Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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 人間という現象は世界を薄膜のような世界観でしか理解することはない。数の多さで世界観は世界に近似していく。または予言者〈分裂者〉が啓示を受けたかのように得る世界観が近似している。動物としてのツールがこの世界を理解する唯一の手段、というわけではなく、概念化を行い(こうして並べ立てる文章のように)それらを文字で残した。だから世界に近似している。薄膜は肉迫する世界を丁寧にラッピングしていったが、個々の人間はそこまで丁寧ではない。

 体内の殺菌にメタノールを飲み干す。エタノールメタノールを混ぜればギ酸への分解を防いでくれる。そうした体への害、失明や死亡に至る反応を分からないのは世界観は世界との齟齬が大きいからだ。
 個人の知性などそんなものである。思い込みと経験という言い訳に逃げ込む。凄い人間に出会った時、私にはそんな経験がないから、そいつには才能があるから、私は賢くないから、そう言って目を背けた。

 それではいけない。どうにかしてそいつになれないか、得意なものであるなら尚更そうだ。絶対に負けないと思うこと。この世界で生きるのは薄膜を渡ることなのだから、その小さな知性を蹴飛ばしてしまうべきだ。

 しかし、どう考えてもそこには圧倒的な差が存在し、そうなる為の時間がかけられない。足掻いてみてもいいが、寿命(知性は60歳を過ぎて急速に劣化する。脳の衰えは20代から、前頭葉がまず先に衰える。感情が抑えられなくなる。パワハラや事件が起きるのはそうした人間の機能に依るものが大きい)として間に合わない。もちろんそれもある。与えられたカードを切る以外にないことが苦しみを生む。それを全部うっちゃってしまい、何もない人になりたくなる。

 それならもう生きていなくていいじゃないか。考えずに楽しみだけを糧にすれば良いじゃないか。ええじゃないか運動は辛さも何もかもが人生の馬鹿馬鹿しさに集約していることを示した。マスクしない運動をする奴らも似たようなものだ。全部うっちゃってしまいたいから、人生など馬鹿馬鹿しいのだから、たかがウイルス、たかがマスク、気にしても仕方ねえって。繰り返しになるが人間の知性とはそんなものである。

 私を焼き焦がしてしまうべく薄膜を漂い、太陽は天啓として、啓示を受けたかのように私は太陽(風呂場の電球が発する熱、光)礼賛を行う。私は知性的に判断をしている妄想を理論的に形作っている。それを正しいと思えばそれは正しい。外化出来る私は分裂病者ではない。この世界の許された構造を破壊していく。

 世界を焼いてしまおう。どんな風に生きたい? どんな風にも生きたくない。孤独以外になく、それは他者から見れば甘えである。人間との関係性を構築できないのだから薄気味悪さを伴い、他者から嫌われていく。そこに助けてと言ってもその言葉は焼け焦げて意味を成さない。悪夢のような炎が続き、すべてを焼いている。焼かれたのは私だったが、それは声を発することも、何かをなし得ることもない。

 生きることは焼かれることである。害のない人間を見て、私はそれらに仇なす。

 あのいじけた精神は私を人殺しへ導こうとする。生きていればいつか終われる。わざわざ他人を自分を終わらせる必要はない。

 日本人は自尊感情が三十年下がり続けているという。

 三十年下がり続けるというならば、私はその最底辺に存在する。私自身は基本的によい人間ではなく、好ましくなく、価値のない存在だと感じている。自己肯定感は負側に寄りすぎている。 他人から排除されやしないだろうか。という考え方。人間関係が上手くいかないから、自尊感情を感じられない。だから自身の世界観は薄膜ではなくソリッドに表現されていると信じる。

 私は自尊感情が負側にある。こんな糞を早く殺せ、殺すことも出来ない社会なら、私は生きていてもいい。マジョリティが、人生を送って来た人間達が、私は自分のことしか考えていないと指摘する時、私は人間関係が上手くいっていないと感じる。そもそも排除されているようなものなのだから、それは一瞬だけ自殺感情を呼び起こすが、私は既に他者からは価値のない人間だと思っている。だから私は私自身で私の価値を決める。私が私を決めている。他人の感情を詰まらせないような対話しか出来ないのだから、人間関係が上手くいくはずなどないのだ。麻薬をやって、脳を壊してしまいたい。一生ものだから、止めましょうと依存症だった人が講演をしていた。もう既にこの社会から排除されているような私であれば、麻薬をやったっていいだろう。この国の規範にはふさわしくない。私個人はこの人生の辛さに耐えかねている。こうした辛さを忘れる為にアルコールがあるのだろうが、私にはただ苦しいだけだ。

 混ぜ物が入った不純な女神を体内に入れてしまいたい。それが無ければ苦しいだけの人生。しかし、それと今の私の現状と何が違うというのだ。ただただ頭が痛み、日々の楽しみはなく呆然とYoutubeを垂れ流し、寝たいのに眠れずに起きる2時までの辛さがある。仕事をしていても、家で休もうとしていても、何をしていても辛さが付きまとう。お願いだから私を焼いてくれ、もうこんな場所にいても仕方がない。

