Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

Cut out

消え去る前の小話

 私たちに逃げ場はなくなった。

 全ての活動が馬鹿馬鹿しいポジショントークと我利我利の攻撃性に終始していくのだ。ただただ感情的に、センセーショナルに、クソまみれの二者択一が世界に浸透していく。

 全て切り取れば、糞便性の追求者としてこの社会が変化する。

 これらは人間の限界なのだろう。最早、聞く耳を持たない。

 SNSもメディアも、それらで騒がれていることが全てまやかしで、妄言で、糞便性の体現として「糞を愛する人間」の図式に終始する。

 過去、現在、未来。それら全てに事実は存在したことはなかった。

 このブログで語られる言葉この文字の羅列は全てフィクションであり、誰かを攻撃する意図はなく、ただ私達の経済活動の無意味さをここで生きる中で切り貼りしているだけだ。

 全てのものはあなた自身の「世界観」であり、接続される存在としてこの場(社会)を表現している。全ての人類はこの世界そのものに生きてはいないのだから。

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 ただ一人の自涜から終生、ただ一人の散歩から追憶、夢に縛られて仕事を辞めて首輪を掛けて消えた。今日はお肉を食べますから、その部位が答えられなかったら嗤いモノにしますからね。それを経験してスマホ依存と向き合い、この社会との関り方を知れてよかったです。もっと自分の意見、生の感情というものに焦点を当てて生活したいです。友達とも、しっかり目の前に存在しているってことを分かって、付き合っていければと思う。だから間違ったやせ薬で体を壊した。それは糖尿病治療の薬で、ただ体重だけが減って満足しました。その体は不健康な餓鬼であり、丁寧に生きていられない私達の怨嗟だ。それは、つまるところ永久に人間は同じ器官であり、この身に生じた暴力と怒りは僕の内奥で自我を壊した。不釣り合いな世界との接続は多数に共有されている。このどん詰まりの薬中どもの坩堝の中で小さな希望にすがり死んでいくそれもまた中毒者の経済活動であって、それは利用されてるのを分かりながらもやめられずにいるこの生の愚鈍さによるものなのだろう。助けてくれよお、駄目だから社会を攻撃して死刑にしてくださいとか言ってみせようか。どうにかどうにか生きたいのですが、それは皿に載った魚がまだ生きていて沢山の香辛料の中で死んでいくって感覚とその食感と味で首振って喜ぶから、セルフネグレクトしたペットたちの墓を建ててその不理解に苦しんで活動するNPO団体です。

 私達の糞はどこにでも存在する。ただその存在だけが私達です。それはそれとしてやっていくしかないのですから、どんなにクソでも、この社会と人生と生命の輝きは巡り続けるので、この体で廊下を走らないで、もう老化しているんだから転べば命はないぞと、毎日死ぬ人を思ってはまだ死んでいない喒とまだ存在しない俺とが、この先はポジティブ幻想で、まだ怒り、否定、取引、抑鬱、受容のプロセスを進めていないから、ずっと怒りだけでわだかまる。刃物、火、弱者。弱いものが更に弱いもの叩き、この世界は何たる地獄と天国の狭間で、資本主義者たちが上下を分け続ける。何もかもを持つものと、何もかもを持たないものに別れて、前者は努力した結果だとその背景を無視しながら傲慢な人生を生き、後者は努力した結果だとその現状に麻痺しながら暴力を発露する機会をうかがうだけの人生を生きて、生きて、生きて、私達はその泡のような生をずっと続けている。この全ての流れに「価値」や「意味あるものごと」といったものはまず存在していない。

 続けられているのは、愛の灯火を摩耗した肉体の中で不完全燃焼させることだけ。

 この哀れな言葉の連なりには死の意識を振り分けること以外無く、ただ摩耗するこの体と共に、やはり世界は或る少ない方向性だけを向いて、これらの無為なる生を続けさせようとしている。

 私達が理解できるのはあくまでも「世界観」であって「この世界」そのものではないから、少ない方向性だけで世界と「接続」を繰り返せば、それは絶滅と抹消のプロセスの最中に他ならない。災厄は人の手自らで執り行われ、その厳かな者たちが結局のところ、知的好奇心だけを満たし、この世界を「或る世界観」として規定し続けることで、同性愛者の奈落的な性欲と世界は不釣り合いであるという指向の中で亜硝酸エステル類とMETHとで浮沈を繰り返している。その青年の走らせる手と、私の醜い何者かの知性とが宿らぬ体だけが励起していた。ピザを頼んで、届かないから、犬と散歩に行きました、糞便はそのままにしてうだうだと中年女性に絡まれて、糞をそのまま半分喰って、残りをその女性の口の中に捻じ込んでやった。叫ぶ。花火に喜んで飛んでいくとそれは全て終わっていて、終わった場所で花火中継をワンセグで見ている男が二人いた。だから私はランニング中の汗で張り付いたシャツと共になぜか不快感を抱いてしまって、掃除機の鳴る音が土日の合図で、いつも朝起きるのが遅いからって同居人は足をつねってくる。痛い。止めろって、星になれないだろ、誰もがニセモノだって馬鹿にするから、喉を焼き、体を裂き、天へ、天へと私は叫び星になろうと空に告げてもの彼らはつまらなそうに無視ばかり。

 星になれたなら、ここではなくてずうっと光ってられるんだけどなあ。

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 結果は轢死でした。

 人生は逃避と酩酊で彩られてきた。

 明日死ぬかもしれない。それほど生きることが難しかったから。

 しかし今は、明日死ぬかもしれない。という事象はこの国ではあまり起きない。

 人と向き合わず一人で幾日も過ごすことだって可能だ。協力しなければ生き抜けない。そんな形が変化して、誰もが一人で満足し続ける。

 これもその果て。私というものの限界である。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火