Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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 私はブログを毎日更新したが、その結果得られたのはそれらが何も産まないということだ。仕事、会社から出された課題が休暇中に消化出来ず吐き気を伴う。もしくはただの現実逃避。逃避する先はどんどん消えていく。生きなければならない。首になる。私は社会不適合者だ、人間の営みの中で外れた個体なのだから、早く社会から去れ。憂鬱症の私は完璧主義者で、私は完璧ではないからその相違に苦しむ。欲を持つ人間の愚かさ、私がそもそも愚かなのだ。自己の頭で得られたものは限りなくゼロに等しい。整地されてそれで、終わりが完成する。仕事の意味と生きる意義と異議を唱える論客は内臓を掻き乱す。自己の中で世界観は摩擦し続ける。錬磨された世界はどこへも誰とも近接せず囲われている。宇宙の目が宇宙をやり直す。あの演奏の中から、自我は再訪である。意味のわからぬ文章を垂れ流すより他はない。それになんの価値もない。そもそもそれらは相対的だ。自身で価値を決めて誇る。しかしそれを評するのは他人だけである。そうして錯誤した結果、私達は自我の資本化、この資本経済に全てを差し出す。それを悪いとは言わないが、過剰になりつつある。そこから私を救い上げてくれ、そうして待ち受ける貧困。品行方正な形に入っていたらいつの間にかそうなってしまった。助けてくれ。しかし他人に不寛容でそれが自由として横たわるこの社会でそう言ったところで自身のカードで勝負する以外にない。それが分かりきっているから憂鬱なのだ。

 自殺は個人の問題ではない。それらは尊厳死があればなんとかなるものではない。その社会の病んだ構造を破壊しなければならない。自殺は社会によって病まざるを得なかった個人があり、それらは病人だ。病人に死を選べとその選択を用意する社会は間違いなく病んでいる。だから皆糞を愛する。糞まみれを喜んでいる。

 その結果私は傀儡であった。社会の形によって引っ張られて死ぬ。夢喰らい……私には何もない。近くに現れたのはただ生きているだけの自我。目につく個人を破壊せよ、見えないのだから一度だけ見える瞬間を作らなければならない。その瞬間に私は生きられる。一過性の銃弾を眼球にねじ込む。錐状体が吹き飛び私はその瞬間自我にヒビを入れる。外側に現れない致死性のヒビは認識出来ずにいる。私は単純な生命の判断機構の物体に変化するのである。複雑な脳神経系から離れろ、人類が哀れむ神経のこぶこそが私である。
 傀儡でない人間はどれだけいるだろうか。BLMも性差別もマイノリティも極左も全て傀儡である。イデオロギーの奴隷が暴力を振りかざす。人間は弱いから私達は自ら望んで傀儡となる。お前はお前の実存を亡き者に落とした。背負い込んだ考えはただ太陽礼賛のみである。そこで焼け焦げることだけが私をこの傀儡から破壊せしめる。糞だろうがそうなってしまえば関係ない。
 それらは目の前にない。私は愚かな自室で頭を抱えている。またはそれを知らずに呆けている。孤独は常に淘汰に怯えなければならない。先がないのだから、その身に破滅を宿し始める。宗教的な観念が私の頭を壊し、意識を持つ。掃除夫が作り上げた王国はその中でのみ機能し、それは周囲に出てもその王国として成り立っているとは言えない。そして、私もそのような王国の徒として、同様に王国を再建する。その為に太陽があり、構造破壊を目指し、この社会の短絡者としてここに言葉を残している。自身の言葉で語れよと歌手が言っていたが、自身だけに分かる言葉など、本当はいらないのだ。

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 男性はうっすらと嫌われている。この社会から、この世間から。それは被害妄想と私の病的な意識のせいだろうか。言葉はなく、私は太陽礼賛を続けている。あの熱で体を焼くこと、目を潰すこと、それ以外に私というものの意味はないのだ。あの忌々しい糞ったれどもはそれを上から潰すか、見ないままに私は死ぬだろう。自我が無ければ、意識が無ければ、私は狂ってなどいない。人間は無関心だ、ここに文章を並べた所でそれらが私を狂っていると証明するものではない。逃避なのかまだ胸が酷い苦しさを訴えてはいないのだから、私はうっすらと嫌われたままここで生きるより他ない。嫌われているのは、男性が居場所を獲得し競争するその暴力性があるから、自身に関係のない男性に警戒心を抱くということなのではないかと思っている。私は誰かに援助をしたのだったが、それらは追加された。しかしそのような余裕はなかった。自己の中に沈み続け、ぼんやりとした息苦しさと何も考えたくはないと思いつつも様々なことを考えるだけで行動に移せないその怠惰に焦燥を感じている。

 その中でも対話力に乏しい私はそれ以上だ私はその手を血で汚すまで見えないのだから、孤立している。先で挙げた氏の記事をもう一つ上げて私というものを規定してみる。何か箱に閉じ込めて安心したいだけの自我があり、この憂鬱の噴出する周期が短くなりつつあるのを私は感じている。