 最近じゃ何をするにも倦怠感が付いて回る。元気な日など一日もない。ただただ引きずって歩くだけの人生である。日々である。

 私の世界観だけが浮いている。熱に浮かされたように、他人では考えられないような失敗を積み重ね、それらが体系化されずにそれだけの形で対処する。類推など出来ない。頭を使えなくなりつつある。知性がなくなりつつある。知性など最早ないが、このような惨めな人生に何があるというのだろう。

 消えてしまいたい。もう涙は止まらないから、脳が焼かれている。

 そうやって焦げ尽くして、焼き尽くして、私というものを消す。

 私から熱意は消え、いじけた精神が台頭するのならば、そんな個体は必要ない。

 

 さっさと消えてしまえ。自我が移される前に。

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 オルタ―エゴの存在を室内に見ている。それは私が私の自我をアップロードするという行為で分かるかもしれないが、結局他我など分からないのかもしれない。それは他人の意識の中でのみ生きている。口でそれを説明して「お前って●●なやつだよね」と言った所でそれは既に他我を離れている。状況証拠的に他人の世界観が重ね合わされているということだから、その他我ですらオルター’エゴ<他他我>なのだ。私は自身を愚か者だと考えている(おにぎり口の背景真っ白漫画は何処へ?)が、他から見れば要領が良かったり、面白いヤツだったり、何か私が考えている以外の要素がくっ付いている。間接的にしかわかることのないその存在が、自我に働きかけ、私は新たなペルソナを得るのだ。

 重ね合わされた世界の隙間に現れたオルターエゴ〈他我〉が何者か。ペルソナのようなものか、他人が持つ我は何者か。表面から見た私の表像がそこに生まれる。それらは口で筆記で語られるが、私が知ることはできない。それらは意識の中にあるだけなのだから、取り出してみることは出来ない。機械の上に電気信号パターンがアップデートされたとしてもそれは結局岩倉玲音と同じ路を辿るだけである。パパをぶち壊し、現実の自我を破壊する。残ったものはオルターエゴのみ。殊更少女らしい振る舞いをするのだ。意識を取り出すには脳に接続しなければならない。そうやって機械と同一化を図らねばならない。そうやって混ざり合う意識は自我であると言えるのか、機械であると言えるのか、そうやって少しずつ脳が機械に移し替えられていった時、意識は離散的連続を保つガウス数のようなもので、それがぱったりと消える時が来るのか、切り替わったことにすら気付かず自我としてそこにあるのだろうか
 変わらずに自我はここにあるのか? 眠った時に消え、再生産されているのではないか、昨日の私はもはやどこにもいない。離散的連続の隙間に落ち込んで消えた自我を拾い上げることはもう出来ないのだ。
 だから技術的になし得るのはオルターエゴだけなのではないか。れは私ではない。それは私のように振る舞う別の自我だ。それで死を免れることなど出来ない。連続性を持って機械に接続された場合にのみ、自我の連続性は保たれる。私だと思うことができる。電気信号が流れた結果、その動きの結果が自我である。宇宙で繰り返される超新星爆発を広げてみればその働きは脳に似ている。地球の高高度放電発光もその働きに似ている。故に自我は一つの宇宙なのである。生まれては消える宇宙、再生産されるのか、ただただ冷えた空間が横たわるのか、弾けて生まれて、そうして私達は死ぬ。

 生きるのは苦しいことなのだ。どんな人間でもやはり苦しみは存在する。レイヤーの違いはあれど誰もが苦しみ、少しの楽しさで生きている。
 パンデミックで社会的な繋がりが失われ、自殺した資産家がいた。金があろうと、この経済の中で恵まれようが、人間どもの生き方というものは画一的で、どうあってもそこから逃れられない。我利我利になった私達は病んでいる。社会構造が私たちを暴力を振るう所から病んだ精神へと導く。男の中で共有される前提、女の中で共有される前提、私たちに押し付けられているのは生殖であり、それ以外は特にない。結局その中をぐるぐると回り続け、その輪は我が身を喰らう蛇のようなものだ。
 その蛇の上で遊んでいる。苦しみ以外にない神経が苦しませろ、唯一俺が誇れる自我なのだ、外野がガチャガチャ言ってんじゃねえよ、その浅薄な世界観で他人を見やがってと、自我の発露だ。しかもそう口走った自我こそが浅薄な世界観である。人間はその薄い構造の中で生きている。苦悩も辛さも消えたい気持ち全て私自身である。押し付けられた環境から現れたものだが、それが良くないなどと他人がとやかく言う資格はない。世界観は薄く重なっている。

