Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

自殺は社会の殺人である――。

消え去る前の小話
私自身は死にたくないのだが、周囲を見て生活していると死ぬべきではないかと考える。
それらを声に出しても、どうありたいかも分からないのだから誰からも手を差し伸べられることはない。私は何も出来ないのだから、やはりこの社会からは早急に消え去るべきなのである。

 生活に密接している仕事で自分を肯定できないと私達は自死を選ぶ。私は私なりに仕事で上手くいくように行動していたが、結局ぽろぽろと小さな失敗をして仕事が遅れる度にいろいろ言われる。それらは全て間違ってはいないし、私が留意してそれを避けられるようにすればいいのだが、準備が出来ないことはなくならない。そうしていつも指摘を受けてはこうしなければいけないだとか、じゃあどうするの、といった話になる。当たり前だ、そうしなければ仕事が進まないから、やらなければならない。そしてやろうとすれば結局考え無しを私に突き付ける。だからもう何を話していいのかも分からない。気を付けて仕事をしていても、何か聞いても、誰かが私を馬鹿にしているように感じている。私などいなくていいのだ、勿論労働力などいくらでも代わりが利く。私のように自身で居場所が作れない人間は消えてしまった方が良い。恐らくこれらは私の妄想だろう。しかし妄想だと知ってもなお、それはリアリティを持ち、私が私自身で私を棄損している。周囲の人間はただ無関心なのだ。ただただ、私は馬鹿にされている。それは良くしようとする彼らの理論で彼らの規則で、彼らのものだ。私はその中では見下され、上手く機能できていない。実際はそんなことはないのかもしれないが、そうした自動的な思考はカウンセリングから離れて結局強まっていく。このような精神の人間はこの社会に不要である。そう思うのは周囲の無関心と声を上げない自分が悪い。そうして周りばかり見て生きて来た私は、この社会に殺される。それらはゆっくりと時間を掛けて、私を発狂と暴力に溺れさせるやり方だ。この社会は病んでいる。私は死にたくないが、自死を望んでいる。殺してくれと誰ともなく呟いている。何も得意なことがないのだから、殺してくれよ。いつもいつも私が何も出来てないだとか、遅れてばっかりで何も進んでないだとか、そういう風に言われ続ければ私の心はしぼんでいく。しかし、それが社会なのだろう。だから仕事との繋がりが依然強い男性の方が自殺が多い。そして私も自殺したいと望んでしまっている。恐らく、死にたいと思うこと自体がそこら辺の人達の頭の中に浮かぶことはない。死ぬのは怖いが、自己が縮んで何も出来なくなるのも怖い。だから、それなら、私を殺してほしい。死ねないのだから、消え去れないのだから、あなたたちの手で惨たらしく殺してくれないだろうか。

 口内を刺した。いかなる思想も私を操るものであってはならない。自由であるべきだと喚くのであるがその不安に精神の安定は得られない。一人で生きて死ぬ。もはや何もかもが色彩を持たず、老化を始めた。私は余計なことに拘泥するので仕事ができないのだ。周囲に生かされる日々に幸福などあり得ない、そうした意味で私の肛門から口までを串が刺し貫く。その中で口内を刺した痛みを訴えたところで気にも留めない。何かをしても私にできるのはそれだけだ。もう色々言われてそれが上手く出来ないのに耐えるのは疲れたのだ。助けてなのだと言ってもそれは幼児性なのだ、頑張るしかないのだ。そうやって串刺しにされた私は死ぬ前の余韻だけで生きているのだ。助けて、という言葉は自身が何か出来ることがあるから言える。何も出来ないのだとすれば、助けてくださいなのだと頭を下げてもただのキャラクタープレイである。なりすませば満足か、それは違うと思う。胸の苦しさと目の際に溜まる涙は恐らく悲劇にすらならない喜劇なのだろう。私が男性であるから、私が社会に居場所を作れない、資本経済の中で生きられない人間なのだから、私はここで死ぬために文章を残している。誰も見てはいないが、私が死んだあと少しだけ残る。私には何もないから、このような文章だけが連なっていく。助けて欲しいと何か心の中でざわつくものがあるが、それらは具体的に何から助けて欲しいのか、それを表現出来ない。抽象的な話しか出来ないのが私なのだ。
 以前、声優では食えないから辞めて勉強を始め、社会の差別などを研究する者になりたいという記事を見かけた。夢を実現出来ない社会が問題なのだとその人は書く。actorが夢ならもう叶っているだろうし、それで食うのが夢なのだとすれば、凡百でないことを示なければならない。有象無象のvoice actorとして何があるのか、そう問われ趣味やキャラ売りが出来ないとしんどい。そうするより他ないのが演者であって、それらをただ頑張っても報われないから諦めた。生活にならないから、それは夢を叶えられない社会だから、私のように飛躍している。実体験。私は無能である。今所属する会社には必要ない。サラリーマンとして安い労働力として使い捨てられる程度の能しかないのが、頭を使いなにかを生み出すことなどあり得ない。私がせいぜい出来るのは言われたことを延々と続けることだけである。穴を掘って埋めるだけの仕事しか出来ないのだ、何かをすれば誰かが付け入り様々な指摘をする。その後にもう何を言っても無駄だと悟り私は自らを殺さなければならない。そうするための無関心、この社会は病んでいる。私が殺してくれと願うのも、こうしたいじけた精神が強さを増して身動きが取れなくなりつつあるのも、社会が病んでいるから。自殺する人間が悪い。しかし、それはこの社会がそれを導いているのだから、個人の問題、というわけでもない。だからこんな状況で尊厳死を始めれば、私のような人間は誰かによって尊厳死を選ばされるだろう。
世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火