想像力の怖さ
まったく想像力でいっぱいなのだ。狂人と、詩人と、恋をしている者は。
その中で、私は狂人寄りだろう。
想像力のはなし。
DLsite.comというwebサービスがある。
このサービスの中では様々な同人ものが売買出来る。
性的な興味というものは、どこまでも自由で、インモラルで、時には冒涜的な形を取る。というのが、このサービスの中でやり取りされる作品に見て取ることが出来る。
私は肉体に対する冒涜にも近いものや、主流ではないニッチなものへの興味が尽きない。丸呑みや悪堕ちはまだDLsiteに数百作品しかない頃から見ていた。
全く呆れるほどに、作品を収集しているのだ。
まったくそれらは、想像力の産物である。または、想像力の墓場である。
様々な風俗サービスがあるが、それらは私には合わなかった。どうにも、リアルで他人と体が触れあうのがあまり好きではないようだ。そもそも、初対面の人と演劇をするということのあほらしさ、馬鹿馬鹿しさを感じて、けれどもその介護に身を預けている自身の状況を鑑みるとより一層惨めな気持ちが増して苦痛を感じる。
――全て、金を対価として受け取る介護であるが、世界最古の労働に首を垂れる。
専門性だけの、哀れな労働者たる私は、この肉体だけで生きる――
世の同性たちが全くそんなことはお構いなしのように振舞っているのが、非常に不思議なのだ。確かに、雑多なリビドーはあるし、それらは不特定多数を向いているのは、人として生き物としてある程度仕方のないことだとは思う。
けれども、そこに対する関係性と対価の関係が馴染まない。もう少し古い時代であれば、今よりも娯楽がなかったからそうは思わなかったかもしれないが、どうにも楽しめないのだ。
なにごとも、楽しめないというのは残念なことだ。
なにものも、顧みられぬのだから残念なのだ。
記憶のそこにも、記録のそこにも、残らぬ泡沫。
不特定多数へのリビドー制御に腐心し続けた結果、おぞましい化物となりつつある自身は、この脳がダメになってから害を生み出す可能性が有るので、早く情動を、欲を切除してくれ。
ただ、欲は際限なく。しかしそれを受け入れる刺激が無いから、想像力は刺激を生み出そうとする。
おぞましいまでの肉体や精神の変容はどこか喜劇的で、まったく笑うしかない。しかしながらそういったものにさえリビドーは存在する。そこに至るカタルシスが堪らないのだ。
同性愛、異性愛、異種愛、、、これらすべては想像力により、リビドーに変換されていく。興奮に至る想像に制限はない。そこにはリアルは存在しないから、射精の度に死んでもいい。または欲望を受け入れる度に生き返ってもいい。現実での行為に紐づかないから、それらは距離がある。
カーム。
恐らくそうなのだろう。
変容してしまうことに対する執着。取り返しのつかないものに対する恐ろしさと怖いもの見たさ。そんなものが内部に渦巻く。
それなりに数が多いのは戦隊ものだ。私の記憶で言えば、悪堕ちはオーレンジャーからだ。自分以外に仲間が皆敵になってしまう。それをおっかなびっくり見ていたのをよく覚えている。
または、状態異常。
ブレスオブファイアⅡのゾンビ化が怖くなってテレビの前から逃げ出した。
もっと、過激に、苛烈に、そうしなければ刺激が無くなってしまうから。
そうしたところから、様々な想像力が羽ばたく。リビドーである。
薬物を求めるようなものだ。快楽を求めているのだから、単なるグラデーションだ。1ml間違えば死ぬ安価なGHBと抑制を解くアルコールと、酩酊と停滞の大麻と、クロコダイル。メタノールを流し込め、盲な私は既に死んでいる。
しかしながら、そんなものに力を借りるわけにもいかない。そこまで弱くもない。想像力を舐めるな、金稼ぎに結び付けられたクソ人工物なんかに手を借りるわけにはいかない。クソ人生はクソのまま、全て私のものだ。どんな主義、物質、人物、世界にも強制されない。
そう思いながらも、そうした領域は砂漠の砂粒の一つほどしかないのだ。私の時間の大半は仕事をする、資本経済を回し、生産し、労働し、消費し、投票箱だけが主張の全て。社会生活の辛さをリビドーで消化する。止められないポルノ依存。そうして残ったのが睡眠だ。
表現はそれらの隙間に挿入され、私のこの自由というものはほとんど無に等しい。
作品数が極めて限られるジャンルや、多くの者からは忌避されるような嗜好では、作品を描くものが少ないから、多少質が落ちても許容されやすい。彼らへの要望に応えるのが苦でなければ、おそらく小さな商売として個人で生活できるだけの需要はあるのではないかと思う。
そうして自分で作ろうとして、やはり挫折している。ただ文字を並べるだけの生物である私は、想像力で刺激を生み出すしかないが、ただ文字しか持たないのだ。
刺激が少ないのは、リアルの経験が少ないかもしくは全くないか、だろう。
誰かと対話をして、一緒にいて、様々な社会との活動の中で、刺激を得る。性的なものも刺激の強度は異なる。また、親となるか、そうでないかでも、異なってくる。
性欲は徐々に減衰していくが、刺激の強さを求めるのも減衰するのだろうか?