 その薄さに不安を感じるのが私達であり、怖がりは暴力を振るう。暴力が商いの人間は怖がりではない。黒い麻帽子の男が警官とその息子を処刑していた。淡々と続く作業と泣き喚く親子。胸にナイフが差し込まれる。切り取られる肉、刃は心臓を切り取り、それが置かれた胸の上でナイフを突き立てられる。これはある日常で、見せしめによる処刑動画は世界に拡散される。不安がばら撒かれる。だから関わるなと宣言している。怖がりの方が可愛いものだ。自身の霊長類的暴力に前頭葉の衰えを隠せない人間なのだから、機能だけで働く人間である。自我はあるようでそれは反応で生きるのと変わらない。自我のようなものに囲まれてそれが自我だと本当に判断出来るだろうか、自然的に生起されるのが自我なのだから、反応も自我である。生き物から出てきた自我、言語と概念の反射である自我。ユニークな領域だけを自我と思おう。そう考えた。

 どんなやり方であっても命が終わる瞬間がある。その機能的喪失は機械に近似している。その後に残る肉塊は私ではない。どんなクソもどんな聖人も等しく腐り、泡をあげる。カラマーゾフの兄弟で死後酷い臭いを発した聖人(聖人であれば臭わないはずである、が作中で語られる)、やはり生き物はそう言うものである。アイドルが排泄しない、永遠の処女信仰は人間が惨めな糞袋であることを見ないフリをする。それくらいしか自分を慰めることが出来ないから。人形であれば偶像であれば、それは少ない。

 惨めな糞袋だから苦しい。緻密な免疫系と複雑な脳はそれをしっかりと教えてくれる。その無関心で適当な振る舞いを垣間見る。他人などどうでもいいのだ。そうして孤立していく。私には何もない。それもまた苦しい。どうあっても苦しむ精神構造なのだから、せめてもの自我として苦しませてくれ。それすら私から取り上げる。そんな権利は誰にもない。いつだって陽気にいられる人間であればそれが何よりだと、ショウペンハウエルも言っていた。ドイツで出て来た哲学は固く、現実から少し離れている感じがしているが私にはそれを判断する知性は持ち合わせていない。普遍性は元型論より導かれ、存在は永劫回帰なのだから、私達は教育実習生を繰り返す。時には研修医として、時にはカウンセラーとして、様々なものに人格を取り付けて会話を始める。天井でひらひらと揺れるビニール、縮こまったゴミ箱、その中の人形、カラス、太陽、なんだっていい。それらは天使によって打ち立てられ、哀れなドイツの孤独な老人を発狂せしめた。世界と世界観との距離を他者を含めて上手く取れる人間は何も言われなくともこの社会で生きている。私にはその距離が分からない。世界はなく、ただ世界観だけが薄膜のように広がっているのだ。太陽に焼かれるため、それだけの為にこの薄膜を歩く。

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 悲しいかな、鳥が鳴いていた。彼は視線に殺された。その視線を送ったのは私だ。そのライツァー鳥が落ちるのを見ていた。彼はどこまでも飛んでいけるのだったが、私はどこへも飛んでいけないのだから、私が殺してしまったのだ。

 論理的整合性、繋がりのある文章が私は書けない。それは夢遊病者のように揺らめき、分裂病者のように自己の観念的世界観の中で総合される神を見出すかのようだ。太陽は消え、雪の時代がやって来る。私は焼け焦げることすら出来ずに、せいぜいやったことといえば自由と生存の軽さの責任を持つ鳥を視線で殺したことだけだった。

「他の人もやっていたのだから、いいじゃないか」

 そう囁くのは私がいじめに加担したからか、差別をしたからか。悪魔の囁きとはいうが、単に愚かな人間だから、それを切り離そうとして悪魔と呼んだ。鳥は全ての責任をもって生きていた。私は全ての責任を放棄していた。反対側からの視線は生き物を殺せる。それを分かっていたのに、それを止めることが出来なかった。

 私は誰かを愛したかったのだろう。しかしそれはもう叶わない。もう愛すべき人との関わり方を忘れてしまった。誰かを愛することが出来ないと知って、それがとても寂しい。だから自室にサメのぬいぐるみが増えていく。寂しいから、それなりに孤独を好んではいるが、それでもやはり寂しさはやって来るものだ。仕事以外で誰かと関わることが本当に少なくなった。SNSで誰かと繋がるのは空しいし、それが私自身にあまり良い影響を及ぼさないと知っているから、あまりやらない様にしている。これも愛故に、私は自分以外愛せないのだろう。最早ここまで来てしまったのだから。

