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人間という現象は世界を薄膜のような世界観でしか理解することは
体内の殺菌にメタノールを飲み干す。エタノールにメタノールを混
個人の知性などそんなものである。思い込みと経験という言い訳に
それではいけない。どうにかしてそいつになれないか、得意なもの
しかし、どう考えてもそこには圧倒的な差が存在し、そうなる為の
それならもう生きていなくていいじゃないか。考えずに楽しみだけ
私を焼き焦がしてしまうべく薄膜を漂い、太陽は天啓として、啓示
世界を焼いてしまおう。どんな風に生きたい? どんな風にも生きたくない。孤独以外になく、それは他者から見れ
生きることは焼かれることである。害のない人間を見て、私はそれ
あのいじけた精神は私を人殺しへ導こうとする。生きていればいつ
日本人は自尊感情が三十年下がり続けているという。
三十年下がり続けるというならば、私はその最底辺に存在する。私自身は基本的によい人間ではなく、好ましくなく、価値のない存在だと感じている。自己肯定感は負側に寄りすぎている。 他人から排除されやしないだろうか。という考え方。人間関係が上手くいかないから、自尊感情を感じられない。だから自身の世界観は薄膜ではなくソリッドに表現されていると信じる。
私は自尊感情が負側にある。こんな糞を早く殺せ、殺すことも出来ない社会なら、私は生きていてもいい。マジョリティが、人生を送って来た人間達が、私は自分のことしか考えていないと指摘する時、私は人間関係が上手くいっていないと感じる。そもそも排除されているようなものなのだから、それは一瞬だけ自殺感情を呼び起こすが、私は既に他者からは価値のない人間だと思っている。だから私は私自身で私の価値を決める。私が私を決めている。他人の感情を詰まらせないような対話しか出来ないのだから、人間関係が上手くいくはずなどないのだ。麻薬をやって、脳を壊してしまいたい。一生ものだから、止めましょうと依存症だった人が講演をしていた。もう既にこの社会から排除されているような私であれば、麻薬をやったっていいだろう。この国の規範にはふさわしくない。私個人はこの人生の辛さに耐えかねている。こうした辛さを忘れる為にアルコールがあるのだろうが、私にはただ苦しいだけだ。
混ぜ物が入った不純な女神を体内に入れてしまいたい。それが無ければ苦しいだけの人生。しかし、それと今の私の現状と何が違うというのだ。ただただ頭が痛み、日々の楽しみはなく呆然とYoutubeを垂れ流し、寝たいのに眠れずに起きる2時までの辛さがある。仕事をしていても、家で休もうとしていても、何をしていても辛さが付きまとう。お願いだから私を焼いてくれ、もうこんな場所にいても仕方がない。
最近じゃ何をするにも倦怠感が付いて回る。元気な日など一日もない。ただただ引きずって歩くだけの人生である。日々である。
私の世界観だけが浮いている。熱に浮かされたように、他人では考えられないような失敗を積み重ね、それらが体系化されずにそれだけの形で対処する。類推など出来ない。頭を使えなくなりつつある。知性がなくなりつつある。知性など最早ないが、このような惨めな人生に何があるというのだろう。
消えてしまいたい。もう涙は止まらないから、脳が焼かれている。
そうやって焦げ尽くして、焼き尽くして、私というものを消す。
私から熱意は消え、いじけた精神が台頭するのならば、そんな個体は必要ない。
さっさと消えてしまえ。自我が移される前に。
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オルタ―エゴの存在を室内に見ている。それは私が私の自我をアップロードするという行為で分かるかもしれないが、結局他我など分からないのかもしれない。それは他人の意識の中でのみ生きている。口でそれを説明して「お前って●●なやつだよね」と言った所でそれは既に他我を離れている。状況証拠的に他人の世界観が重ね合わされているということだから、その他我ですらオルター’エゴ<他他我>なのだ。私は自身を愚か者だと考えている(おにぎり口の背景真っ白漫画は何処へ?)が、他から見れば要領が良かったり、面白いヤツだったり、何か私が考えている以外の要素がくっ付いている。間接的にしかわかることのないその存在が、自我に働きかけ、私は新たなペルソナを得るのだ。