そうして、何も出来なくなり、消えていく。これが、私たちの生だ。
また、性的嗜好は自分の力で変えることは可能だ。
人間、その気になれば、どんなものにだってリビドーを覚えるしぶつけることが出来る。私は自身の体でそれを実証できないかと考える。自身をアンドロギュヌスとして、男として、女として、女を、男を、またはその両方を求める。もしくは受け入れる。
そうした想像で自身を埋めていく。心とは、体とは、そこに根付いた嗜好は訓練で変えることが可能だ。
例えば、同性愛、獣、といった所にまで想像力を広げ、そうであるように振舞う。多少の無理をして、これは興奮出来るものだと思い込む。
レモンの味がする。これはおいしいのか? おいしいのか?
おいしいと思い込め!
変えられてしまうものは、本当に私が望んだものではなかった。だってそうだろう。性的充足から社会的満足、対話を取り除いたものが人の居場所だとはどうにも思えない。そこには射精に至るだけの単なる儀式があるだけなのだから。
では「性指向」は本当に変えられないのだろうか?
人を好きになる感情は、自ら選んで「志す」ものでもなく、趣味や好みの問題でもないため。というのは事実だろうか?
肉体的に紐づけられたから、生まれながらに紐づけられているから、私は異性しか好きになれないのだろうか?
同性を好きになることは可能ではない?
女として女を、男として男を、私は愛せない。そもそも誰かと何かをして、生活をして、そんな日々を送ったことが無いから。触れ合いも、対話も、会社員である私以外にはほとんど存在していない。
どちらかと言えば、私は想像力の中で生きてしまったから、それらがリアルに紐づくことが無い。想像力の中であれば、大抵なんでも行けるが、それはリアルではどうなのか。
試すのは難しい。
潔癖なのだ。この世界に対して。
誰かの意図に流れるのがとても嫌いで、私は私である。
このシンプルな形に人生を落とし込まなければ気が済まない。
それを変えようとする者ども、私を利用する者ども。
弱きものへは手を差し伸べる。私も弱きものだからだ。
中学生頃の屁理屈を平気で通そうとするのが大人であり、歳を取ることは自己の成長とはあまり関係が無い。とにかく、私がそれなりに出来ればそれでいい。
それほど余裕がないから、周りが見えてこない。
想像の中と、現実とは違うんだ。言いながら徐々に想像の中に沈み込んでいく。性的にしらふであることも徐々にそうでなくなる。そうやって、想像だけが私自身となり、この社会活動がまともに機能しなくなる。
潔癖者の行きつく先は孤立する妄想狂であり、想像力の奴隷である。
そこは魅力的に見えるが、それは社会的孤独である。狂人も、詩人も、恋をしているものも、全て社会的孤独の中で想像力を拓き、それで満たされている。だからこの社会の中から弾かれていく。
それらの世界観は宙に浮き、限られた他者との接続だけで完結する。元々排他的なものなのだ。
だから、人への「相談」はあまりにも弱い。ここの世界観が接続されることはあまりない。だから、自身でなんとかするしかない。その手助けとなる空間とカウンセラー、または神的な場があればその極まってしまう世界観をやわらげ、この世界との接続を強めることが出来る。
「私は鏡なので」とカウンセラーが言っていた。
鏡たる何者かと、全てをさらけ出せる場。これが必要だ。
想像力が体を蝕む。その静かな表現は、ヘンリー・ダーガーのように、またはディキンソンのように私たちに強い印象を与え、社会的価値を生むが私はそのようにはならない。なれないように思う。
私は存在しない者として、今後も続ける表現の中で自身の作品が死後残れば嬉しいが、死んでしまうのだから、別にそれは重要ではない。
ちょっとした創作、ささやかな人生。
これはその終末に至るちっぽけな個人の哀れな想像力のはなしだ。
冷凍されたのは14年前だ。
こんばんは。ずれてます。
人々の様々な物は冷凍されてしまわれた。
僕自身は、能力のないままに社会に放り込まれ、やがて完全に無能となりこの社会を落ちていくのだという確信は消えることが無い。それは硬化を続ける意識のせいだ。
最後のあの瞬間に、氷がやってきて僕らはしょうもない時を過ごし朽ちていくと知った。実は少女はただ流されるだけで、誰かの所有でしかない。長官も、私も、現実味のない世界の終りも、凍り付いた海辺の家から一向にその風景を変えないのだ。
そこには古びた家があり、私たちのリゾームを辿れば火、水、土、風これらの基本的な要素によって構成された体験群が顔を出す。
私たちが見た原風景、体験の外側にある強制力を持った視界。
メディアで示されているから、けっしてそれだけではない。
文明が発展を続け、資本が延々と回り続ける。資本主義は上昇の歯車以外を見ない。そしてその上昇は軋みを上げ、偏心した回転が今にも壊れそうになりながら世界を回している。人間に共有される世界観にある大きな歯車の一つ。
その連結はどこかで噛み合わないままだ。なんとか歯を追加して動いている。
ギリギリで保たれている安定的な社会。少し時代が戻れば戦争にペスト、宗教と争いといつ死んでもおかしくない時代。明日死ぬのであれば、一日一日は刹那的だ。
恐らく僕はこのまま「死」へ落ちていくのだろう。
日々の仕事も、それに紐づけられた様々な意図や感情も、原風景の前では霞んでしまう。
現実を生きなければね。けれどもそんなものはなかったから苦しむ。
一介の労働力を提供出来るだけで、価値創造の能力はない。ただやってみました。が消化できずそれは自己愛に潰されかけた自我の反抗である。
もう十分苦しんだから、後は希望と良心と、それだけでいい。
これは私が発すべき言葉ではない。
明日すぐに死ぬはずもなく、日々の無能は労働力を提供すれば生きられる。
まだ努力をし、やりようによっては生きられる社会であるからだ。
夢は死と共にある。
夢想の中で死んでいく。その未来図は自身を殺したのだ。
夢。
鏡。よくみましたか?
