Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 快楽が動機である。解決がその先にない攻撃をする。社会性は構造腐敗を持つ。私達の正しさは快楽によるものというのは誰だって知っている。小学校で誰かがいじめられていた、それに加担した、ある集団の中で攻撃されるそれらが例えば大縄跳びで失敗した原因を作ったとか、ちょっとした仲違いがクラスの流れを作る人と起きた、とかでいじめが始まった。彼に対して石を投げただろうか。石を投げたことが無いものは少ない。石を投げた者はその行為になんともいえない気持ちよさを感じたことがあるだろう。正しいこと、というのは快楽を伴う故にそれは善いこととはならない。

 国で決めたことに従い、それを守るのが正しい。これは正論だ。ただ、それを常に完璧に出来る。というのは難しい。そこから外れていて本来はやってはいけないことだが、厳密ではなくグレーに扱われている部分もある。大きな迷惑を掛けていなければ問題としない。規範はあってもそれらの逸脱には履歴効果がある。全てをきっかりと守り、その中で活動する。少しでもそこから外れれば糾弾されるべき、裁かれるべき、それは正しいのだろうか。正しさ、とはそれほど融通が利かず、固いものなのだろうか。それらは正しい。しかし人間はそれほど理性的ではない。善く生きるとは、そんなようなものか、私はそうではないように思う。国の規範は私達が変えられるものだ。

 快楽にまみれた正しさ。正しくない行いなのだからそれを攻撃するのは当たり前のことだ。それでは私刑は正しいのか。正しい筈がない。それを決めるのは裁判所である。注意程度であればよいのか、よくない行動を指摘した時、自身の快楽に通じていることを常に念頭に置いておく必要がある。それらが分からずにただ快楽の赴くまま、正しさを押し付ける。状況的にそれが出来なかった、口を出さなければ問題になっていなかった。不安と快楽の狭間で揺れ動く私達には不条理がある。スマイリーキクチさんへの中傷が止まないのは人間が病んでいるから、快楽に基づいて自身の構造腐敗を引き起こす。構造代謝ではない行為に落ち込む数々の間違い。正しくないからとその人を死に追いやってもそれを理解できないだろう。正しいことをしたのだから、その自慰行為を私達は正しいと呼べない。呼んではいけないのだ。生きにくさや人間を疲弊させるような形で正しさを動かしていけばその先に人間が生きられる構造が打ち立てられることはない。何も出来ない。何もしない。プロセスは完成せず、快楽と感情は等しい。感情は善い判断を目指すために積み上げられもするし、刹那的に消費されもする。次へ残すものと個人で抱えていくものの差とはなんなのだろうか。

 そうした行為に励む人間は孤独を抱えている。人との繋がりを持つ、社会性を保つ。沢山の人と対話をして、その中で人の役に立つ。自分の行為で人の役に立つ。その行為の中にも先の快楽と同じものは生じる。しかし、そういった行動を取るにもそれらはすぐに効果が見られない。手っ取り早く社会性動物としての価値を実現するには規範から逸脱している者を糾弾する、注意をする、そうした負の側面からの行動であれば誰だって可能だ。私達は小さい頃に多かれ少なかれそれを実感として持っている。それだからか、過剰な反応よりもある程度の緩さをもって他人と関係性を構築する。しかし、孤独になれば社会性や人との繋がりを持つチャンスを得にくくなる。自己の世界観、個人の世界の中で生じる快楽は刹那的に消費される。だから誹謗中傷、過度な規範強制、そういったルールを外れた行動に我慢ならなくなる。どうして私はこんなに真面目に生きているのに、誰の迷惑を掛けていないのにと、狭量さを露わにする。その気持ちを持つ理由を経験として私は知っている。それらは、何もしなかったから現れる。

 義憤は適切に運用されなければならない。それらが誰かの快楽を伴い、その満足の赴くままに突っかかるような形を持つのであれば、それらは復讐となる。憎しみをもって、誰かを惨殺する。行きつく先は人間の暴力性である。果てに繋がるのが暴力ではそれが一時的な正しさを持っていたとしても、善への指向には程遠いのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火