重ね合わされた世界の隙間に現れたオルターエゴ〈他我〉が何者か
変わらずに自我はここにあるのか? 眠った時に消え、再生産されているのではないか、昨日の私はもは
だから技術的になし得るのはオルターエゴだけなのではないか。そ
生きるのは苦しいことなのだ。どんな人間でもやはり苦しみは存在
パンデミックで社会的な繋がりが失われ、自殺した資産家がいた。
その蛇の上で遊んでいる。苦しみ以外にない神経が苦しませろ、唯
その薄さに不安を感じるのが私達であり、怖がりは暴力を振るう。暴力が商いの人間
どんなやり方であっても命が終わる瞬間がある。その機能的喪失は機械に近似している。その後
惨めな糞袋だから苦しい。緻密な免疫系と複雑な脳はそれをしっか
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悲しいかな、鳥が鳴いていた。彼は視線に殺された。その視線を送ったのは私だ。そのライツァー鳥が落ちるのを見ていた。彼はどこまでも飛んでいけるのだったが、私はどこへも飛んでいけないのだから、私が殺してしまったのだ。
論理的整合性、繋がりのある文章が私は書けない。それは夢遊病者のように揺らめき、分裂病者のように自己の観念的世界観の中で総合される神を見出すかのようだ。太陽は消え、雪の時代がやって来る。私は焼け焦げることすら出来ずに、せいぜいやったことといえば自由と生存の軽さの責任を持つ鳥を視線で殺したことだけだった。
「他の人もやっていたのだから、いいじゃないか」
そう囁くのは私がいじめに加担したからか、差別をしたからか。悪魔の囁きとはいうが、単に愚かな人間だから、それを切り離そうとして悪魔と呼んだ。鳥は全ての責任をもって生きていた。私は全ての責任を放棄していた。反対側からの視線は生き物を殺せる。それを分かっていたのに、それを止めることが出来なかった。
私は誰かを愛したかったのだろう。しかしそれはもう叶わない。もう愛すべき人との関わり方を忘れてしまった。誰かを愛することが出来ないと知って、それがとても寂しい。だから自室にサメのぬいぐるみが増えていく。寂しいから、それなりに孤独を好んではいるが、それでもやはり寂しさはやって来るものだ。仕事以外で誰かと関わることが本当に少なくなった。SNSで誰かと繋がるのは空しいし、それが私自身にあまり良い影響を及ぼさないと知っているから、あまりやらない様にしている。これも愛故に、私は自分以外愛せないのだろう。最早ここまで来てしまったのだから。
私が誰かと繋がれるのは、こうした文章と楽器を演奏することぐらいしかない。しかしそれはどこへも通じてない。音は周囲を震わせているが、それが誰かに通じてはいない。常に楽しく振舞える社会性のある人間達ばかりが視線の先に有った。私は幼いころからずっとその外側にいた。その頃から、人間の世界観の重なりについて考えていた様に思う。私はどこに居ても外側の人間である。どうしてか人間達とは壁がある。それは自身で作り上げた透明な膜のようなもので、そこから寄せ付けない何かを感じ取っているのだろう。対話が出来ぬ愚か者は、文章と音楽以外に他人と対話する手段を持たない獣だ。人間達は悲しそうな視線で、私を焼く。私は焼かれているが、それは太陽に祈りを捧げているから。人間達の視線や私に向けられる取るに足らない態度、うじうじしてんな、いい年の癖して。私は人間に焼かれたくないから、太陽に焼かれる道を選ぶ。火傷を作り、火ぶくれを割っては焼かれた後を残していく。それしかないのだ。
私は殺したライツァー鳥を拾い上げて、悲しむ。そんな視線など必要なかった。太陽に焼かれようと、祈りはただただ内奥で反復されるうなりである。私はうなりである。だから人間に近接できない。時折近づけるが、その感覚を求めてしまえばやはり外側の人間なのだ。仕事は出来ず、要領が悪いと思われている。
私は何かのプロでもない。
私は何かの価値を持っているわけではない。
私はただ死なずにここで消費行動の権化として振舞うだけだ。
誰かを愛そう。そう思った時点で堂々巡りは始まっている。私は役に立てずに死んでいく。孤独な老人に向けられる視線で私は殺されるのだ。最早誰をも愛せない。人間の外側にいるから、そこから出て来られなくなったから。
