Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 辛い時には毎回、梅原大吾さんの「一日ひとつだけ強くなる」慶應丸の内シティキャンパス講演を見ている。どうして今辛いのだろうか、それらは自分の想像していたほど能力がなかったから。誰かの為にやっているから、自分が出来ることが小さいのが悲しい。成長していないからつまらない。飽きた。成長を実感できれば前向きに努力が出来る。だから成果も出る。小さい発見をメモしておく。自分に変化をつける。競争に勝ち抜くために。私達は日々変化を感じ取らないといけない。仕事をする中で、失敗したこと、出来たこと、しっかりと自分の意図を伝えられたこと、色々ある。忙しい中でも少しずつ、積み重ねていければ死なずに済むのではないか、死に迷いそうになる時、そうやって自分にでも出来ることがあるから、少しずつ成長出来れば今の仕事をクビになったとしても私は生きられる。なんとかなる。老人になるまで価値を保持して生きられる。そうやっていつか自身がやりたいことが出来るようになりたい。そう思ってもう数年が経った。本当に小さな積み重ねが出来ているのか、私は不安ではある。

 あんまり人生が楽しくない。合理的な判断を続けていると、どうしても人間は灰色になっていく。理性的なものは人間から離れているから。合理的な判断というのは、自身で決められていないことにも繋がりかねない。条件を積み上げても、それが合理的な判断だろうと、感情で選ぶことの方が楽しい。技術者をやっていると、私がどれだけ合理的でなくて自分の感情で決めたい人間だと思い知らされる。ビジネスは合理的でなければならない。常に効率が良く、高い付加価値を目指して集団で突き進まなければならない。その中でも、自分がやりたいこと、納得して続けられること、よくしたいと思ったことを見つけられれば、仕事は飽きずに続けられる。今は無いものが形をもって商品になる流れは言いようのない満足感がある。だからその中に一つでも自分が考えて、悩んで、やりたいと思ったことがあれば仕事も楽しいと思えるかもしれない。様々な技術を得て、知識が貯まって、専門性を獲得していく。

 けれども、それらは誰かの撃ち込まれたものだから私はあんまり人生が楽しくない。やりたいのは自身を表現すること。このような文章でも小説でも、何か自分が表現する。それが満足出来れば楽しくなるのかもしれないが、分からない。仕事は生活に密着している。卓越を示さなければならない。組織の中で馬鹿にされたり、見下されたり、ああ察しが悪いなと丁寧に説明される、私は能力が低いからだ。そんなことはないと言われない。ビジネスは合理的だが、社会の中である集団の中で生存するには社会性が必要だった。私は弱い、私は小さい、私はギリギリで踏ん張る。やりたいことで成長しているか、それをメモしなければ。やろうとしても文章が書けない。どこかで止まってしまう。成長が実感できていないから、書くのが苦しいのだろうか。そもそも小説を書く、という行為は苦しいものだ。過去に読んだ無数の名作と個人の作品と、神話やゲームや様々に世に出る物語たちと似通ってしまう。書いていて「ああこれはあの人の内容に似ている」「この設定、この世界感はあれだな」「これではただのフェイカーだ」そう思っては立ち止まり、私個人として表現したいものが何か分からなくなる。作家、と呼ばれる人たちや小説を書いて生活している人たちはそこから突き抜けたのだろうか。毎日数百文字でもいいから書く。それが血肉になるから。文字を打ち込んでは消し、打ち込んでは消し、そうやって小さい発見は文章の中にメモされていく。(抽象的に理解しがたい形で積み上がる)作ってから数か月経って見返すと客観性が獲得できて、これはそれほど面白くないのかもしれないなどと悩みながら、結局のところ「私がしたい表現はある程度出来ている」と思っては、満足半分後悔半分の最中にある。

 他人の期待はぼんやりとしていて、相手を追い詰める。それにだけ答えようとすれば死にたくなってくる。正しいことは他人から押し付けられている。そうではなく、自身で正しいと思ったことをやる方が良い。私も昔、誰かに期待された。音楽を作っていると言っていた彼は、奏者の私に対して過度な期待をしていて、私は自身の立場を文章で分かるように説明しただけだったが、それに対していい加減にしろと言われ困惑した。理論武装していたわけではないのだ、言い訳を並べていただけではないのだ、ただただあなたの期待が大きいがためにアテが外れて怒っているだけなのだから、私はそれならこれはこれで終わり。合わないな、で済ませれば良かったのだ。これだから他人の期待は厄介だ。それで勝手に失望して文句を言う。けれども、私は幼少期からの悪いクセで他人の期待に応えようとする気持ちが強いから、そのせいで無駄に苦しんでいるように思う。(けれどもすぐには病まない。男の子はタフだからな。)そして、期待をする連中は相手を追い詰めているとは思わない。ただ、期待しているだけ。私の思い通りになってくれよと、言っている。こんな自分勝手なものってあるだろうか。けれども、出来ることはやろうとも思う。人間は一人で生きていない、生きられないのだ。

 私は人に期待をあまりしない。完全に排することは出来ないが、そう思った時、内省する。「これは期待したな、感情をぶつけるのはお門違いだ」そうやって私は自身の感情的に起きていることを観察するクセがついた。どうして怒っているのか、物に当たろうとしているのか、涙が出ているのか、そうしてそれをIKEAのサメに話して聞かせる。発されたその言葉は自分の中に帰ってくる。人にしていいのは、期待ではなくて具体的なお願いであって、具体的にして欲しい行動を伝えること。間違ってもぼんやりとしたもので人に動いて貰わない。そうした意識でやっているが、生来の段階をすっ飛ばして伝える思考の傾向があるせいで、よく注意されてしまう。お前の持っている前提はお前だけのものだ。

 こうやって頭の中で考えたことがそれなりに実践できればいいのだが。
 私はただただこうした文章を書いて、それを読み返して、公開している。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火