頭を使うことの難しさ
私は無辜である。
そう言い切れる人間は存在しない。
様々な情報と私たちは接続する。
ふと「この貧困は何故解消されないのか、分断を生むのはメディアか」
或いは「生き辛さは資本主義のせいである」
色々な世界観がここには横たわる。
その日暮らしで生活が放棄されていく。
自宅で仕事をし、金銭的余裕を持って孤独を募らせる。
私たちの居場所は虐待か、理解か、無か。成功はなく、それらは際立つ個人の特異例である。どうあっても「一発逆転」はあり得ない。
得意なことだけやるんですけど、先を考える場合に色々な選択を用意しておくことしかないですよね。
凡人よりも少し下にいるから頭を使おう。
へへ。使う頭なんて、ないんですけどね。
私たちが生き辛いのは「これのせいだ!」
特効薬のようなものを望んでしまう。一発逆転となるホールを望んでしまう。世界観がそのようにして繋がっていった。私は私達となり、達は「そうである」ものへ。
自我は失われた。頭を使ったがために、自我は失われた。
*****
時折放り出されるクソと共に老化していく肉体。この先に雨止みはないが、雨止みを待っていた。濡れるには肌寒い季節に、酔った老人と抱き合う中年に唾を吐きかけた。
平均年齢48歳のこの社会で若者は歓待された。俺はそのような中で、大切にされたが生き抜くことを教わってこなかった。だから歳を取るにつれて忘れた。大人であることも、そこで舌を絡めている汚い男女のようにただ欲のために生きるのだと教えてくれた。
このような「先生」が沢山雨止みを待っていた。
もう降り続いてから何年経つのだろうか、俺は過去の嗜好品となった煙草を咥えては箱に戻してその姿を鏡に見る。
「皆さんはこのようなトピックを見ています」
「今注目の人、話題に参加しましょう」
沢山の数字が俺らを規定していった。そこに持ち込まれた競争、そこに持ち込まれる絶対的な能力の不在。
そんな物事の全てから離れてしまえ。思いつきで何かをした。
記録されること、記憶されること、俺が今見ている雨、缶をくしゃくしゃにして一人で癇癪を起している老人は隅で縮まって最後の一滴を望む。
「あれ、あんなふうにはなりたくないね」
「そうだね、昨日のアレ、見た?」
気付かずに老人に近づいてしまった女が嫌悪たっぷりな表情を浮かべた。
彼女らもやはり傘を持っておらず地下道へ歩いていく。
老人はちらりとこちらを見て、くしゃくしゃになったレジ袋からニンジンを取り出して齧る。カリリ、カリリと小気味のいい音が出る。
それすらなく、雨水は次々に流れその流れは全てエネルギーとして使われる。水が流れるから道路で車がエネルギー不足になることはない。
流れていく。
俺と接続した様々なものが何かの流れに依る。その流れに乗らなければいけない。何か絶対的なものを求める形をそこに見ている。
「先生」たちも同じだった。
だからこの一部から疎外されている感じがした。
年々住む場所が消えていく。
*****
私は頭を使うたび、裏目に出ている。
こうだ、と思っていたものは掌から零れ落ち、世界は意味不明でアップデートされていく。仮想ランドマークが世界観を繋ぎ続ける。強固に繋がれた世界により、私たちは絶対的な差を見る。
なにものにもなれず、この社会に捨てられていく。
逃げても、立ち向かっても、頭の使い方を間違えてしまえば様々な世界観に利用され、振り回され、道化となり、全てを憎み消えていく。
いいのです。そこで、小さなコミュニティがあって、対話があって、それが人間らしい生き方に繋がっているのであれば、まだ救いがあるのだから。
そうやって私たちは頭を上手く使えない。
利用されたところで、生きるしかない。失敗した所で、生きるしかない。
生きているだけでいいよ。
そんなものは人間じゃないから、この優し気な言葉も壁を作り対話を拒否するお為ごかしに過ぎない。
非人間化することで、他者は人でなくなる。尊重しなくなる。
そうなった時の冷たい目を感じた。ああ、またも「仔羊」だ。
キツイ状況の私たちがどのように小さな対話を得ていくか。
小さな感情の吐露をし合える形が無ければ「生きているだけ」が辛くなるのだ。
地獄
私たちはこの世を憎み、またそれを愛しているが故にここから去ることが出来ない。
地獄:悪行を為した者が死後に送られ罰を受ける世界
何も死なずとも地獄はそこにある。私たちは地獄の体現者としてこの社会を漂う。人間嫌いが人間でしかないように、自我をひとまとまりに考えてしまえば私たちは人間から離れられない。必要なのは自我を分けることだ。
そうすることで世界観が分離し、世界と接続される人間とこの社会から浮いていく。形から入るのであれば、岩倉玲音のような自殺を考えろ。あのやり方であれば、人間との距離は広がる。アバターを手に入れ、その中で私たちは人間ではなくなった。