皆素敵な人生である。皆素晴らしき人生である。皆人間として許された人生である。皆全て自由な人生である。私もそのどこかに引っ掛かっている。増長するのは希死念慮だけである。全てを破壊しつくさんとするあのどこからともなくやって来る衝動は、日増しに声を大にして哄笑を上げた。初めは少女の容を取っていたが、今はそうではない。私に似た何かが私の中に入り込み、私が哄笑により再生産される。
もしこれを読んだ奇特な人間がいたとして、手を差し伸べてでも来られたら私は消えなければならない。死という現象を見る為に、この世界と自らの関係性を構築する為に、私は思考を侍らせる。それは攻撃的で理性的で柔和で、何も選ばず、記号の連なり<文字>という形以外を取ることがなく、概念の林、海、空気としてこのWEBを漂う。ここに小さな形を取り始める。私は私の知性を愛している。例えそれが他の人間と比べて稚拙で短絡的で、何ら具体性を持たぬものだとしても、私に唯一許されているのが、知性に対する愛なのである。他の人間達がライツァー鳥に気付かず蹂躙している最中、私は彼を視線で殺したのを悲しんでいる。彼は死ぬべきではない、間違っても無意識の中で蹂躙されるべきではない。
手を差し伸べるという行為は彼を視線で殺すことと同義である。それは社会性であり、万事うまくやろう、暴力を振るい合うようなことが無いようにしよう、という合理的なものだ。だから人間はそれをするがそれにイラつく。
「他の人が、いないのだから、いいじゃないか」
手の中で壊れたガラスを握りしめて、割れた窓の先からライツァー鳥がこちらを見ているのを感じる。外は木々が白く化粧を施されて、そこから冷気がやって来る。私は外を見てはいけない。彼らを殺してしまうから。私はただガラスの痛みと血液が滴りぬるぬるとした掌を意識している。床面に敷かれたフェイクファーの黒いカーペットへ血液が吸い込まれて消えていく。
「他の人がいないのだから、駄目なんだ」
そうつぶやくと一斉に鳥たちが飛び立つ。今までこんな寒い所にいたのか、と遅まきながらに気が付いたかのようだ。
今日もうなりが身体から発せられていた。
こんな暑いのに雪など馬鹿馬鹿しい。しかし冷気が入り込み続ける窓から外を見ることはない。私は私の血液が消えるのだけを感じなければならないのだ。
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辛い時には毎回、梅原大吾さんの「一日ひとつだけ強くなる」慶應丸の内シティキャンパス講演を見ている。どうして今辛いのだろうか、それらは自分の想像していたほど能力がなかったから。誰かの為にやっているから、自分が出来ることが小さいのが悲しい。成長していないからつまらない。飽きた。成長を実感できれば前向きに努力が出来る。だから成果も出る。小さい発見をメモしておく。自分に変化をつける。競争に勝ち抜くために。私達は日々変化を感じ取らないといけない。仕事をする中で、失敗したこと、出来たこと、しっかりと自分の意図を伝えられたこと、色々ある。忙しい中でも少しずつ、積み重ねていければ死なずに済むのではないか、死に迷いそうになる時、そうやって自分にでも出来ることがあるから、少しずつ成長出来れば今の仕事をクビになったとしても私は生きられる。なんとかなる。老人になるまで価値を保持して生きられる。そうやっていつか自身がやりたいことが出来るようになりたい。そう思ってもう数年が経った。本当に小さな積み重ねが出来ているのか、私は不安ではある。
あんまり人生が楽しくない。合理的な判断を続けていると、どうしても人間は灰色になっていく。理性的なものは人間から離れているから。合理的な判断というのは、自身で決められていないことにも繋がりかねない。条件を積み上げても、それが合理的な判断だろうと、感情で選ぶことの方が楽しい。技術者をやっていると、私がどれだけ合理的でなくて自分の感情で決めたい人間だと思い知らされる。ビジネスは合理的でなければならない。常に効率が良く、高い付加価値を目指して集団で突き進まなければならない。その中でも、自分がやりたいこと、納得して続けられること、よくしたいと思ったことを見つけられれば、仕事は飽きずに続けられる。今は無いものが形をもって商品になる流れは言いようのない満足感がある。だからその中に一つでも自分が考えて、悩んで、やりたいと思ったことがあれば仕事も楽しいと思えるかもしれない。様々な技術を得て、知識が貯まって、専門性を獲得していく。