男性のつらさの構造|すもも|note

 この記事は男性だけに向けられたものであって、それ以上ではない。経済力を男性に求める女性の意識改革が必要とあったが、これらは今後十年で大きく加速するのは間違いない。この下降を続ける日本経済が昭和後期の景気の良さを取り戻すことはまずない。人が減り、経済の回る力は衰え、人が少ない分だけ優秀な人が出て来る割合も小さくなる。小さなパイでは小さな動きにしかならない。誰もが困窮すれば、一人よりも二人で生きるようになる。個人の時代、などと言ってはいられない時代が目の前に横たわっている。(未来のことは誰にも分からないが、今の状況を線形で想像すればそうにしかならない)だから、閑話休題。記事にあるモデルではうっすらと嫌われ、ジェンダーロールから遠ざかっている為に対人魅力がなく、孤立すると書かれている。ここではこの問題が生じる理由を「女性の高望み」としていたが、私はその先に存在しているのは高度経済成長とバブル期の亡霊を引きずった家庭環境やそれらを補強したり不安を煽るマスコミュニケーションがそれらの文化を醸造させたのではないかと考えている。実際にそうして来たから、それを見て育ってきたから、男性の経済力は依然重視される。また、アンケートでは不安が大きな項目のポイントが上がるのはある意味当然だとも思う。私は経済力と職業に今時点は問題はないが、おそらく世間の物差しで言えば問題がある。

 異性に重きを置くのは止めよう、それはインセルを助長する。そんな言葉が引用として記事に挙げられていた。インセルという存在は、その社会的文化に適応しようとした成れの果てである。異性とパートナーになることを社会は良いものとする。何なら至上命題と言っても差し支えないようにそうした話題で溢れる。思春期を迎えれば必ず異性と恋愛しなければならない。三十までにそうした行為が無い人間はどこかおかしい。結婚できない人間はどこか欠陥を持っている。そうしたような風土があり、それらが当然のように押し付けられる学生はそれに適応しなければならない。しかし、そうした能力が無い者、努力が出来なかった者、様々な要因でそこから見えなくされた者、こうした者達に異性に重きを置くのを止めよう、と呼びかけてもほとんど意味がない。子どもの時からそうやって刷り込まれてしまっているのだから、そしてそれらに無自覚に加担し、そういった人の立場が分からないほど恵まれている。だからといって、苛烈な思想や暴力、差別にまで発展すれば問題が大きくなる。

 こうした話になると大抵人は対立させて物事を考える。男性と女性の二項対立として問いが提示され、そうすることで私達は強制的に分断される。恋愛強者は女性だから、男性は経済力や甲斐性で求められることが多いから、そうした話をしても結局ポジショントークに終始してしまうことが多いように思うし、例えば男性を攻撃するようなフェミニストを自称する人たちもそこにあるのは深い憎しみと怒りが大半のように見える。人は、余裕のない時は攻撃的になるものだ。そうして攻撃して作られた社会が良いものになるとすれば、私はその社会を認めたくはない。それらはチンパンジーが他のグループの子供の脳を喰らうが如き所業と何も変わらないのだから。私達は知性と言葉でそうしたことを誤魔化す。本当に大事なものは目に見えないということから遠ざかり、寛容の心を忘れてしまったのだろうか。あるいはSNSがそれらのタガを外してしまったのだろうか。人間は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」なのだから、その灰色の領域を上手く泳ぐ必要がある。人間は世界観の重ね合わせで存在している。誰かが恋愛は摩擦だと言っていたが、そもそも社会生活そのものが個人の世界観の摩擦なのだから、それらを滑らかに近接させるような形を目指せないのだろうか。

 私にはソーシャルサポートもなく、ただただ孤立がある。糸杉を描いた画家の絶望はいかほどのものだったろうか。

 私はこの社会からうっすらと嫌われている。

 しかしそれは男性それだけではないものが自身にあると感じている。持たざる者はそこに存在していない。私の思考はこの場末のWEBから出て行くことはないだろうし、またそれらは誰かに見られることもない。

