自殺は社会の殺人である――。
私自身は死にたくないのだが、周囲を見て生活していると死ぬべきではないかと考える。
それらを声に出しても、どうありたいかも分からないのだから誰からも手を差し伸べられることはない。私は何も出来ないのだから、やはりこの社会からは早急に消え去るべきなのである。
生活に密接している仕事で自分を肯定できないと私達は自死を選ぶ。私は私なりに仕事で上手くいくように行動していたが、結局ぽろぽろと小さな失敗をして仕事が遅れる度にいろいろ言われる。それらは全て間違ってはいないし、私が留意してそれを避けられるようにすればいいのだが、準備が出来ないことはなくならない。そうしていつも指摘を受けてはこうしなければいけないだとか、じゃあどうするの、といった話になる。当たり前だ、そうしなければ仕事が進まないから、やらなければならない。そしてやろうとすれば結局考え無しを私に突き付ける。だからもう何を話していいのかも分からない。気を付けて仕事をしていても、何か聞いても、誰かが私を馬鹿にしているように感じている。私などいなくていいのだ、勿論労働力などいくらでも代わりが利く。私のように自身で居場所が作れない人間は消えてしまった方が良い。恐らくこれらは私の妄想だろう。しかし妄想だと知ってもなお、それはリアリティを持ち、私が私自身で私を棄損している。周囲の人間はただ無関心なのだ。ただただ、私は馬鹿にされている。それは良くしようとする彼らの理論で彼らの規則で、彼らのものだ。私はその中では見下され、上手く機能できていない。実際はそんなことはないのかもしれないが、そうした自動的な思考はカウンセリングから離れて結局強まっていく。このような精神の人間はこの社会に不要である。そう思うのは周囲の無関心と声を上げない自分が悪い。そうして周りばかり見て生きて来た私は、この社会に殺される。それらはゆっくりと時間を掛けて、私を発狂と暴力に溺れさせるやり方だ。この社会は病んでいる。私は死にたくないが、自死を望んでいる。殺してくれと誰ともなく呟いている。何も得意なことがないのだから、殺してくれよ。いつもいつも私が何も出来てないだとか、遅れてばっかりで何も進んでないだとか、そういう風に言われ続ければ私の心はしぼんでいく。しかし、それが社会なのだろう。だから仕事との繋がりが依然強い男性の方が自殺が多い。そして私も自殺したいと望んでしまっている。恐らく、死にたいと思うこと自体がそこら辺の人達の頭の中に浮かぶことはない。死ぬのは怖いが、自己が縮んで何も出来なくなるのも怖い。だから、それなら、私を殺してほしい。死ねないのだから、消え去れないのだから、あなたたちの手で惨たらしく殺してくれないだろうか。
以前、声優では食えないから辞めて勉強を始め、社会の差別などを