 私が誰かと繋がれるのは、こうした文章と楽器を演奏することぐらいしかない。しかしそれはどこへも通じてない。音は周囲を震わせているが、それが誰かに通じてはいない。常に楽しく振舞える社会性のある人間達ばかりが視線の先に有った。私は幼いころからずっとその外側にいた。その頃から、人間の世界観の重なりについて考えていた様に思う。私はどこに居ても外側の人間である。どうしてか人間達とは壁がある。それは自身で作り上げた透明な膜のようなもので、そこから寄せ付けない何かを感じ取っているのだろう。対話が出来ぬ愚か者は、文章と音楽以外に他人と対話する手段を持たない獣だ。人間達は悲しそうな視線で、私を焼く。私は焼かれているが、それは太陽に祈りを捧げているから。人間達の視線や私に向けられる取るに足らない態度、うじうじしてんな、いい年の癖して。私は人間に焼かれたくないから、太陽に焼かれる道を選ぶ。火傷を作り、火ぶくれを割っては焼かれた後を残していく。それしかないのだ。

 私は殺したライツァー鳥を拾い上げて、悲しむ。そんな視線など必要なかった。太陽に焼かれようと、祈りはただただ内奥で反復されるうなりである。私はうなりである。だから人間に近接できない。時折近づけるが、その感覚を求めてしまえばやはり外側の人間なのだ。仕事は出来ず、要領が悪いと思われている。

 私は何かのプロでもない。

 私は何かの価値を持っているわけではない。

 私はただ死なずにここで消費行動の権化として振舞うだけだ。

 誰かを愛そう。そう思った時点で堂々巡りは始まっている。私は役に立てずに死んでいく。孤独な老人に向けられる視線で私は殺されるのだ。最早誰をも愛せない。人間の外側にいるから、そこから出て来られなくなったから。

 皆素敵な人生である。皆素晴らしき人生である。皆人間として許された人生である。皆全て自由な人生である。私もそのどこかに引っ掛かっている。増長するのは希死念慮だけである。全てを破壊しつくさんとするあのどこからともなくやって来る衝動は、日増しに声を大にして哄笑を上げた。初めは少女の容を取っていたが、今はそうではない。私に似た何かが私の中に入り込み、私が哄笑により再生産される。

 もしこれを読んだ奇特な人間がいたとして、手を差し伸べてでも来られたら私は消えなければならない。死という現象を見る為に、この世界と自らの関係性を構築する為に、私は思考を侍らせる。それは攻撃的で理性的で柔和で、何も選ばず、記号の連なり<文字>という形以外を取ることがなく、概念の林、海、空気としてこのWEBを漂う。ここに小さな形を取り始める。私は私の知性を愛している。例えそれが他の人間と比べて稚拙で短絡的で、何ら具体性を持たぬものだとしても、私に唯一許されているのが、知性に対する愛なのである。他の人間達がライツァー鳥に気付かず蹂躙している最中、私は彼を視線で殺したのを悲しんでいる。彼は死ぬべきではない、間違っても無意識の中で蹂躙されるべきではない。

 手を差し伸べるという行為は彼を視線で殺すことと同義である。それは社会性であり、万事うまくやろう、暴力を振るい合うようなことが無いようにしよう、という合理的なものだ。だから人間はそれをするがそれにイラつく。

「他の人が、いないのだから、いいじゃないか」

 手の中で壊れたガラスを握りしめて、割れた窓の先からライツァー鳥がこちらを見ているのを感じる。外は木々が白く化粧を施されて、そこから冷気がやって来る。私は外を見てはいけない。彼らを殺してしまうから。私はただガラスの痛みと血液が滴りぬるぬるとした掌を意識している。床面に敷かれたフェイクファーの黒いカーペットへ血液が吸い込まれて消えていく。

「他の人がいないのだから、駄目なんだ」

 そうつぶやくと一斉に鳥たちが飛び立つ。今までこんな寒い所にいたのか、と遅まきながらに気が付いたかのようだ。

 今日もうなりが身体から発せられていた。

 こんな暑いのに雪など馬鹿馬鹿しい。しかし冷気が入り込み続ける窓から外を見ることはない。私は私の血液が消えるのだけを感じなければならないのだ。

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 辛い時には毎回、梅原大吾さんの「一日ひとつだけ強くなる」慶應丸の内シティキャンパス講演を見ている。どうして今辛いのだろうか、それらは自分の想像していたほど能力がなかったから。誰かの為にやっているから、自分が出来ることが小さいのが悲しい。成長していないからつまらない。飽きた。成長を実感できれば前向きに努力が出来る。だから成果も出る。小さい発見をメモしておく。自分に変化をつける。競争に勝ち抜くために。私達は日々変化を感じ取らないといけない。仕事をする中で、失敗したこと、出来たこと、しっかりと自分の意図を伝えられたこと、色々ある。忙しい中でも少しずつ、積み重ねていければ死なずに済むのではないか、死に迷いそうになる時、そうやって自分にでも出来ることがあるから、少しずつ成長出来れば今の仕事をクビになったとしても私は生きられる。なんとかなる。老人になるまで価値を保持して生きられる。そうやっていつか自身がやりたいことが出来るようになりたい。そう思ってもう数年が経った。本当に小さな積み重ねが出来ているのか、私は不安ではある。