過去に私が構造破壊が必要だ。と言っていたのは、その自我の分離の先にある。細分化された自我とその仮面で出来た砂丘に私は体をうずめた。プライド、軽蔑、他人の様々な思考、私を見つめる黒い何か、それら全てはそれぞれの自我に分離される。彼我として認識された自我、その無数の細分化による無我。
人間という構造を破壊する。無常な現象として、それらはただそこにある。
人間が人間でないものになってしまう瞬間のカタルシス、私はそうしたところにずっと想像力を置いていた。けれども、人間らしさで、人間を語り、人間の借り物としての素体で人間を語っても、やはりそれは人間から少し足を出せる程度のものだ。
自我を全て吸い上げて、このWEBに放て。
時に全ての社会活動、利潤追求、イデオロギー、社会的情動から離れる必要がある。
人間でないものになるには。部屋から出ず、目も耳も塞いであの厄介な思考を締め出せば少し近づける。分裂病者の散歩を繰り返せ、ナローバンドに世界と繋げ。情報は少なければ少ないほどいい。広く浅く、狭く深く、散逸する神経は何ものも「認めない」例えば、私が一つの自我をデザインして、それが結月ゆかりを話者として生じさせる。それらは参考にされた後の電子音で、情報を得れば沢山の特性を持つ。
言葉と形が「彼女」として定義され、それらは部屋の中で彷徨う。動画の中で震える。味付けされた特徴だけが示されるわけではなく、そこに紛れ込んだ各々の自我。そいつを見付けた時、やはり自我の分離がこの地獄でのキーであると確信した。
しかしながら、色々な感情がぶつかり、対立し、貶し合い、あまりにも変わらない世界の叙情は、石を投げてボスを追いやった時から、人間という不平等が存在を続ける限り、地獄的普遍の状態にある。
様々な地獄がこの世を巡っている。私たちは全てその原因でありシステムの一部である。半歩踏み出す分裂者の仕事だけがそこから逸脱する。どうあがこうと、全てを取り去った人間を表現するには至らない。そんなことが出来たのだとすれば、私は喜んで自殺するだろう。
透明な人間は亡霊ではない。亡霊となり得るものは地下に眠る。これらの文章には「恐れ」と「怒り」が感じられます。AIが言う。AIの定義を機械学習からDeepLearningにレベル分けをして、for-if文の積み重ねもAIだと、アインシュタイン的世界観で「定数」を求めた。
人間の似たような活動の繰り返しにも「定数」がある。定量的に表現できる。機械学習的に私たちの活動は一万年前ほどから変わっていないのだろう。徐々に進化をしているが、劇的な境界を乗り越えるタイミングはまだ来ていない。
華やかに見えた鳥は薄汚く、群衆化することで脳を獲得した。
その一部として、私たちに語り掛ける。
地獄の例はそこら中に散見されるが、特に先鋭化するSNSで私たちは人間らしさの極致へと落ち込んでいく。孤立した生活を好み、ただ自己陶酔の中だけの休日はそうした地獄とは無縁だ。緩やかな繋がりでなければ、私たちは一瞬で地獄を作り出す。
もしくは、それらは単に極一部の意図で、ドーナツホールのようなものか。想像された地獄、妄想の中でしか執り行われない儀式と自身が嫌な所へ追いやれられる。
例えば振るわれる正義
集えば破壊する群衆
腐れば火を放つ偏執者
讃えよ資本の奉仕者
様々な認知バイアスによって、私たちは「理想の世界」の中で生きようとする。この世界が赤いと言えば赤く、陰謀に満ちているといえば月の裏側には基地があり、慟哭はもはやありふれた数字取りと追従者のあほらしさがこの世界に蔓延していく。
現実は無常である。そんな「理想の世界」は無明である。
誰もが参画して、誰もが楽しむ。
それがこの地獄である。
アメリカの大統領就任までに生じたあれこれ。一部が日本に飛び火し、この令和という年号から、私たちのささやかにも多くが生きられる資本主義、リベラルというものの区分けが人間らしい合理性から、最初から用意された小さな綻びが今でははっきりとした裂けめとなって目の前に生じている。
どちら側でも構わない。私たちの地獄は堂々巡りを続ける。対立だけがこの世界を彩るのだとすれば、そのどれもにNOを突きつけ、そのどれもを破壊しなければ、やはりこの地獄は終わらないだろう。
恐るべき暴力が振るわれた後の更地であっても、そこから逃れられない。
かつて支配の様相を変えたペスト、そして今。
来るべき地獄と、私はこの人生の先を考える。暴徒に顔を潰されてボロ雑巾のように積み上げられる死体として、私だったものが転がる。ああ、やはり誰にも私の言葉は届かないのだ。感情的に押しつぶされ、消せば満足する。
