Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 悲しいかな、鳥が鳴いていた。彼は視線に殺された。その視線を送ったのは私だ。そのライツァー鳥が落ちるのを見ていた。彼はどこまでも飛んでいけるのだったが、私はどこへも飛んでいけないのだから、私が殺してしまったのだ。

 論理的整合性、繋がりのある文章が私は書けない。それは夢遊病者のように揺らめき、分裂病者のように自己の観念的世界観の中で総合される神を見出すかのようだ。太陽は消え、雪の時代がやって来る。私は焼け焦げることすら出来ずに、せいぜいやったことといえば自由と生存の軽さの責任を持つ鳥を視線で殺したことだけだった。

「他の人もやっていたのだから、いいじゃないか」

 そう囁くのは私がいじめに加担したからか、差別をしたからか。悪魔の囁きとはいうが、単に愚かな人間だから、それを切り離そうとして悪魔と呼んだ。鳥は全ての責任をもって生きていた。私は全ての責任を放棄していた。反対側からの視線は生き物を殺せる。それを分かっていたのに、それを止めることが出来なかった。

 私は誰かを愛したかったのだろう。しかしそれはもう叶わない。もう愛すべき人との関わり方を忘れてしまった。誰かを愛することが出来ないと知って、それがとても寂しい。だから自室にサメのぬいぐるみが増えていく。寂しいから、それなりに孤独を好んではいるが、それでもやはり寂しさはやって来るものだ。仕事以外で誰かと関わることが本当に少なくなった。SNSで誰かと繋がるのは空しいし、それが私自身にあまり良い影響を及ぼさないと知っているから、あまりやらない様にしている。これも愛故に、私は自分以外愛せないのだろう。最早ここまで来てしまったのだから。

 私が誰かと繋がれるのは、こうした文章と楽器を演奏することぐらいしかない。しかしそれはどこへも通じてない。音は周囲を震わせているが、それが誰かに通じてはいない。常に楽しく振舞える社会性のある人間達ばかりが視線の先に有った。私は幼いころからずっとその外側にいた。その頃から、人間の世界観の重なりについて考えていた様に思う。私はどこに居ても外側の人間である。どうしてか人間達とは壁がある。それは自身で作り上げた透明な膜のようなもので、そこから寄せ付けない何かを感じ取っているのだろう。対話が出来ぬ愚か者は、文章と音楽以外に他人と対話する手段を持たない獣だ。人間達は悲しそうな視線で、私を焼く。私は焼かれているが、それは太陽に祈りを捧げているから。人間達の視線や私に向けられる取るに足らない態度、うじうじしてんな、いい年の癖して。私は人間に焼かれたくないから、太陽に焼かれる道を選ぶ。火傷を作り、火ぶくれを割っては焼かれた後を残していく。それしかないのだ。

 私は殺したライツァー鳥を拾い上げて、悲しむ。そんな視線など必要なかった。太陽に焼かれようと、祈りはただただ内奥で反復されるうなりである。私はうなりである。だから人間に近接できない。時折近づけるが、その感覚を求めてしまえばやはり外側の人間なのだ。仕事は出来ず、要領が悪いと思われている。

 私は何かのプロでもない。

 私は何かの価値を持っているわけではない。

 私はただ死なずにここで消費行動の権化として振舞うだけだ。

 誰かを愛そう。そう思った時点で堂々巡りは始まっている。私は役に立てずに死んでいく。孤独な老人に向けられる視線で私は殺されるのだ。最早誰をも愛せない。人間の外側にいるから、そこから出て来られなくなったから。

 皆素敵な人生である。皆素晴らしき人生である。皆人間として許された人生である。皆全て自由な人生である。私もそのどこかに引っ掛かっている。増長するのは希死念慮だけである。全てを破壊しつくさんとするあのどこからともなくやって来る衝動は、日増しに声を大にして哄笑を上げた。初めは少女の容を取っていたが、今はそうではない。私に似た何かが私の中に入り込み、私が哄笑により再生産される。

 もしこれを読んだ奇特な人間がいたとして、手を差し伸べてでも来られたら私は消えなければならない。死という現象を見る為に、この世界と自らの関係性を構築する為に、私は思考を侍らせる。それは攻撃的で理性的で柔和で、何も選ばず、記号の連なり<文字>という形以外を取ることがなく、概念の林、海、空気としてこのWEBを漂う。ここに小さな形を取り始める。私は私の知性を愛している。例えそれが他の人間と比べて稚拙で短絡的で、何ら具体性を持たぬものだとしても、私に唯一許されているのが、知性に対する愛なのである。他の人間達がライツァー鳥に気付かず蹂躙している最中、私は彼を視線で殺したのを悲しんでいる。彼は死ぬべきではない、間違っても無意識の中で蹂躙されるべきではない。

 手を差し伸べるという行為は彼を視線で殺すことと同義である。それは社会性であり、万事うまくやろう、暴力を振るい合うようなことが無いようにしよう、という合理的なものだ。だから人間はそれをするがそれにイラつく。

「他の人が、いないのだから、いいじゃないか」

 手の中で壊れたガラスを握りしめて、割れた窓の先からライツァー鳥がこちらを見ているのを感じる。外は木々が白く化粧を施されて、そこから冷気がやって来る。私は外を見てはいけない。彼らを殺してしまうから。私はただガラスの痛みと血液が滴りぬるぬるとした掌を意識している。床面に敷かれたフェイクファーの黒いカーペットへ血液が吸い込まれて消えていく。

「他の人がいないのだから、駄目なんだ」

 そうつぶやくと一斉に鳥たちが飛び立つ。今までこんな寒い所にいたのか、と遅まきながらに気が付いたかのようだ。

 今日もうなりが身体から発せられていた。

 こんな暑いのに雪など馬鹿馬鹿しい。しかし冷気が入り込み続ける窓から外を見ることはない。私は私の血液が消えるのだけを感じなければならないのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火