 人生はどんな瞬間を切り取っても孤独なのだ。

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 反知性主義である。私はその言葉をどこかで聞いたような気がするが、もう忘れてしまった。優生学のような考えで自身はこの社会にいらないのであると決めつけたせいで精神状態は非常によくない。(休みでも精神は折れたままだ。)ちょっとした話をしようと思いこの忘れ去られつつあるWEBの果てに文章を残しておこうと思っていた。だからここのブログは記号的なタイトルしか存在しない。それらが持つ意味はあるだろうか、私の中に様々に打ち込まれた社会性がざわめく自我が表出するだけである。これらの文章そのものが私を何ら規定しえない。これらの文章の連なりは私ではない。反応で生きているのが反知性主義だと考えていたが、おそらくその意味は間違っている。Wikipediaのささやかな集合知を借りれば、知性による管理や規範の構築を正しいと考えるのに疑問を呈する思想のようだ。人間は感情で判断するから、知性を一番上に据えるのはよくないぞ、と言う。知識層への憎悪や危惧も勿論あるだろう。単純に知性というものを否定し、それらはおかしいと言い張る。ワクチン接種を否定する人たちの論理性のなさ、眉唾ものな世界観を通して語ればそれらは時代を通して増大し、それらが私達の精神や肉体に悪影響を与えているという。私達に悪影響を与えているのは社会からの押し付けであり、社会を引っ掻き回そうとする者であり、長時間労働であり、高度な能力を求められ続けている事ではないかと私は思う。沢山働いても豊かな暮らしにならない反動があり、自らの畑に人を誘い込み幾許かの金を得たいが為の餓鬼じみた者の前口上に使われるのは『健康・美容』だ。未だにyoutubeで脱毛や減量、口臭などでコンプレックスを煽り、製品を購入させるような広告がはびこっているが、それに似たような雰囲気を感じる。現在の社会動向もあるだろうが、不安を煽るものがビジネスとして成り立ちやすい状況もあって、そうした者達の声が大きくなる。ここぞとばかりに人を不安にさせる蒙昧な言動は禁止できないが、一歩引いて考える知性が必要に思える。恐らく多くの人間は見ないものだが、そうした手合いが様々なものの成り立ちや歴史を知ろうともしてないのは当然のことなのだ。それは彼らの金にならない。資本経済の哀れな餓鬼なのだから。善を目指した行為には知性も感情も必要で、そのどちらもおろそかにするべきではない。

 しかしながら、私に判断できることなど何もない。個人の判断と了解の世界に対しそれらを否定する立場を有する人間などいないからだ。忠告や感想を述べることは出来る。それでも、親しいからと誠心誠意説明して止めようとしても、そこに迷いがない限り、自身の中で了解しているのであれば、それらは馬耳東風にしかならないのだ。いくらデータを用いても、いくら統計を用いても、沢山の判断を開示したとしても、本人が構築した世界観をずらすのは並大抵の作業ではない。SNSがこれだけ普及した現在に親しいものの助言は大きな効果にならない。エコーチャンバーとなっている情報源、世界観を構築するのは情報なのだから、それらを変えていくしかない。情報は広く無数にあるが、人間は好きな情報だけしか食わない。意識をしていても、偏向する。

 私が囚われている愚かな妄想ではあるが、下記の記事と私の現状から、その偏向の例を示そう。フェミニズムという言葉や活動はある程度社会に根付き、今声高に叫ばれているように見えるものはそれほど大きな問題でないと私は捉えている。

非モテ男性のつらさチャートに対する世の中の反応から垣間見える「非モテ男性のつらさ」|すもも|note

 なにかと氏の周囲には火種がある。それは私達が目を背けて来た男女の話だ。感情的なものだから、自由恋愛だから、どうしても反知性主義的な形になりやすい。それらに対して、数字が示せるものもある。言ってしまえば人間は反応の生き物、容易く先導され思考は周囲に溶け込む。かなり上手くやればそれらを自由恋愛だと錯覚させたまま、結婚や出生率の問題を解消できるはずだが、それらは民主主義でも自由でもない。案外嗜好や思想は生活に溶け込めば気付いた時に大きく人間の選択が変化しているものだ。また、動物は生殖を行いこの種の繁栄自身のデオキシリボ核酸の情報を紡ぐために存在する。これは生き物の種としての問題だが、上記で生じている話はそこに社会と個人の世界観が密接に絡み合う。そこには反知性主義的な反応や、納得や、様々な感情が渦巻く。だからその一方で数字を示し、そこにはこんな性差があるよと言っている氏の話も必要になる。機能から生じる性差と社会的に必要な性差、差別ではなく、差異があるのだから、それらを理解したうえで私達は関係性を構築した方が良いと思う。

 残念ながら性差の問題を私達人類は未だに上手く乗り越えられない。肉体的な特徴から生え出た社会のマナーがあり、私は<モテ>という言葉を理解できなかった。男性は女性の意味が、女性は男性の行動が分からない。沢山の個体へ生殖する必要があるが故に男性に埋め込まれた欲求、そうしてそれらは強い個体として女性が認識し求める。恋愛というのはそんなシステマチックなものではないと私の中に作り出された者が言う。それはその通りで、その上に私達が生きる社会が乗っかっている。しかし、これらのベースがあることを前提に関係性を考えなければならない。それ故にモテるという意味は男性であればある程度想像は出来る。多数の人間と、一人の人間、それらは機能から派生したこの社会が連れて来たルールなのだから。

