しないものの為にそこに置いてあった。