 あんまり人生が楽しくない。合理的な判断を続けていると、どうしても人間は灰色になっていく。理性的なものは人間から離れているから。合理的な判断というのは、自身で決められていないことにも繋がりかねない。条件を積み上げても、それが合理的な判断だろうと、感情で選ぶことの方が楽しい。技術者をやっていると、私がどれだけ合理的でなくて自分の感情で決めたい人間だと思い知らされる。ビジネスは合理的でなければならない。常に効率が良く、高い付加価値を目指して集団で突き進まなければならない。その中でも、自分がやりたいこと、納得して続けられること、よくしたいと思ったことを見つけられれば、仕事は飽きずに続けられる。今は無いものが形をもって商品になる流れは言いようのない満足感がある。だからその中に一つでも自分が考えて、悩んで、やりたいと思ったことがあれば仕事も楽しいと思えるかもしれない。様々な技術を得て、知識が貯まって、専門性を獲得していく。

 けれども、それらは誰かの撃ち込まれたものだから私はあんまり人生が楽しくない。やりたいのは自身を表現すること。このような文章でも小説でも、何か自分が表現する。それが満足出来れば楽しくなるのかもしれないが、分からない。仕事は生活に密着している。卓越を示さなければならない。組織の中で馬鹿にされたり、見下されたり、ああ察しが悪いなと丁寧に説明される、私は能力が低いからだ。そんなことはないと言われない。ビジネスは合理的だが、社会の中である集団の中で生存するには社会性が必要だった。私は弱い、私は小さい、私はギリギリで踏ん張る。やりたいことで成長しているか、それをメモしなければ。やろうとしても文章が書けない。どこかで止まってしまう。成長が実感できていないから、書くのが苦しいのだろうか。そもそも小説を書く、という行為は苦しいものだ。過去に読んだ無数の名作と個人の作品と、神話やゲームや様々に世に出る物語たちと似通ってしまう。書いていて「ああこれはあの人の内容に似ている」「この設定、この世界感はあれだな」「これではただのフェイカーだ」そう思っては立ち止まり、私個人として表現したいものが何か分からなくなる。作家、と呼ばれる人たちや小説を書いて生活している人たちはそこから突き抜けたのだろうか。毎日数百文字でもいいから書く。それが血肉になるから。文字を打ち込んでは消し、打ち込んでは消し、そうやって小さい発見は文章の中にメモされていく。(抽象的に理解しがたい形で積み上がる)作ってから数か月経って見返すと客観性が獲得できて、これはそれほど面白くないのかもしれないなどと悩みながら、結局のところ「私がしたい表現はある程度出来ている」と思っては、満足半分後悔半分の最中にある。

 他人の期待はぼんやりとしていて、相手を追い詰める。それにだけ答えようとすれば死にたくなってくる。正しいことは他人から押し付けられている。そうではなく、自身で正しいと思ったことをやる方が良い。私も昔、誰かに期待された。音楽を作っていると言っていた彼は、奏者の私に対して過度な期待をしていて、私は自身の立場を文章で分かるように説明しただけだったが、それに対していい加減にしろと言われ困惑した。理論武装していたわけではないのだ、言い訳を並べていただけではないのだ、ただただあなたの期待が大きいがためにアテが外れて怒っているだけなのだから、私はそれならこれはこれで終わり。合わないな、で済ませれば良かったのだ。これだから他人の期待は厄介だ。それで勝手に失望して文句を言う。けれども、私は幼少期からの悪いクセで他人の期待に応えようとする気持ちが強いから、そのせいで無駄に苦しんでいるように思う。(けれどもすぐには病まない。男の子はタフだからな。)そして、期待をする連中は相手を追い詰めているとは思わない。ただ、期待しているだけ。私の思い通りになってくれよと、言っている。こんな自分勝手なものってあるだろうか。けれども、出来ることはやろうとも思う。人間は一人で生きていない、生きられないのだ。

 私は人に期待をあまりしない。完全に排することは出来ないが、そう思った時、内省する。「これは期待したな、感情をぶつけるのはお門違いだ」そうやって私は自身の感情的に起きていることを観察するクセがついた。どうして怒っているのか、物に当たろうとしているのか、涙が出ているのか、そうしてそれをIKEAのサメに話して聞かせる。発されたその言葉は自分の中に帰ってくる。人にしていいのは、期待ではなくて具体的なお願いであって、具体的にして欲しい行動を伝えること。間違ってもぼんやりとしたもので人に動いて貰わない。そうした意識でやっているが、生来の段階をすっ飛ばして伝える思考の傾向があるせいで、よく注意されてしまう。お前の持っている前提はお前だけのものだ。