 金銭を払い誰かと出会おうとした場合、ナンパをする場合、男性は数になる。現状無数に存在するマッチングアプリを覗いてみればそれは明らかだ。男性と女性に付くいいねやマッチング数を見ればそこに性別としての在り方の違いが如実に示されている。男性というもののハードルは確実にある。これも数字だけを気にすればの話にはなるが実際にそうやって人を煽り利益を出そうとする形が含まれ、私達は見る目だけが圧迫されていく。同じコミュニティの中で、自身と合う個体を探す場合はそこから一人。その時に様々な感情が表出するのが私は昔から苦手である。男性は追うもの、女性は受け入れるもの、という表現がこの社会ではよくなされているが、それらはこうした所からも垣間見ることが出来るのではないかと私は思う。実体験で言えば、私に対して大抵いいねを出す人は聞いてもいないのに個人的な連絡先を伝え、他の目的があるような人がほとんどだった。それらも資本経済の哀れな餓鬼の一種だろう。

 上記の記事で出ているのはある予測に基づくチャートであり、それらが事実かどうかを判断する情報を私は持っていないが、それらに対して出て来た反応はとても身近だ。高望み。確か氏が示していたデータの中で、希望年収や学歴の話があり、そこから導いていたものと記憶している。人から急にお前は高望みだ、と言われれば感情は高ぶる。だから多くは反射的に攻撃的な反応になってしまっているようにも思えた。誰かが難癖のように男性の方が人生は簡単だと言っていた。これに対しては性別毎の自殺率がそうでないと示せるように思うし、そもそも性別関係なく人生は大変なものである。生きなければならない、しかしそれは何のために? 社会的に押し付けられたものの中で自分らしさを考えるべきか、結婚し家族を成し……そうして死んでいく中に存在する大変さも孤独に楽しんで生きるにも、様々な大変さがある。個人の世界観の中にあるのは確実に私達が死ぬということ、この意識はもう二度とここに現れないということ、一つの宇宙が終わるので次に現れた宇宙は別物で、この意識は個人の中にしかいないのだからそれだけが私達の救いでもあるが、死に至る道のりは暗く不安に塗れているから大変なのだ。

 一つ言えるのは、これらの提示された予測に対して、それらが異なるのであれば、更新の余地があるのであれば、そうした意見があるのかと私は期待していた。しかしながらそうした積み重ねはほとんど得られず、そこにあるのはただただ否定で、個人的な攻撃に終始しているように見えた。モテたいと思ってもそこらへんの有象無象がそのようになるには結構な努力がいるよね、その一つに男女の関係なのだから女性にもこういうような視点がある。それが強いとつらいよね。ということだろうが、実際にはそれ以外の要因もあるのだから、それらが仮定でもどこかに示されるかと思っていたのだが現実はそう上手くいかなかったようだ。

 続きます。

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 快楽が動機である。解決がその先にない攻撃をする。社会性は構造腐敗を持つ。私達の正しさは快楽によるものというのは誰だって知っている。小学校で誰かがいじめられていた、それに加担した、ある集団の中で攻撃されるそれらが例えば大縄跳びで失敗した原因を作ったとか、ちょっとした仲違いがクラスの流れを作る人と起きた、とかでいじめが始まった。彼に対して石を投げただろうか。石を投げたことが無いものは少ない。石を投げた者はその行為になんともいえない気持ちよさを感じたことがあるだろう。正しいこと、というのは快楽を伴う故にそれは善いこととはならない。

 国で決めたことに従い、それを守るのが正しい。これは正論だ。ただ、それを常に完璧に出来る。というのは難しい。そこから外れていて本来はやってはいけないことだが、厳密ではなくグレーに扱われている部分もある。大きな迷惑を掛けていなければ問題としない。規範はあってもそれらの逸脱には履歴効果がある。全てをきっかりと守り、その中で活動する。少しでもそこから外れれば糾弾されるべき、裁かれるべき、それは正しいのだろうか。正しさ、とはそれほど融通が利かず、固いものなのだろうか。それらは正しい。しかし人間はそれほど理性的ではない。善く生きるとは、そんなようなものか、私はそうではないように思う。国の規範は私達が変えられるものだ。

 快楽にまみれた正しさ。正しくない行いなのだからそれを攻撃するのは当たり前のことだ。それでは私刑は正しいのか。正しい筈がない。それを決めるのは裁判所である。注意程度であればよいのか、よくない行動を指摘した時、自身の快楽に通じていることを常に念頭に置いておく必要がある。それらが分からずにただ快楽の赴くまま、正しさを押し付ける。状況的にそれが出来なかった、口を出さなければ問題になっていなかった。不安と快楽の狭間で揺れ動く私達には不条理がある。スマイリーキクチさんへの中傷が止まないのは人間が病んでいるから、快楽に基づいて自身の構造腐敗を引き起こす。構造代謝ではない行為に落ち込む数々の間違い。正しくないからとその人を死に追いやってもそれを理解できないだろう。正しいことをしたのだから、その自慰行為を私達は正しいと呼べない。呼んではいけないのだ。生きにくさや人間を疲弊させるような形で正しさを動かしていけばその先に人間が生きられる構造が打ち立てられることはない。何も出来ない。何もしない。プロセスは完成せず、快楽と感情は等しい。感情は善い判断を目指すために積み上げられもするし、刹那的に消費されもする。次へ残すものと個人で抱えていくものの差とはなんなのだろうか。

