Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

弱者のための世界3

消え去る前の小話

 無自覚な殺生が私たちの原型にある。

 羽から裂かれたトンボ、踏み潰されたハエトリグモ、暴力を振るう遊びが学生時代に有った。どうして小学生の頃にベンチコート狩りと称していちゃもんを付けられたのだろうか。頸動脈を押えられたとき、私の意識は消え、現れたモザイクは肉体の不自由さを十分に感じた。無意味に、無自覚に私は肩を殴られた時に泣いてしまった。ああ、暴力が私を嫌な所へ押し込めるのだ、と。

 弱者にペットが必要な場合もある。人間の中で上手くいかないから、他の動物と一緒に暮らしてシンプルな関係を築く。餌をやればついて来るから、彼らと生活を共にできるから。

 一番身近に暮らしてきた犬、馬は主にパートナーとして。
 私たちの赤子を狙って狩猟をしてきた猫は同居人として。

 私は同じ場所にいるだけの関係でも良いと思っている。目の良いハエトリグモはこちらを視認する。マウスポインタを獲物と思い飛び掛かる。持久力の無い書肺だから、しばらくすれば息切れして動かなくなる。
 それぞれ、どういった距離感で動物と関わりたいかだとは思う。ただ愛でる、可愛がる。そうした所から私たちは動物と暮らす。

 私は動物に対して責任を感じてしまうから、ぬいぐるみ程度でよい。何かを抱いて眠るとき、柔らかな感触がとりあえずの安心をもたらす。人生は誤魔化せればいい。そうして上下の分断が生じて、弱者として誤魔化されてお為ごかしの溜飲が下げ施策を享受して老いていく。孤独は癒しではない。単に変化が少ないだけの凝り固まった安心感なのだ。

 あまり知られていないのかもしれないが、ペットという表現はコンパニオン・アニマルに変わってきている。変わった所で、私たちが生殺与奪を握っているのは変わりがないが。
 言葉、記号表現が表面的な意味合いを変えればよいかといえばそうでもない。

 ただあるのは生殺与奪が私たちにゆだねられるということだ。
 人間の社会に連れてこられた生き物がそこで自由に生きられる筈がない。

(個人的な意見では、そうした変化をするべきではないという人間の責任は理解しても、その変化ですらもこの自然の摂理であると考える。人間だけが、それを特別な行為として認識する。それらの変化が他の生物を滅ぼそうとも、この地球で人間が生きられなくなろうとも、それが動物のありようなのだから。守ろうとしたものの裏にある犠牲は必然だ。)

 そうやって表面的な言葉に振り回される。他の動物は私たちのために生きているのではない。たまたま同じ場所にいたから、彼らを生かす責任を持とうとするのは非常に重い。SNSで癌になった猫を「最後は自由に過ごしてほしい」と無責任に外に「捨てた」話を見かけた。これは耳触りの良いことを言う犯罪者です。とACのCMに有ったのを思い出した。またはそれも見たのかもしれない。私は主体ではないから。

 自分の得にならないからさようなら。社会のルールからも外れ、生き物に対する責任は恐らく理解できていない。

 それらの発言がフォローされる、支持される。「何」を信じるか、ではなく、「誰」を信じるかばかりが溢れている。私たちは中途半端に弱いから、自身の考えで何も選べないのだ。私たちは決断しない農耕民族、なのだろうか。

 WEB上に溢れる有象無象のご立派な感性の中に正しさを見出すのは危険である。私たちは弱いからその流れに乗る以外ないのだが、せめてその間を流れることは必要に思う。何か一つあれば、それが人生の「攻略法」就職活動の表面的な攻略法とよく似ているが、そんなものは常に存在していない。はたから見えるものは結果である。たまたま適応の施策が上手くいった。運が良かった。この社会のルールに沿っていれば、そうではなく自分の力で成し得たことも確かにあるが、ちょっとしたタイミングの話でもある。

 ビタミンを発見した日本人の功績は、その後に発見された人の功績となった。
 英語で論文が出なかったからである。

 弱者は報われない。誤魔化しが大半だ。

 動物と一緒に暮らそうとも対象喪失は必ず訪れる。犬だろうが、猫だろうが、人だろうが、どうあっても別れなければならない。社会へのBest effortを繰り返していても、虚しさは付きまとうのがこの自我なのである。多くの人間の悲しみが癒えるのは四か月から十二か月掛かる。それ以上かかればカウンセリングなどで「感情の弔い」をする方が良い。しかしながらその機会もまだ気楽に出来る社会とはなっていない。

 どこか特別なものとして認識されていて、そういうことをするのは病気か、それに近い人間だけである。という世界観がこの国にあるように感じる。後は金額の話か。

 弱者だから、弱いところの話は親しい人であっても正しく感情に寄り添ってくれることはない。だから、もっと気楽な形でカウンセリングが出来るようになればいい。かといって、HSPは治せます! みたいなこすいビジネスに数十万は間違っている。弱者は利用される。斯様な連中がのべつ幕なしにこの資本主義に従い、稼ごうと知恵を絞る。人生の価値、意義をそこに置いてしまえば、誰も幸福にはならない。

 私は仕事で堂々巡りや同じ失敗を繰り返して立ち止まり、苦悩することがある。何故、私はこのように他人が出来ていることが出来ない、頭が悪いからだ、この社会で生きる価値が無いからだ。それならこの社会を破壊しなければならない。そうやって何かを起こして病院へ。そうした悪い想像へ落ち込まないようにするには、それはそれ、他人の真似を、感情に寄り添う時に注意しなければならないのは、肯定と否定をしないことだ。感情は環境を変えるための選択機構である。極端なところにある考えに紐づいた感情で何かを選択させてしまうのはとても危険な行為となる。

 先日マン・ダウンという映画を見ていた。そこに出て来たのは精神病の男だ。辛い現実はパパを壊してしまった。キャッチコピーと共に映画の出来としてはエンタメ足り得ないが、辛くなると衝撃を受けると自身のお馴染みの世界から抜け出せなくなる。教育実習の先生は天使を見付けるのだが、全て自分の中にしかない妄想である。しかもそれは終わらない強固な輪となり、人間をある一つの世界観に取り残していく。
 私たちは世界と接続し世界観は常に変化していくが、それがなくなる。個人の領分だけが世界であり、そこから得られるものは「世界」=「世界観」であり、それは接続ではなく一体化であり「灰化した世界」である

 事実は変わらない。感情だけが取り残されていく。
 だからそれらに寄り添ってあげないといけないね。

 私は私の中にその外側を用意しようとしているが、上手くいってはいない。

 生き物に対する責任が持てないのもまた、自分を生かすのに必死な弱者であるからだ。私はそれが怖くなり、このような場所で小さな反抗を、思春期の子供のように繰り返している。

 もう、三十代だというのに。

 私は弱いが、だから生きている。男の子だからな。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火