 こうやって頭の中で考えたことがそれなりに実践できればいいのだが。
 私はただただこうした文章を書いて、それを読み返して、公開している。

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 日々再生産される自我がある。昨日の私と今日の私は違っている。様々なことを言われたとしても、それらは過去の灰色に組み込まれる。繰り込まれる。結局、能無しだろうと日々を楽しく過ごせればそれだけでいいのだから。私は社会から浮いている。例えば、朝起きたらそれだけで勝ち。そう言っていたのは加藤純一氏だったろうか。私にはない人間性を楽しむこと、様々な配信者達が色々なことを言うのを聞けば、それぞれの自我とそれぞれの人生観がWEBを介して近接していく。世界観はそうやって近接し、しかしそれは重ね合わされることはなく、しばしばそれを勘違いする者が重なり合っていると考える。外側から見る自我と世界観がコンビニエンスに得られるようになった。そのせいで辛くなる。そのせいで楽しくなる。それを受けて自我は日々再生産される。昨日の私も今日の私も誰かの世界観によって矯正(歪)され続ける。

 余裕がないからこうした文章しか書けない。私は幾つかの小説を書こうと試み、失敗している。そんな物語を作ったところで誰も見るものはいない。それなりに誰かに見られるために整形した散文のはずだったが、その価値は未だない。それは何も生まず、私の知性的な挑戦としてそこにあるのみだ。作っておきたいものがある。私は相変わらず死を望んでしまうが、それをやるまでは死ねないのだ。だから早く殺せ。

 私は社会的な繋がりを喪失している。仕事以外に他人に求められない。しかしそれも怪しい。もはや何をしても私は何も生まない。労働力としても使えない。

 能力も精神も弱い。ただただ酷い自己愛の裏返しだけで生きている。愛で生を支える。全て一人で始まり、一人で終える。だから暴力は自らの体に差し込まれ、他者から加えられる力により歪んだ器だ。その中に流し込まれるのは孤独と希死念慮ばかりである。思い込みの激しさはもはや他者を見ていないことに他ならず、私の社会性が機能しなくなりつつある。暴力も絶叫も涙も全てが自分の中でしか回らない。それが社会的に掬い上げられるとすれば、犯罪か迷惑防止条例違反なのだろう。しかし、これは愛である。酷く歪な、他人が理解しようとも思えない愛で生きている。太陽に焼かれ焦がされて意味のある人生はここにあるのだろうか。価値という霧の中で迷い、私達は頭を抱える。適当に歩み始める。

GO AHEAD WITH YOUR AWESOME SELF or STAGNATE WITH YOUR AWESOME SELF.

I DO NOT CHOOSE EITHER .

 自身の中に生じたソシオパスである。その言葉が示すのは社会的に弱い立場で自己が追い詰められている時に現れる感情的な反動でこの社会へ怒りをぶつけるいじけた精神だ。ソシオパスに分類される人間は短絡的で、感情的で衝動的に犯罪行動を起こしがちだ。青葉くんもそうだろうし、新幹線の青年も、秋葉原の青年も、池田小学校の事件も同じである。思い込みの激しさとソーシャルサポートが不足していたから、こういった事件を起こすのは多くが男性だ。基本的に男性というものが何かを勝ち取り、暴力による生存を抱いてきたから、ニューロダイバーシティという誤差があったとしてもそれは変わらない。どんな男性でも不意に暴力性を発露させる。少なくとも私の周囲はそうだった。そうでないように穏やかになりつつあるが、それでも変わらない。そしてそれは、暴力を振るう存在として他のコミュニティに存在する者は警戒心を持って迎えられるということ。その時にギョッとされたり、一人で水族館などに行けばそういった目を注がれる。(これは被害妄想の可能性もあり、私は目線移動による磁力の変化を感じる能力が低い。試しに適当な女性を凝視すると彼らはそれに気づく。男性はそれほど気づかない。警戒心と不安を感じやすいのはそういった特性もあるように思う。)だから、助けてと言えない。言ったとしても、それらは冷笑を持って受け止められる。または男性らしさに押しつぶされる。Don't think FEEL. そうはいっても人間の基本的な特性は変わらないから私達は飛び込むだけである。そこで固まってしまっても、恥をかいても、馬鹿にされても、私はやったのだ。弱くとも地下室から出て、こんな暗黒啓蒙的な文章を連ねる前に、様々なことをして飛び込んでいく。それが不足している。それが出来るか出来ないか、出来なければ病むか犯罪を犯すか、文章<エクリチュール>はそこから逃げる為に入り込む。手に取り感じること、私達に必要なものはそれくらいシンプルでいい。上を見ろ、アグレッシブにやれとこの社会の是は人間をそうしたつまらない部分に押し込めようとする。会社で生きていればそれだけが人生のように見えてくるが、それが人生の大部分を占めてしまうからそこから離れられずにいる。