けれども、それらは誰かの撃ち込まれたものだから私はあんまり人生が楽しくない。やりたいのは自身を表現すること。このような文章でも小説でも、何か自分が表現する。それが満足出来れば楽しくなるのかもしれないが、分からない。仕事は生活に密着している。卓越を示さなければならない。組織の中で馬鹿にされたり、見下されたり、ああ察しが悪いなと丁寧に説明される、私は能力が低いからだ。そんなことはないと言われない。ビジネスは合理的だが、社会の中である集団の中で生存するには社会性が必要だった。私は弱い、私は小さい、私はギリギリで踏ん張る。やりたいことで成長しているか、それをメモしなければ。やろうとしても文章が書けない。どこかで止まってしまう。成長が実感できていないから、書くのが苦しいのだろうか。そもそも小説を書く、という行為は苦しいものだ。過去に読んだ無数の名作と個人の作品と、神話やゲームや様々に世に出る物語たちと似通ってしまう。書いていて「ああこれはあの人の内容に似ている」「この設定、この世界感はあれだな」「これではただのフェイカーだ」そう思っては立ち止まり、私個人として表現したいものが何か分からなくなる。作家、と呼ばれる人たちや小説を書いて生活している人たちはそこから突き抜けたのだろうか。毎日数百文字でもいいから書く。それが血肉になるから。文字を打ち込んでは消し、打ち込んでは消し、そうやって小さい発見は文章の中にメモされていく。(抽象的に理解しがたい形で積み上がる)作ってから数か月経って見返すと客観性が獲得できて、これはそれほど面白くないのかもしれないなどと悩みながら、結局のところ「私がしたい表現はある程度出来ている」と思っては、満足半分後悔半分の最中にある。
他人の期待はぼんやりとしていて、相手を追い詰める。それにだけ答えようとすれば死にたくなってくる。正しいことは他人から押し付けられている。そうではなく、自身で正しいと思ったことをやる方が良い。私も昔、誰かに期待された。音楽を作っていると言っていた彼は、奏者の私に対して過度な期待をしていて、私は自身の立場を文章で分かるように説明しただけだったが、それに対していい加減にしろと言われ困惑した。理論武装していたわけではないのだ、言い訳を並べていただけではないのだ、ただただあなたの期待が大きいがためにアテが外れて怒っているだけなのだから、私はそれならこれはこれで終わり。合わないな、で済ませれば良かったのだ。これだから他人の期待は厄介だ。それで勝手に失望して文句を言う。けれども、私は幼少期からの悪いクセで他人の期待に応えようとする気持ちが強いから、そのせいで無駄に苦しんでいるように思う。(けれどもすぐには病まない。男の子はタフだからな。)そして、期待をする連中は相手を追い詰めているとは思わない。ただ、期待しているだけ。私の思い通りになってくれよと、言っている。こんな自分勝手なものってあるだろうか。けれども、出来ることはやろうとも思う。人間は一人で生きていない、生きられないのだ。
私は人に期待をあまりしない。完全に排することは出来ないが、そう思った時、内省する。「これは期待したな、感情をぶつけるのはお門違いだ」そうやって私は自身の感情的に起きていることを観察するクセがついた。どうして怒っているのか、物に当たろうとしているのか、涙が出ているのか、そうしてそれをIKEAのサメに話して聞かせる。発されたその言葉は自分の中に帰ってくる。人にしていいのは、期待ではなくて具体的なお願いであって、具体的にして欲しい行動を伝えること。間違ってもぼんやりとしたもので人に動いて貰わない。そうした意識でやっているが、生来の段階をすっ飛ばして伝える思考の傾向があるせいで、よく注意されてしまう。お前の持っている前提はお前だけのものだ。
こうやって頭の中で考えたことがそれなりに実践できればいいのだが。
私はただただこうした文章を書いて、それを読み返して、公開している。
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日々再生産される自我がある。昨日の私と今日の私は違っている。
余裕がないからこうした文章しか書けない。私は幾つかの小説を書
私は社会的な繋がりを喪失している。仕事以外に他人に求められな
能力も精神も弱い。ただただ酷い自己愛の裏返しだけで生きている
GO AHEAD WITH YOUR AWESOME SELF or STAGNATE WITH YOUR AWESOME SELF.
