Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

弱者のための世界2

消え去る前の小話

 肝心なことを忘れていた。私たちが定義する「弱者」についてだ。

 本当に弱者とされる人たちと、これまで示した弱者は異なる。当たり前だが、意味合いはソフトなものになる。私はどこまでも卑劣であるから、そういったことを忘れる。ジャックナイフを頭に突き立てろ、それ以外に法はない。

 普通の社会生活を送る中で脱落してしまう人たち。またはその境界。

 こうした人たちはWEB上でHSPや発達障害テストをやって留飲を下げている。本当に苦しんでいる人たちに対して、やはり卑劣な人間である。もちろん私を含めてだ。

 全て中途半端なのだ。どこへ行こうとも、普通より少し劣っている。しかし、社会生活を送るには何とかやれている。愚痴や恨み節に塗れ、日常に発狂する。これまで上げて来た団体や連中もおおよそそういった人たちだろう。ただただ留飲を下げれば世は並べて事も無し。そうやって誤魔化して上下の格差は開いていく。かつての自由の国は、果たして自由だろうか。

 そも、自由を望んでいる人間など本当に存在しているのだろうか?

 私にはそう感じられない。そこには用意されているフレームがある。なあ、そこへ入れば自由なのかい? はは、こりゃいいや。なんだって用意されてらあ。

 お望みなら、この社会と酩酊をお渡ししますよ。

 だから弱者なのである。新自由主義がこの活動を加速させる。私たちは弱いから、様々なものにたぶらかされる。それは甘言めいて私たちの居場所を設ける。社会から孤独になった人間の行く先は極端な思想である。ここで話題にする弱者はそうした所へ落ちるか落ちないか、そうしたキワにいる。

 そうした人たちで協力できるかと言われれば、それも出来ない。徒党を組んだ所でそれは結びつきが強くはないのだ。誰かの考えを借り物にして積み上げられる自我、アイデンティティは勿論紛い物だ。そうした軽さがあるからやはり割を食う。

 糞の中で糞を喚く。それを喰って喜ぶ。

 人間とは食糞漢である。それに気付かずに匂いと色を偽装した糞を喰らって喜ぶ。勿論私も、これを読んだ人も変わらない。だが、それに反発する必要もない。この世界観と接続したところでそれは弱い。ニュートリノの観測ほどに姿は見えない。

 私は自身の短絡的な思考を恥じているからだ。すぐにそれは見て取れる。野菜しか食わないと決めて肉を喰う私を罰した。いいえ、それは罰したのではなくてパフォーマンスね、静かに寝てて頂戴。私は弱いのだ。意思が弱く、内奥の幾つかのキャラクターが語り始める。口々に叫ぶ様はただただこの現実世界からの逃走である。

 弱さとは逃避である。動物らしさとは逃避である。

 弱き人たちがどうしてもここから逃げ出せないのであれば、それはこの社会の欠陥である。この社会が人間をよりよくすることなど出来ないと匙を投げるのである。民主党から共和党を馬鹿にしている。N国に連なる。暴力革命を支持する。

 ああすべてがくそったれのなかで悲観することすら単なる自己恍惚に過ぎない。自我を破壊しなければならない。私の世界観はどこからも離れた接続を求めている。かのようなパーソナリティが社会にすり減り、かつての友人たちとの決定的な溝を描き出す。

 弱者を利用するのは簡単だ。適当に私たちに耳触りのいい言葉で実現できそうなことを語ればいい。選挙で五万円配布するといった候補者が選ばれてみれば難色を示す。民主党政権が発足した瞬間に喜んでいたのは誰だったろうか。

 私たちではなかったか?

 私たちが容易く利用されたのではなかったか?

 私たちが選ぶ多くの物事が何かによって間違った方へ進み始める。これは民主主義の敗北である。針の穴を通すような難しさがあるのが民主主義だ。「国民」に話題をすり替える人間、さもこちら側の人間だと思わせる連中。そういったものは数限りない。人間の歴史が始まった時から、おそらくずっとそうである。

 目に見えない弱者は、この社会に多く存在する。

 私たちは進んで盲になり、この轡を嵌めて涎を流すばかりだ。

 努力も出来ない人間はこの社会に必要ない。出来ることはなんだ、お前の価値はなんだ、私は何者だ、この世界にどんな意味がある。

 問われ続ける社会は、弱者には優しくない。しかし、今を手放すことのできる思想が私にはない。

 BIがそれを実現するかに思えたが、それはまだ分からない。

 結局、膨大な距離を付けた格差が、BIによって誤魔化されて私たちが生存するだけなのかもしれない。その差を決定付けるために、そこ以外に行けないように、一つの場所に縛り付けられる。この軽々しい自由を手に、私たちはそれを弱者の世界として受け入れなければならないのだろうか。

 ・・・ある一つの価値観がこの世界の自由である。

 そこに根差したこの意識はタワゴトだろうか。ただ、拗ねちまってる。

 大言壮語に過ぎた文章の連なりはいかなる世界をも描き得ない。語られた言葉を引用するだけのスポークスマンである。

 緩やかな奴隷として私たちは縛り付けられるより他ないのだろうか?

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火