 40代の男性と女性がカラオケ店に入ろうとしている。その光景を目の前に置かれた時、どうだろうか。私が受けている社会的バイアスでは漠然と男性の方が悪いイメージを持ってしまうように思う。どうしてこんなところに一人で? と怪訝な感じを抱かれる。または嫌悪を持って受け入れられる。うっすらと嫌われている。という言葉がしっくりと来る。早くいい相手を見つけないと、薄毛になる前に。そう言われる理由は、恐らく彼等もそうなることを知っているから。籍を入れていれば、ソーシャルサポートが少ない社会だから、家族や小さい繋がりが主だから、それらは死なずに済む一つの方策なのだ。生殖要望とは別に、そんな意味が含まれている。私達は繋がっているのではない。繋がりの先端で区切られてしまっている。

自殺は社会の殺人である――。

私自身は死にたくないのだが、周囲を見て生活していると死ぬべきではないかと考える。
それらを声に出しても、どうありたいかも分からないのだから誰からも手を差し伸べられることはない。私は何も出来ないのだから、やはりこの社会からは早急に消え去るべきなのである。

 生活に密接している仕事で自分を肯定できないと私達は自死を選ぶ。私は私なりに仕事で上手くいくように行動していたが、結局ぽろぽろと小さな失敗をして仕事が遅れる度にいろいろ言われる。それらは全て間違ってはいないし、私が留意してそれを避けられるようにすればいいのだが、準備が出来ないことはなくならない。そうしていつも指摘を受けてはこうしなければいけないだとか、じゃあどうするの、といった話になる。当たり前だ、そうしなければ仕事が進まないから、やらなければならない。そしてやろうとすれば結局考え無しを私に突き付ける。だからもう何を話していいのかも分からない。気を付けて仕事をしていても、何か聞いても、誰かが私を馬鹿にしているように感じている。私などいなくていいのだ、勿論労働力などいくらでも代わりが利く。私のように自身で居場所が作れない人間は消えてしまった方が良い。恐らくこれらは私の妄想だろう。しかし妄想だと知ってもなお、それはリアリティを持ち、私が私自身で私を棄損している。周囲の人間はただ無関心なのだ。ただただ、私は馬鹿にされている。それは良くしようとする彼らの理論で彼らの規則で、彼らのものだ。私はその中では見下され、上手く機能できていない。実際はそんなことはないのかもしれないが、そうした自動的な思考はカウンセリングから離れて結局強まっていく。このような精神の人間はこの社会に不要である。そう思うのは周囲の無関心と声を上げない自分が悪い。そうして周りばかり見て生きて来た私は、この社会に殺される。それらはゆっくりと時間を掛けて、私を発狂と暴力に溺れさせるやり方だ。この社会は病んでいる。私は死にたくないが、自死を望んでいる。殺してくれと誰ともなく呟いている。何も得意なことがないのだから、殺してくれよ。いつもいつも私が何も出来てないだとか、遅れてばっかりで何も進んでないだとか、そういう風に言われ続ければ私の心はしぼんでいく。しかし、それが社会なのだろう。だから仕事との繋がりが依然強い男性の方が自殺が多い。そして私も自殺したいと望んでしまっている。恐らく、死にたいと思うこと自体がそこら辺の人達の頭の中に浮かぶことはない。死ぬのは怖いが、自己が縮んで何も出来なくなるのも怖い。だから、それなら、私を殺してほしい。死ねないのだから、消え去れないのだから、あなたたちの手で惨たらしく殺してくれないだろうか。

 口内を刺した。いかなる思想も私を操るものであってはならない。自由であるべきだと喚くのであるがその不安に精神の安定は得られない。一人で生きて死ぬ。もはや何もかもが色彩を持たず、老化を始めた。私は余計なことに拘泥するので仕事ができないのだ。周囲に生かされる日々に幸福などあり得ない、そうした意味で私の肛門から口までを串が刺し貫く。その中で口内を刺した痛みを訴えたところで気にも留めない。何かをしても私にできるのはそれだけだ。もう色々言われてそれが上手く出来ないのに耐えるのは疲れたのだ。助けてなのだと言ってもそれは幼児性なのだ、頑張るしかないのだ。そうやって串刺しにされた私は死ぬ前の余韻だけで生きているのだ。助けて、という言葉は自身が何か出来ることがあるから言える。何も出来ないのだとすれば、助けてくださいなのだと頭を下げてもただのキャラクタープレイである。なりすませば満足か、それは違うと思う。胸の苦しさと目の際に溜まる涙は恐らく悲劇にすらならない喜劇なのだろう。私が男性であるから、私が社会に居場所を作れない、資本経済の中で生きられない人間なのだから、私はここで死ぬために文章を残している。誰も見てはいないが、私が死んだあと少しだけ残る。私には何もないから、このような文章だけが連なっていく。助けて欲しいと何か心の中でざわつくものがあるが、それらは具体的に何から助けて欲しいのか、それを表現出来ない。抽象的な話しか出来ないのが私なのだ。
 以前、声優では食えないから辞めて勉強を始め、社会の差別などを研究する者になりたいという記事を見かけた。夢を実現出来ない社会が問題なのだとその人は書く。actorが夢ならもう叶っているだろうし、それで食うのが夢なのだとすれば、凡百でないことを示なければならない。有象無象のvoice actorとして何があるのか、そう問われ趣味やキャラ売りが出来ないとしんどい。そうするより他ないのが演者であって、それらをただ頑張っても報われないから諦めた。生活にならないから、それは夢を叶えられない社会だから、私のように飛躍している。実体験。私は無能である。今所属する会社には必要ない。サラリーマンとして安い労働力として使い捨てられる程度の能しかないのが、頭を使いなにかを生み出すことなどあり得ない。私がせいぜい出来るのは言われたことを延々と続けることだけである。穴を掘って埋めるだけの仕事しか出来ないのだ、何かをすれば誰かが付け入り様々な指摘をする。その後にもう何を言っても無駄だと悟り私は自らを殺さなければならない。そうするための無関心、この社会は病んでいる。私が殺してくれと願うのも、こうしたいじけた精神が強さを増して身動きが取れなくなりつつあるのも、社会が病んでいるから。自殺する人間が悪い。しかし、それはこの社会がそれを導いているのだから、個人の問題、というわけでもない。だからこんな状況で尊厳死を始めれば、私のような人間は誰かによって尊厳死を選ばされるだろう。