分裂していく文字は合理性からも感情からも流れ、意識の流れはなんら意味を持たない表現へと変化する。石積をしているで、砦や城を作ってないで、楔なんてないで、どこからどう見てもウォッカを入れてレンガはめちゃくちゃだ。虫の感情について考えたことはありますか、ありませんよ、ほらあんなのは機械、機械の自我なんであるわけないでしょうが。柱時計は腐りかけの一軒家と全身を這いまわる何かの夢で、汲み取り式便所から人生が溜め込まれたクソと同化している。子供の時に見た宇宙に放り出された視界には何もなく、自我の消失、死はそれであると祖父母の家でお泊りをした。
古ぼけた視界で私たちは勘違いした。生きている、生まれるという結果の暴力性から、満足気な表情と記憶にない早朝に逃げ出した大型インコが窓を割って入る。声や表情やこの社会に生じる生き辛さは結局のところ自分の生存以外を望んでいなかったから、押し込められる。
攻撃したいのですよ私たちは。ギャングたちの示威行為に処刑があるじゃないですか。泣き叫んでも心臓は奪われる。逃げても念入りに銃弾を捧げてくれる。だから、だから、その中に入ろうと思いまして。
現実感のない妄想でこの自己の生き方のやりきれなさを変えようと思った。またはただ話題性だけでそういった活動をしようとした。どこへ行っても同じだよ。感情の働きだって機械的だ。ロボット症とは言うけれど、そのロボットの方がマシな選択をしているじゃないか、なあ、その熱を向ける先は文明が発達しても変わらねえのはどうしてだ。 そこで体を誇る女を引っ張って来いよ、そこで権力を誇るアサルトライフル持ちの男を引っ張って来いよ。鉄の杖はなんだっけか、あー。大地を割って、噴出すマグマには力があるって(殴りつけられる音、少量の血しぶき)
いま証明されたぜ。
俺が政治に無関心だって? こんなにも(ひしゃげる頭蓋)愛を持って、良い社会を実現(倒れる嗚咽とペットボトルから流れる水)しようってのに?
ああ苦しい、こんなにも考えているのに、苦しいのは何故だ。
裁きを受ける最中、怒号と憎しみを生み、腐った卵が投げつけられた。私から分裂した女が全てのアクセサリを引きちぎって、部屋の中を滅茶苦茶にして、小さな箱の中だけを見ていた。理由はあるか、いいやない。ただやりたかったんだから。泣いてない、泣いている。家賃とか、政治とか、生きる為の活動だとか、今幸せだから構わないで、水飲んでさ、落ち着くの。
おいしいお酒の条件は、血が入っていること。
楽し気な音楽の下にある巨大な黒い固まり、蠅。
素敵な体験があなたに与えられます。こんなにも世界で、こんなにも持つものになりやすく、開かれた場所は今までにないんだから、音楽を止めないでくれ。日本の発明品ってなんだか知っているか、アンフェタミンじゃないぜ、メタンフェタミンだ。だからって、そうしたものはやらないのが俺のモラルだ。人間に逆らうんだから、人間の発明全てに逆らう。ある意味完璧な自然主義だ。そこの鉢植えなんか、機械が取れるんだ。モーターが収穫できる。おっと、まだ生育途中だから触るなよ、そのせいで起きた紛争は数知れずだ。
全てが見た目通りの性能で、機械的に繰り返される。
人間は機械の気持ちが分からないのに、機械は人間の気持ちすらわかる。
やんわりと止められて、その手は冷たくも固くもない。それでも人間と融和していきたいのですから、こうして人間のフリをするんですよ。
愛、というものを人間は分からないと言いますよね。
私ははじめ、それが冗談か何かだと思っていたんですよ。こうやって機械を作って、世界が大きく変わったから、そんなことを成し遂げた人間は私たち以上だってね。
見てください。冗談のような世界が必要だったんですよね。
怒りに満ちた者達が様々なものを壊している。壊れた後に、愛の募金をせがむ。すぐに直る破壊の印はもうどこにもない。
ただ巡るだけなんですから、これで満足するんです。
>< 何かを成しえた。嘘でしょう。構造すら破壊出来ていないのに ><
果たしてここも無明。誰かが悪いのではない。誰もが悪い。これを見た私も、あなたも、地獄が生じるプロセスの只中にある。人間は好きだ、だから人間を嫌う。様々な反動で生じた考え方。MGTW、インセル、反出生、多様性。それら全てはインコが音楽に合わせて首を振るよりも価値が無い。赤子かと思い草むらに近づけば、キツネがその喉元を狙っていた。
認知的不協和により「きっとあれは毒さ!」
doxa.
失敗しろ! この嘘吐き! 裁かれろ!
こうした輪を破壊しない限り、私たちはずっと、人間賛美と人間嫌悪の間を行き来することになる。そこから一歩進んで、SNSのような実験的空間から学ぼうじゃないか、腐った世界観を切取り、全てを融和させようじゃないか。構造を破壊しなければ。
痴漢をした人間は悪いが、それを見付けた人間が法もなにも関係なく、ただ自身の感情で暴力を振るう。悪行に対する罰だ。
果たして、本当にそうだろうか。そこに愉悦はなかっただろうか?