 そうした行為に励む人間は孤独を抱えている。人との繋がりを持つ、社会性を保つ。沢山の人と対話をして、その中で人の役に立つ。自分の行為で人の役に立つ。その行為の中にも先の快楽と同じものは生じる。しかし、そういった行動を取るにもそれらはすぐに効果が見られない。手っ取り早く社会性動物としての価値を実現するには規範から逸脱している者を糾弾する、注意をする、そうした負の側面からの行動であれば誰だって可能だ。私達は小さい頃に多かれ少なかれそれを実感として持っている。それだからか、過剰な反応よりもある程度の緩さをもって他人と関係性を構築する。しかし、孤独になれば社会性や人との繋がりを持つチャンスを得にくくなる。自己の世界観、個人の世界の中で生じる快楽は刹那的に消費される。だから誹謗中傷、過度な規範強制、そういったルールを外れた行動に我慢ならなくなる。どうして私はこんなに真面目に生きているのに、誰の迷惑を掛けていないのにと、狭量さを露わにする。その気持ちを持つ理由を経験として私は知っている。それらは、何もしなかったから現れる。

 義憤は適切に運用されなければならない。それらが誰かの快楽を伴い、その満足の赴くままに突っかかるような形を持つのであれば、それらは復讐となる。憎しみをもって、誰かを惨殺する。行きつく先は人間の暴力性である。果てに繋がるのが暴力ではそれが一時的な正しさを持っていたとしても、善への指向には程遠いのだ。

211015

 僕は何者でもないものになりたかった。高校生の頃、僕はシステムエンジニアというものになりたかったと嘘を吐いた。そうして情報系の学習を大学で始めた。数学はあまり出来ず、物理はそれなりに出来た。常に現実に把持され続ける僕は純粋な理論である数学とそりが合わなかった。ただの何も出来ない人間だとよく知っていた。アルバイト先の労働の問題を投げ捨て、どうしてかお金の問題は誰からも教えてもらえなかった。両親に聞けば調べろで特に何も言われなかった。何故、資本経済を生きる中で学生時代にそれらの話が隠されているのか、必要なら勝手に調べるだろうという手放し。僕らは何も考えなければ何も考えないままに大人になれる、社会人をやらされる。そうして都合よく新卒の型に流し込まれて死んでいく。だから何者でもないものになりたい。

 消えようと思っていた。今は友人たちもいて、僕には居場所がある。誰かと食事に行って話をして、様々な経験を積んでいく。院生に怒られる、僕は何も知らないから。何も出来ないから。少ししかない知性をもって成し遂げられるものはなにもない。そうやって僕は学生時代をそれほど有効に使えていなかった。ちょっとした楽器演奏を続けるだけの興味と、文章を積み上げることだけが残っている。誰かの散文詩僕のなにものでもない文章だけが僕を表現する。それでも生かされる必要がある。楽しいと思い込め、これは美味しいのかおいしいのだ。どこか浮ついた人生を歩いて来たから僕はただの嘘つきで素直な弱い人間としてこの世界に存在している。だから消えようと思っていた。社会に出ても自己を保てるほどのパンと葡萄酒を得ることは出来ないのは分かっている。お前のような人間はタクシー運転手だよとコンビニで言われたような気がした。言った人はその仕事を心底見下した様子だったから、職業には貴賤はないけれど人間は職業に貴賤を与える。だからその目が気になる僕はその中で機能不全を起こしてしまうと考えていた。僕は人の中に生きているが学校生活は社会の縮図だからきっと就職、正社員として雇用される結果も今と変わらない。なにをしていても付きまとう虚しさに耐えられないから、僕は消えようと思っていた。出来ないくせに、そんなことを思っていた。

 都内を彷徨う。様々な展示物を見て様々な文化を知ったつもりになっている。エジプトのミイラ、沢山の装丁、絵画、記号、イメージ、シュルレアリスム僕は言葉を並べ立てる。それでなにか自分が賢いものになったような気がする冷笑的妄想がちょっとだけ得意になっただけなのに、それで自分の価値が上がったような勘違いをしている。僕が彷徨って得られたものは人類の歴史から距離を取ろうとした意志。人間の中にいることに耐えられないのはそこで恵まれないからか、不遇だからか、それともそんな言葉を発するレベルでもないほど恵まれた人間だからその中途半端な立ち位置にいるからか、そういったぐちゃぐちゃとしたところからはっきりとした自己が欲しかったのか。それらは一人で散歩をしている時、誰かと惰性の会話を続ける時、ふと僕の元へやってきては無気力を誘う。何者でもないものがそこにいる。それらはいかなる形をも取らずいかなる形にもなる。自己の破滅さえももたらすような行動が僕の中にある。僕の中にある印象は徐々に友人や様々な人間から遠ざかり手に取ったものだけが残っている。