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 〔死骸〕
 私は雲の中に絡まるゴミ。人間たちと自身を区分したな?
 そうして夢などなく生きていた。そんなものは早めに消してしまえよと言われそうだなごもっともと肯く。肯定されないのだ、いてもいなくても、死以外にあるまい。どうして死がこわいのだ、死骸のくせに。何もしても糞みたいな傍観が付き纏う。喋るクソどもと私は同じだ。あのクソどもをぶち殺せ、死ぬ迄苦しむ傷を残してやれと囁く。自身の力などない癖に漂う。このクソッタレの社会から飛び込むために駅のホームは存在している。人の死はただの迷惑である。葬式も自殺も、生きている人間はそれを嫌がる。迷惑そうに通り過ぎる。片っ端からミンチにしろ、この霊長類共を絶滅させろ。その怒りはどこから現れるのか、社会から遠ざかる不適合者を安楽死させろ。それを望んだゴミ共と同じにしろ。宅間守が無為に子供を七人も屠ったのはそうしたいじけた根性からだ。木嶋佳苗に殺されるはずの私はここにいる。殺されたプラモが趣味の男性のブログを今でも覚えている。婚活を頑張りつつ趣味をブログに上げていた男性は静かに自身の中で生きていた。ささやかでも生きているのがとても頭の中に残っている。何故ならこれは私なのだ、霊長類共が見ている。目玉は存在しない。私達はわざわざ苦労して目玉を取り出した。それ故に見ていないものが見るという行為を具体化出来ない。
死ねないのだ。殺してくれ。そう叫んだ男は殺意を振るうのを狙っている。人間が口を出すのを今か今かと待っている。ここにいるよと言ってもそれは透明だろう。私は透明な死骸であり、その中で絡まる。
〔産卵〕
 そんな中に現れたのは卵だったろうか。太陽に首を垂れた後に見かけた。人間から産み落とされないはずの卵がそこにある。それら、この形、は、揺籃の最中に集まり、私の整合性を奪い去る。もはやなんの形もない。卵は産卵管を通してやって来るが、その様子すらない。抽出された他の動物がここにいるとでも? 私は左右に視線を、上下に意識を、周囲は焼け焦げた大地だけがある。そこには太陽と私以外に存在しない。しかし、私は卵を見つけてしまう。そんなはずはないだろう、ここに他のものがありそれは焼け焦げていない。焦げ尽くしてしまったのか、表面はザラついた炭素の層に黒く触ればその先から焦げていく。
 それを卵と断定するのは早くはないか。この社会に世界に問題など課題など一つもない。それらは相対的だ。生きて死ぬ中でそれが出来ても虚しい。それが出来ないから虚しいと感じる私は幻。上司が飽き飽きとした態度で私を浮かべている。どうしてゴミ箱に入れないの? そんなことを会社で言うわけにはいかない。段取りが悪いとか、効率的に動けないとか、そうした人間らしい営みの寒々とした態度。だから舐められるわけにいかず、弱音を吐けばという話にもならない。そこにあるのは一般に流布する構造、迎合するさまざまなものだ。打ち込まれたものをよく見ておくべきだ、私たちに自我などほとんど残されていない。それがなければ死ぬ社会など誰が望むか、何が資本主義だ、何が国家転覆だ、同じグラウンドでクソまみれになる精神ども、私はそこで何も言わずたたずむ。私の意見など人間らしさの破壊以外に役に立たない。破壊すべきは日本などという小さなスケールではない。人間というものの自我を全て奪い去らなければならない。社会の全てがゴミのように輝き、丸められて何かわからないものへと変化していく。
 そういった面であれば卵なのだ。人間なのだから卵はあり得ない。だがそれらは人間が生み出した卵に他ならない。
世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火