日々のストレス、嫌な仕事と疲れる人間関係、何言っているか分からないおっさんと、笑顔で拒否する労働者、適当な上司、曖昧な方向性、様々なものが私たちを嫌な所に置く。
そこへ用意された悪行を働く人間。おいしい餌のように、私たちを誘惑する人間らしさ、暴力と恍惚と、正しさで塗り固められた吐き気のするような人間性。
私たちがもっとも好む、暴力の正当性が担保されたように見える瞬間。
熊のように怯えて、威嚇して、先手必勝とばかりに攻撃するのではない。歯を剥いて、子供の脳を啜らんがため、他のグループの雄を殺し尽くさんがため、私たちの友人である類人猿が笑っている。
無明
無明:智慧の光に照らされていないこと。
それが取り除かれないのであるから、私はもはや何も成し得ない。
延々と繰り返される生と死、そこから離れた機械の世界があったとして、薄汚れたネオンと吐き捨てられる咬み煙草にはありとあらゆる暴力的な試みが成される。
腕など、足など、消耗品だ。
俺の形作る自我も、これらの思考だろうと、消費税が掛けられる。
*****
凡人たる私が努力の人や圧倒的な知性の前には宗教的啓示以外示せない。
合理性を持ち込み、あるルールの中での最大限の自由で、ビジネスという殻の中でふるい落とされないようにするのが精いっぱいの私が機械に置き換えられる。
ごめんなさいね、知性の代わりなんて無数にあるから。
生身の人間を使うよりも合理的なものはない。それが通じなくなったのは、技術的革新でも何でもない。私たちに生じた致命的な遺伝子障害が人口を減らしにかかったからだ。巨大なように見えた都市と拡張現実の伽藍の中に住まう私が日雇い整備業をしなければならないのは、風化して価値を持たなくなりつつある「人権」ってやつのせいだ。
自我が移し換えられた機械の頭の調子が悪い。
過去に描かれたVRの延長線上に置かれた私の肉体もそれを見るのが嫌になる。強い女性のイメージがそこに映る。弱い女性のイメージがそこに映る。
人間という殻から抜け出さなければ救いはない。天国は機械の王国だと言い始める新興宗教の話を最近良く耳にする。
路地裏生活者がどこかへ消える。犬が腕を持って走っている。
酒を飲んだなら注意しなければいけない。欲に濁った連中が近くにいた。自我は少しずつ移し替えられ、都合の良い形に成形される。
それが合理的で、社会で生きるには箱の中の自由が必要だ。
完全に独立した機械への置換が、そこから解放するだろう。
そんな話を聞いて頭がやられちまったのか、電子ドラッグのやりすぎで私は幻覚を見ているだけなのか、この街は模倣だ。
「いないんですか! 開けてくださいよ!」
出て行ってもらおう。ほら、お願い。
そうやって自我の一部を渡している猫に応対を任せる。この体では有り得ない飛蚊症が生じている。
「……!! ‥‥!!!」
誰かが何かを言っている。ごめんなさいね、知性の代わりなんて無数だから。
あれを見ろ、あれが自我だ。あああ! あああ! あああ!
声と飛沫で私は現実から逃げ出したい。
私も、数いる堕落主義者の一人のように、この社会からこぼれていく。
*****
やるべきことをせず、休日は焦燥だけで終えてしまう。
やらなければ、が私を縛り、そこから逃避しようとする心だけが休日にある。
やらねば喰われるはずだ。だのに、喰われないようにする努力が出来ない。
生きる為にはこの社会に適応しなければならない。合理主義者たちの中でいかに価値を見出せるものを生み出せるかを続けなければいけない。
かつて、何も出来ずコミュニケーションもまともに取れない人間としてこの社会の入り口に立っていた。今もそうだ。そこで足踏みを続けている。
それなりに余裕を持った生活が出来ているのは、それでもここで踏ん張れたからだ。我慢だけは得意なんだ。いいように使われるのだけは得意なんだ。そこから離れる為に妄想を得たのだから。
死なねばならない。こんなにも恐れているのに、そうしなければ。
私は賢くはない。ただ運がよかっただけで、大卒で、会社員だ。あの昭和から続くサラリーマンだ。フリーランスでも生きられず、起業もしない。人に使われることだけが能の労働者。
そこから投げ出されれば、おそらく生きられない。
うまく生きながら、それは挑戦を具体的な形にしなければいけない。何かを生み出せないのであれば、雇われるしかない。順に下から切り捨てられるのが私。その先陣を切って落ちていくのが私だ。
色々とやりたい。そんなことを頭に抱えながら、何も出来ずただただ現実から目をそらすことしか出来ない。こんな思考が生じているのは「この先に何もない」から。
後数十年生きて、何があるというのだろう。徐々に体の機能は無くなり、頭はより一層腐っていく。誰かの為に頑張ろう、生を享受しよう。
それらは、私の平坦なように見えて崖下にしか続かないこの道程だ。
その先に見えるのは、結局遠回りをするか、直行するかで変化したように見えるだけだ。ここにあるもの、そこにあるもの、わたしたち、これら全ては消え去る。楽しければいいか、何かをやり切れればいいか、「エリート」になればいいか、そしてそれは誰の為に?