 消えた。手に取ったものだって落とせば消える。いつかは塵となって消える。そうした重さが僕と他人との距離感に存在している。僕はおそらくどこへも行けずに彷徨う。

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 先の地震を思い出していた。放射性物質を体に溜めない様にするためにはヨウ素を摂取するとヨウ素と結びついて体外へ排出されるから。ポピドンヨードを飲んだ人がいた。今回もそうならないことを思うが、人間は自分で何かを判断しようとしていない。誰かの権威付けがなければ動けない、それが一番正しい、それに目が眩み愚かな銭稼ぎを行う。本当に必要とされている人に届かない。自分自身がかわいいから、それが一番だから、例えその行動が利に適っていなくとも、結局不安の中で巡る命。ムラで生きていれば強固に異物を排し、個人で生きればこの馬鹿騒ぎである。感想と事実は分離されない。ウソのようなホントウのはなし。達には自分で考えて判断するということが出来ないのはそういった教育ではないから、スコアと横ならびとそれらに基づく権威付け。誰かが言ったを飲み込めないのが私達だ。それを理解していても流れに呑まれていく。レビヤタンが哄笑する世界は加速主義的だ。様々なものが早く回り、人間の処理や反応が画一的になるか、独特になるか、その様相はさながら遠心分離器のようである。

 快感を覚える。人は人を殺し憎み愛しその中で潰れ腐り果てる。私は一人で仕事をしたいわけではないのに、出来るだけ誰かの迷惑にならない様に行動したつもりだったが、誤解されてしまう。そもそも誤解しかないまま私は生きている。人間達の中にあるのが誤解なのだから、私は太陽以外を信ずることはない。極端な思考の私は誰かに頼ろうとすればそれに甘えた自宅では早く殺せと喚く。これは肉体と社会性の反抗である。私は私の中で反抗を繰り返しそうやって死んでいくのだ。ルッキズムという言葉が噴出した所で外見が整った者のほうが話に説得力がある。ダブルバインドに落ち込み、余計辛い思いをする可能性だって考えられる。ただただ極端な規制は誰かの被害妄想に端を発しているように感じている。ノイジーマイノリティが叫ぶ社会は現在の社会に対する反発である。単純に反対方向に足を向けるだけでそれらが具体的だが稚拙な解決構想として表出する。緩やかに繋がれないから攻撃しそれらを隠そうとする。色々な人がいるのだから向き不向きがある。ショービジネスがステレオタイプな美を提供しそうでない者はそうでない者で別の形で表現する。押し付けが生じるのはそれがビジネスだから、それに向かっていった際に資本を回さなければならない。そうして消費してもらわなければならない。だからその押し付けに苦しむ。あなたらしく自分らしくそれらが押し付けられそういう風にしか<らしさ>を考えられなくなっている。容姿で判断されるのが辛い。しかしながら人間が評価される<容姿>というものは所作、表情、言動、それら全てを含めた非言語的な対話に含まれてくる。パッとした美しさ格好良さは多分に積み増しされているだろうが、自分でやれるだけのことをやる。そうやって協調していければいいのだが、どうしてかそうならない。容姿の不当な扱いを増していると感じるのはマッチングアプリなどの出会い系だ。実際に会って対話するところから始まっていたものが画像・文章・個人の属性で判断する形となり、より一層人間を見ず二次元的なコードとして人間を理解しようとするが為に容姿というものが宙に浮いて現実味を失わせる。私達は自身を過大評価する。玉石混淆のカタログを眺めそこに自分を比較して自分のレベルがどこかを考える。過大評価をするから自身の場所よりも上向きに据え口では低く見積もったフリをしてもそうではないと思い込む。マッチングアプリ弱者そう評した所でそれらが過大評価である。自身の中に有るそうしたものを振り返る良い切欠になったので下記にリンクを載せておく。ルッキズムだと言うのであればマッチングアプリに対しそれらを助長するような形を禁ずるべきである。ただし私はその思想に同意はしない。人間が視覚と嗅覚の情報から逃れることは出来ないのだから、ある程度はそういった動物の特性として持っているのだと皆が自覚して、過度にならない様に気を付ければよい。それだけ人間か賢いかと問われれば、素直に首を触れないのが辛い所だが。