自身の中に生じたソシオパスである。その言葉が示すのは社会的に
40代の男性と女性がカラオケ店に入ろうとしている。その光景を
自殺は社会の殺人である――。
私自身は死にたくないのだが、周囲を見て生活していると死ぬべきではないかと考える。
それらを声に出しても、どうありたいかも分からないのだから誰からも手を差し伸べられることはない。私は何も出来ないのだから、やはりこの社会からは早急に消え去るべきなのである。
生活に密接している仕事で自分を肯定できないと私達は自死を選ぶ。私は私なりに仕事で上手くいくように行動していたが、結局ぽろぽろと小さな失敗をして仕事が遅れる度にいろいろ言われる。それらは全て間違ってはいないし、私が留意してそれを避けられるようにすればいいのだが、準備が出来ないことはなくならない。そうしていつも指摘を受けてはこうしなければいけないだとか、じゃあどうするの、といった話になる。当たり前だ、そうしなければ仕事が進まないから、やらなければならない。そしてやろうとすれば結局考え無しを私に突き付ける。だからもう何を話していいのかも分からない。気を付けて仕事をしていても、何か聞いても、誰かが私を馬鹿にしているように感じている。私などいなくていいのだ、勿論労働力などいくらでも代わりが利く。私のように自身で居場所が作れない人間は消えてしまった方が良い。恐らくこれらは私の妄想だろう。しかし妄想だと知ってもなお、それはリアリティを持ち、私が私自身で私を棄損している。周囲の人間はただ無関心なのだ。ただただ、私は馬鹿にされている。それは良くしようとする彼らの理論で彼らの規則で、彼らのものだ。私はその中では見下され、上手く機能できていない。実際はそんなことはないのかもしれないが、そうした自動的な思考はカウンセリングから離れて結局強まっていく。このような精神の人間はこの社会に不要である。そう思うのは周囲の無関心と声を上げない自分が悪い。そうして周りばかり見て生きて来た私は、この社会に殺される。それらはゆっくりと時間を掛けて、私を発狂と暴力に溺れさせるやり方だ。この社会は病んでいる。私は死にたくないが、自死を望んでいる。殺してくれと誰ともなく呟いている。何も得意なことがないのだから、殺してくれよ。いつもいつも私が何も出来てないだとか、遅れてばっかりで何も進んでないだとか、そういう風に言われ続ければ私の心はしぼんでいく。しかし、それが社会なのだろう。だから仕事との繋がりが依然強い男性の方が自殺が多い。そして私も自殺したいと望んでしまっている。恐らく、死にたいと思うこと自体がそこら辺の人達の頭の中に浮かぶことはない。死ぬのは怖いが、自己が縮んで何も出来なくなるのも怖い。だから、それなら、私を殺してほしい。死ねないのだから、消え去れないのだから、あなたたちの手で惨たらしく殺してくれないだろうか。
以前、声優では食えないから辞めて勉強を始め、社会の差別などを
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死ねないのだ。殺してくれ。そう叫んだ男は殺意を振るうのを狙っ
そんな中に現れたのは卵だったろうか。太陽に首を垂れた後に見か
それを卵と断定するのは早くはないか。この社会に世界に問題など
そういった面であれば卵なのだ。人間なのだから卵はあり得ない。