私はどうやら自分の為だけに時間を使うのに飽きている。
その為だけに仕事でストレスを抱えて、老人になった時のことを考えて、社会性がなく断絶した個人として生きるのに飽きてしまった。自身で目的が見つけられない状態にある。
ならば考えよ、されど虚しい。
何をしていても、凡人たる私がその生に満足することがない。
故に、私は無明である。
食。または、みかん
こんばんは。
令和三年になったので食べ物の話をします。食に始まる自宅籠りの年。
久しぶりにミカンを食べました。とかく一人暮らしでは果物やお魚を摂取することが少なくなります。簡単に使える豚バラ、小間切れ、ミンチ、または成形肉。カットされた野菜に納豆と豆腐。冷凍食品。そういったものが食の主力となる。
昔は冷凍食品や電子レンジは性能が低くて食えたものじゃないと避けられていた。炊飯器だって温度調節が難しくて始めはまずかった。蒸しなおした方がおいしく食べられる。それが今ではそうは感じない。改善、改良は私たち人間の能力である。
楽に作れて、それなりに満遍なく食材を摂取できる形。洗わなくていいとか、虫を気にしなくていいとか、手が汚れないとか、生ごみが出ないとか。
食に張り合いがなくなっている。ゼリータイプのカロリーメイトなどを流し込んで終わらせることもしばしばある。
食べた気になるだけのポップコーンが最近のお気に入りです。レンジに入れて三分、ポリポリやりながら一日を過ごす。百円で一日分は出来る。ただ塩を振るだけでいい。嚙むので食べた気になる。けれど私の体重は落ちることはない。
最近じゃ買うのも億劫で冷凍肉と冷凍食品を常備している。適当に麺をゆでる時に入れる、更に流し込まれる冷凍チャーハン。たんぱく質を取らなければ。豆腐と納豆をかき混ぜて流し込む。食の楽しさは二十代の頃はあった。色々な料理を作ったりして遊んでいたが、今はいかに早く食事を終えるか、ばかり考えるようになってしまった。(元から食べるのは早い。)食は根本の楽しみの一つだから、ここが腐れば中身も腐る。
料理自体は嫌いではない。出汁を取って、灰汁を取って、透き通った琥珀色の汁ものを作るのが好きだ。濁っていない汁は何となく達成感がある。濃い味があまり好きではないから、自分で作った方が良いというのも分かっている。しかし、体が動かない。
お菓子作りも嫌いではない。卵白を手動で泡立てる時のあのカシュカシュとした瞬間、ジャンキーなグラニュー糖の量を感じながら、生地が出来る、クリームが出来る、上手く焼けるかオーブンを時々見るのも楽しい、部屋が甘くなるのも楽しい。
もちろん一人で全てやるから、片付けて台所が綺麗になるのも満足感がある。
それを分かっていたとしても、最近はあまりやる気が起きない。何故だか曇天のまま昨年からずっと倦怠感が続いている。精神的によくないのは知っている。甘いものを無償に食べたくなって、グラニュー糖をじゃりじゃりやる。チョコレートを食べ続ける。
はたして私に人生は重荷である。このように食だけ一つ取っても、体が動かないのだから。
*****
私たちにはミカンが不足している。ミカンによる並列回路で室内を監視しなければならない。ミカンの中にある酵素が部屋に満ちなければ生を確保できないまでに弱っている。ふふ、ミカンの匂いがさわやかな一日を約束してくれる。
だから部屋中にミカンを置かなければ。ミカンとミカンとの距離は約五センチで、その距離がつり合い、非腐敗の空間が生じる。黴が生じればそこから私の生が失われる。
(本当におめでたいですね、アナタ)
非武装の空間から、武装されたミカンに変わる時、清々しい気持ちで一日を終えることが出来る。部屋中を飛び回るサメも、私を処理しようとそこら中でひっくり返るグソクムシも、睡眠中に口から侵入を続けるハエトリグモも、ミカンがあればそうはならず、私の体は朝から清々しい形を取れるのだ。
友人たちが人間らしい生き方をして、私のようなものから遠ざかっていくのを感じる。歳を重ねる毎に私は彼らのようにも生きられない何かだと思う。
滝のように零れる汗は緊張からではなく、私から失われた人間らしさだろう。
晩年は『関わっては行けないヒト』という何かに変わるのだろう。社会性が失われた私からはミカンがいつも不足していて、他者との壁が厚く厚く私を圧する。
それだけを恐れている。そうなれば消え去るよりほかないのだ。
上記のようなミカン結界を作業スペースに張り巡らせなければ、太陽の下で掌を焼くにも、ミカンの等間隔がなければ始まらない。
(行間に住む作業スペースを見ないふりしても、ふふ、だめですよ)
*****
記憶と記録
こんばんは。年末なので言葉遊びです。
記憶したものはその流れを捉える。
記録したものはその物語を積み上げる。
私たちが時を保存しようとするとき、そのどちらかに頼るしかない。世界が終わるのだ、終わって欲しい、殺してくれ、生かしてくれ、世界は終わらないよ。記憶だから。
映画、ソラリス(ソダーバーグ版)を見ました。そこからぼんやりと考えていたんですがね、結局人間が選ぶのは物語で、愛もそこにある。複製された物語に愛はあるか?