普通の人でいいのに! - 冬野梅子 / 【読み切り】普通の人でいいのに! | コミックDAYS

 これは戒めになる。私達は自分のことを上手く把握できない。意識の先には頼りないセンサーが付いているばかりで、それ自身を表現することがない。この主人公が持っている自身の過大評価、周りとは違う価値を持っていると思い、好意を向けてくれる人に対して向き合おうとはせずにだらだらと関係を続ける。勝手に態度を決め付けてその人を見ない。だから私は自身の中に埋まったこれらの押し付けを破壊する為に、1人で蛆が沸くまで生存を続ける。普通とは幻想であり、百に満たない数の処女であり、太陽ですら有り得る。尤もそれが私達を適切に照らす保証は全くないが。自己と他者の価値観の違いや世界観のズレを相手の責任に押し付ける。SNSのキラキラは虚飾であり現実はそれよりも淡々と進む。セックスは対等だろう。しかしここでは対等ではなかった。どうしてだろうか、似た者同士と納得できない自分。その齟齬に苛立ちキレては相撲を取る。やはり行動そのものに目が向けられることは少なく自己の世界観だけが底に横たわる。それらは重ね合わせで、重ならない領域が重なったように見えるのは階層の違いか薄く広く繋がっていくから。マインドフルネスの最中に見た膜面の幻、様々なものが薄く重なり合っている。自己はここにない、自我はここにない、それらはただ存在する。私は分厚い自身の膜の中で激しく振動する。それは外には出てこないのだ。

 経済活動を回さなければ崩れてなくなってしまうから、私達は消費の奴隷であり、またそのハムスター運動器具の内部で走り続けなければならない。回らなければ経済は止まり、会社は倒産し、私達は食うものに困る。回るからこそ弱者も餓死せずに生き延びることが出来る。ここから離れるのはとても難しいが、上手く距離が取れるような形が選択できるように考える必要がある。様々な問題提起そのものは社会の役に立っているが、残念ながらそれを解決する具体策は性急で広い視野で考えられているとは言い難い。目の前を漕ぐ時にその先に有るものが想像できているかを考える。SNSが分かりやすさを追求した為にそれらの活動も広い視野がなく、反対の意見を参考にすることもなく、爪の間に針を通すような付け焼刃でしかない。

 問題提起は出来ていてもそれらを長い目で見てどうすればよいか、継続可能な社会としての観点があるかどうか。現在広がっている話はSDGsの観点からやや離れているように感じる。グレーが容認されない。何かに所属すること、何かの思想を借りて代弁すること、ただただその場限りの義憤は何の解決も生まない。

310875

 無駄遣いが社会を回転させる。無意味な争いが生じているのは不安からである。自粛が続けば確実に食い扶持がなくなる。私達はどのような選択をすべきだろうか、やはり感情的に良い悪いと叫ぶだけでは意味がない。生き方や生活は変化していく、その先に存在するものはまだ見えないがより一層不安が強まる。極端な行動をするもの扇動するもの様々な意図をもってそういった行動をしている。勿論きれいごとを頭に掲げ、口を出せばその正当性を叫び騒ぎ暴力的に押し込み続ける。ああ誰も妥協はしない自身の世界観をぶつけて押し通すことを「対話」と喚きそれらを「全員で合意した」と言い張る。その先にあるものが個人や組織の利であるのは自明だ。事実と個人の感想の区別がつけられず、結果的な欺瞞が生じる。感想が不安を掻き立てるそれは感情だから。私は感情そのものを恐れる。不安定な感情は人間から社会性をはぎ取った何かにしか見えず、それらが見えるのが怖いのだ。取り繕った仮面だけ見せていて欲しいのだ。

 幸か不幸か今年は静かである。現在生じている距離は静かに不安だけを募らせる。平和を確かめ合うイベントが日本には存在する。それを利用するものがいる。これもきれいごとの例である。人間を1か0で判断し、戦う。全てを吹き飛ばしてしまえと私は思い様々なことが吹き飛んで部屋で丸まる。1も0も見たくはない、何も判断したくないのだ。その間の無限に揺蕩う。きゅうりメロンを育てたいと思った。きゅうりでもメロンでもスイカでもない何か、すずめうり。うりは子供、子供の時からうりを食べる。1か0の苛烈さはうつ病の要因でもある。死か生か、有能か無能か、迷惑をかけるから社会から消え去ろう。人間は何も出来ないのだから破壊しよう、お金がないのだ、お金があるのだ、友人がいないのだ、友人がいるのだ、ここでは点を塗りつぶす。点に帰れと誰かに言われた気がするのがやはり頭にこびり付く。消えてしまえよ。

 息抜き、集中力が続かないのは何故か、腰の痛みがひどく自己を欠いていく。軽いデッドリフトに失敗したのだ。外に出なくなっている。誰かの会話もなく、なにかのイベントもなく、正義感から他人を責めるのは恍惚以外何もない。正しさの檻よ人間を対立におく、対立とは適応、あれかこれか。あれもこれもと欲張るなと思想は極端な値を持つ。平和記念式典で騒ぐ連中は正しいだろうか、屁理屈はどこにでも存在する。自身が恵まれないから、世界が見えないから、もしくは見えているから暴力装置は幾つかの団体として存在する。気が付かないうちに、気が付いていても、何かを押し通すには集団の力を選ぼうそれが一番かそれは一番ではない。集団の安心感とヒステリーの加速は今の時代簡単に煽れる。そしてそれはもう証明されている。
 私は仕事が上手く進まず頭を抱えそれは昔から変わらず仕事をしない4,50代にその姿が重なる。彼らはかつての日本の名残でかつての狂騒、かつての技術、かつての世界観、そしてその残り香の中で産み落とされた私は脳無し、脳がないのだから判断は反射そのもの、意識は流れているがこれは本当に意識と呼べるのか、量子的振る舞いを自我と呼ぶ、太陽は反射でありそれを信ずるのなら私も射なのである。

 常に分裂を続ける。融合を続ける。赤黒く歪みその後に収縮して消えた。消えるのが意識、繰り返される宇宙の発作だ。自身でスキルを考えろと、何が出来るか、それらはニュートン式世界として全て予測可能である。このような分裂と実存、そうしてシニカルな人間観が私の世界観であり神は太陽より他におらず、人間は愚かと発しその後にタマネギから麻薬の販売サイトが現れる。しかしこれは本物か、それはわからない。薬物は太陽ではなくただの月光その刃は脳を焼く。愛は太陽から伝わる熱が分化したものだから、脳を焦がす。私は生焼けだ、太陽しかないのだから。これらの信仰はどんな宗派からも分化しない。構造代謝と回る社会がある限り太陽の熱は反射され大地を焦がすことはない、私が焼け焦げることはない。つまるところこの太陽賛美、信仰は元より矛盾を孕むのだ。人間が人間でないものへ社会の外側へ歩もうとする時、それらは反社会ではなくすべての人間の営みを捨ててしまう試みなのだから太陽の熱は反射されず、人間の中で焼け焦げて消えない。腐り蛆が湧くハエが唸る部屋の中で生じる生と死、破壊と創造、食物連鎖の宇宙が繰り広げられる。空間に侵食する腐敗と分解、構造は分解され全てが点に落ち着く。消えてくれ。その間に起きることは社会に人間に経済にとって隠され不要なものとして端に追いやられる。社会から死は隠され、ウィルスによって目の前に現れた。だから不安定で、感情は自由だから不安に怯える。こんな自由があってたまるかと構造の分解を恐れる存在と無、存在は無、哲学は私の頭で理解できないままだ。世界観なのだから世界は五分前に出来たし、私以外の人間は反応の権化であり、教育実習生のふりをすれば烏も人形も猫も何もかもが自我を持ち話しかけてくる。煙を燻らせた所で淫らな妄想が自身の頭の中に取り憑いて離れないでいる。不安だからだ。消費か死か、私は相談している。生きられないから、死ねないから。人間の知性としての反抗は太陽にある。

 チャイムが鳴る。私が生まれた時からずっとチャイムが鳴り続けるディストーションがたっぷりとかかったチャイム、不協和音、繰り返す。歪みは瞬間で切り替わる。見ている時見ていない時聴いている時聴いていない時、チャイム無しには生きられない生活、自由が存在したことなど一度もない。私が股座から頭をはみ出した時、あの海と太陽から追いやられた時、肉体を得た時、その時に自由は奪われ存在を始めたのだ。そこから響くチャイム〈拍手〉繰り返すチャイム〈喜びの声〉それが生きる間ずっと鳴り響く。誰もがチャイムを聴く、それ無しには生きない。授業が始まる、業務が始まる、終わる、朝のテレビが何事かを話す、必ずどこかのチャイムに出会す。それは太陽が昇る時、沈む時、時、時、時、それは時で人間から続く世界の理。時のアンカーとしてチャイムが存在する。鳴れば自動的に着替える自衛隊員のように私達人間は自動的に自立した風に見せかける。続けてきた世界観が全てだから、その先から内から出ていくことはなく、ぼろ家が改修され生き物のように拡大を成長を始めそれを能力と信ずる。それをすることの累乗、誇るのはただ自身の世界観だけである。

 私はカウンセラーの予約が立ち消えになりもう3ヶ月も経つのに今気が付いた。最早無いのかもしれない。あの場でさまざまな夢想を、妄想を、私は私として垂れ流す。ただ言葉を流してそれを拾ってもらう他人が理解できる世界観はそれだけしかない。私が私として持っている世界観とはまたズレていく。そのズレこそが世界観の亀裂でその中に潜らなければ私は社会から離れられないと感じた。思考はなく、理性はなく、論理的思考もなく、感覚で作り上げられる。太陽信仰だ。それは閉鎖的で新たな信者を生むことはない。それらはこれまで築かれた家族にのみ生じる。個人にチューニングされた信仰は何者をも拒絶する。そこには正しさも社会性も悪意も取り繕った仮面もない。ただ私があるだけで太陽は私との同一化を果たす。それは男であり女であり雌雄同体であり細胞分裂であり37兆を超える細胞の一つ一つに存在するミトコンドリアですら太陽と同じだ私は太陽で構成されている太陽は私で構成されている私はそれ以外に何もなくそれだけがこの社会の外側を歩くに値するものに他ならない。

 消えゆく細胞にも新たに再生される細胞にも太陽があり、自身が構造代謝であり、それらは腐敗を手引きし、破壊を導く。その為に太陽が必要なのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火