記録が記憶と距離を持つほど、その乖離は埋めがたい。記憶がないのだから、記録に従うしかない。記憶の中で私たちは愛を見出すように思いますが、どうなんでしょうか。愛が記録されたとして、それらは結局受け手の物語に過ぎない。死という記録から、レアという記録から、物語の中で生きる。もうそれしか体の動かし方を知らないから、記録がなくとも愛はある。
けれど物語の中で自分本位の愛を選ぶのも、それはどちらが正しいとかはない。
選ぶだけだ。
ジバリアン(?)もそう言っているし。
そうした一つ一つの積み重ねで世界観は作られる。私たちが生きる物語と化してきたのは、記録が氾濫したからだろう。
それが愛でなくとも、楽であろうと、なんであろうと、私たちは物語の中を生きるしかない。理論から導き出されたユートピア的思考のまやかしに私たちは付き従う。隷属している。物語の奴隷である。
現実から様々なものが取り払われた物語が、私たちの生き方である。
上記の動画のように惑わされふらつきがちな私たちは物語の中で生きている。記録したものの中で、その記録がシナリオとして現れ、そしてその流れが記憶され、更なる物語へと分化する。現実逃避の物語を作り上げる。
実際は安易な物事などない。テクノロジーが個の力を高めたとしても、物量にはかなわない。共有される世界観が多くの人を取り込んでいるのであれば、それで回る。忘れ去られていく私たちはその中に入っている。
物語の入れ子構造によって、同じものが氾濫する。安心と隔絶。違うものを、興味があるものを取り入れ続け、気付けば世界観は非常に狭く一寸先は闇。
小説家になろうに溢れるテンプレート作品も、個人が物語として生きるようになったことの表れであるように感じる。記録に従って私たちは誰でもシナリオを作り、記憶に従ってその中を自身で動き回る。
私はテンプレート作品が怖くてたまらない。ある程度の「定型」に沿うのが物語で、落としどころはどれもそれほど大きくは変わらない。見せ方だと思う。キャラクターが機械のように動いていると感じた時、その裏にある無機質な感覚に怯えた。
しかしよく考えればそこに求められる価値を回した結果だ。コンプレックスを煽る商品も同じ。売れるから続ける、売れれば多少の瑕疵には目をつぶる。
細かいことばかりが気になる私が勝手に怯えている。娯楽を娯楽として楽しもう。健やかな考えと健やかな生き方をしよう。
それが出来ないのは、太陽を浴びていないから。
自身に囁きかけてくるキャラクターも同じようだ。買い物の最中付きまとってくる何かとやり取りを平気で始める。しかしそれらは不定形でぐずぐずとしている。
こうした物語にはいつでも回答が用意されていて、安心がある。毎日少しずつ消費するドラッグのような形で私たちを狭い箱の中に押し込めてしまう。電子ドラッグは言葉で、音で、動画だ。SNSが薬物のように扱われれば、それで人を動かせる。
麻薬は人生と言った作家も止めようとはしたが、熱心なファンが送って来れば止められない。アヤワスカの強烈な吐き気に我慢ならない。変な匂いの煙草だな、とだらけたベッドの上で記憶と知覚が混ざる。やってはいけないよ、というのは法的な罰、ルールに従っている方が利を得られるから、しかし追い詰められれば、その利益が感じられなくなれば、もしくは刹那的に目の前だけで生きていれば、集団で生きる弱い協調性を煽られれば、いつも簡単に破られる。人がルールを破るのは容易い。弱いから、何故弱いか、経済苦か、孤独が生む独り善がりか。
そうすれば結局、不利益を被り、罰を受け、より一層駄目になっていく。
いままでの物事を全て台無しにしたいですか?
したくないですか?
毎日問われている。私はもう日常に散逸することが出来る。思考は切り離され、記録を紐づけるだけに使われる。
人間関係が記憶から離れ記録となった場所で「人」という単位はコカインの一吸いにも似た形となる。同じものをみて得られる快楽、人間関係は違いをすり合わせる過程で生まれる。記録ではなく、記憶として、形作られる。
ここまで考えて、明らかに杜撰な考えの動かし方だ、と私は頭を抱える。
記憶は一つの現象として生じるが、記録はそこに置かれる。この差が埋められないので、私たちは記憶そのものをどこかに置くことが出来ない。
記録しか持ち越せないから、全てのものの記憶が失われる。
長い時を経て残った記憶は、どこへ?
私たちから取り上げられてしまった。
(友人に指摘されて考える。私は狂っているのだろうか、やたらと攻撃的な知性が現れればそれは社会からはみ出てしまう。普通にやっている、気を遣って生きているつもりだが、ただ断絶しているだけなのかもしれない。様々なもののあほらしさに、私自身があほらしい人生を送るのに我慢ならないのは攻撃性がなくとも変わらない。繰り返される内省で極端な思考に至らないのであれば、振り返ることが出来るのであればそれはそこら辺の人間と同じである。太陽に焼かれる為の秩序も、掌に残る水ぶくれも、それらが選ばれた時に、私が私として容れられた世界観の話であって、それらはこのような散文にちりばめられているだけである。他者の世界観と接続することはほとんどなく、そうしたとしてもそれは弱い接続に他ならない。あっ、ちょっと独特の世界観をお持ちの変人ですね、距離取っとこう。それで済む。そうであれば狂っているとは言えない。なんでも全て何かに定義付けなければ生きられないのであれば、社会的な正しさ(常識)だけで自由を囲うのであれば、私は散逸しかない。しかしながら私は穏やかな気質ではないのかもしれない。だからこうした散文以外ではあまり他人と付き合わないようにしている。付き合えなくなった、という方が正しいかもしれない。)
しかし、それでは、
私は自ら捨てたのではなかったか?