Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 反知性主義である。私はその言葉をどこかで聞いたような気がするが、もう忘れてしまった。優生学のような考えで自身はこの社会にいらないのであると決めつけたせいで精神状態は非常によくない。(休みでも精神は折れたままだ。)ちょっとした話をしようと思いこの忘れ去られつつあるWEBの果てに文章を残しておこうと思っていた。だからここのブログは記号的なタイトルしか存在しない。それらが持つ意味はあるだろうか、私の中に様々に打ち込まれた社会性がざわめく自我が表出するだけである。これらの文章そのものが私を何ら規定しえない。これらの文章の連なりは私ではない。反応で生きているのが反知性主義だと考えていたが、おそらくその意味は間違っている。Wikipediaのささやかな集合知を借りれば、知性による管理や規範の構築を正しいと考えるのに疑問を呈する思想のようだ。人間は感情で判断するから、知性を一番上に据えるのはよくないぞ、と言う。知識層への憎悪や危惧も勿論あるだろう。単純に知性というものを否定し、それらはおかしいと言い張る。ワクチン接種を否定する人たちの論理性のなさ、眉唾ものな世界観を通して語ればそれらは時代を通して増大し、それらが私達の精神や肉体に悪影響を与えているという。私達に悪影響を与えているのは社会からの押し付けであり、社会を引っ掻き回そうとする者であり、長時間労働であり、高度な能力を求められ続けている事ではないかと私は思う。沢山働いても豊かな暮らしにならない反動があり、自らの畑に人を誘い込み幾許かの金を得たいが為の餓鬼じみた者の前口上に使われるのは『健康・美容』だ。未だにyoutubeで脱毛や減量、口臭などでコンプレックスを煽り、製品を購入させるような広告がはびこっているが、それに似たような雰囲気を感じる。現在の社会動向もあるだろうが、不安を煽るものがビジネスとして成り立ちやすい状況もあって、そうした者達の声が大きくなる。ここぞとばかりに人を不安にさせる蒙昧な言動は禁止できないが、一歩引いて考える知性が必要に思える。恐らく多くの人間は見ないものだが、そうした手合いが様々なものの成り立ちや歴史を知ろうともしてないのは当然のことなのだ。それは彼らの金にならない。資本経済の哀れな餓鬼なのだから。善を目指した行為には知性も感情も必要で、そのどちらもおろそかにするべきではない。

 しかしながら、私に判断できることなど何もない。個人の判断と了解の世界に対しそれらを否定する立場を有する人間などいないからだ。忠告や感想を述べることは出来る。それでも、親しいからと誠心誠意説明して止めようとしても、そこに迷いがない限り、自身の中で了解しているのであれば、それらは馬耳東風にしかならないのだ。いくらデータを用いても、いくら統計を用いても、沢山の判断を開示したとしても、本人が構築した世界観をずらすのは並大抵の作業ではない。SNSがこれだけ普及した現在に親しいものの助言は大きな効果にならない。エコーチャンバーとなっている情報源、世界観を構築するのは情報なのだから、それらを変えていくしかない。情報は広く無数にあるが、人間は好きな情報だけしか食わない。意識をしていても、偏向する。

 私が囚われている愚かな妄想ではあるが、下記の記事と私の現状から、その偏向の例を示そう。フェミニズムという言葉や活動はある程度社会に根付き、今声高に叫ばれているように見えるものはそれほど大きな問題でないと私は捉えている。

非モテ男性のつらさチャートに対する世の中の反応から垣間見える「非モテ男性のつらさ」|すもも|note

 なにかと氏の周囲には火種がある。それは私達が目を背けて来た男女の話だ。感情的なものだから、自由恋愛だから、どうしても反知性主義的な形になりやすい。それらに対して、数字が示せるものもある。言ってしまえば人間は反応の生き物、容易く先導され思考は周囲に溶け込む。かなり上手くやればそれらを自由恋愛だと錯覚させたまま、結婚や出生率の問題を解消できるはずだが、それらは民主主義でも自由でもない。案外嗜好や思想は生活に溶け込めば気付いた時に大きく人間の選択が変化しているものだ。また、動物は生殖を行いこの種の繁栄自身のデオキシリボ核酸の情報を紡ぐために存在する。これは生き物の種としての問題だが、上記で生じている話はそこに社会と個人の世界観が密接に絡み合う。そこには反知性主義的な反応や、納得や、様々な感情が渦巻く。だからその一方で数字を示し、そこにはこんな性差があるよと言っている氏の話も必要になる。機能から生じる性差と社会的に必要な性差、差別ではなく、差異があるのだから、それらを理解したうえで私達は関係性を構築した方が良いと思う。

 残念ながら性差の問題を私達人類は未だに上手く乗り越えられない。肉体的な特徴から生え出た社会のマナーがあり、私は<モテ>という言葉を理解できなかった。男性は女性の意味が、女性は男性の行動が分からない。沢山の個体へ生殖する必要があるが故に男性に埋め込まれた欲求、そうしてそれらは強い個体として女性が認識し求める。恋愛というのはそんなシステマチックなものではないと私の中に作り出された者が言う。それはその通りで、その上に私達が生きる社会が乗っかっている。しかし、これらのベースがあることを前提に関係性を考えなければならない。それ故にモテるという意味は男性であればある程度想像は出来る。多数の人間と、一人の人間、それらは機能から派生したこの社会が連れて来たルールなのだから。

 金銭を払い誰かと出会おうとした場合、ナンパをする場合、男性は数になる。現状無数に存在するマッチングアプリを覗いてみればそれは明らかだ。男性と女性に付くいいねやマッチング数を見ればそこに性別としての在り方の違いが如実に示されている。男性というもののハードルは確実にある。これも数字だけを気にすればの話にはなるが実際にそうやって人を煽り利益を出そうとする形が含まれ、私達は見る目だけが圧迫されていく。同じコミュニティの中で、自身と合う個体を探す場合はそこから一人。その時に様々な感情が表出するのが私は昔から苦手である。男性は追うもの、女性は受け入れるもの、という表現がこの社会ではよくなされているが、それらはこうした所からも垣間見ることが出来るのではないかと私は思う。実体験で言えば、私に対して大抵いいねを出す人は聞いてもいないのに個人的な連絡先を伝え、他の目的があるような人がほとんどだった。それらも資本経済の哀れな餓鬼の一種だろう。

 上記の記事で出ているのはある予測に基づくチャートであり、それらが事実かどうかを判断する情報を私は持っていないが、それらに対して出て来た反応はとても身近だ。高望み。確か氏が示していたデータの中で、希望年収や学歴の話があり、そこから導いていたものと記憶している。人から急にお前は高望みだ、と言われれば感情は高ぶる。だから多くは反射的に攻撃的な反応になってしまっているようにも思えた。誰かが難癖のように男性の方が人生は簡単だと言っていた。これに対しては性別毎の自殺率がそうでないと示せるように思うし、そもそも性別関係なく人生は大変なものである。生きなければならない、しかしそれは何のために? 社会的に押し付けられたものの中で自分らしさを考えるべきか、結婚し家族を成し……そうして死んでいく中に存在する大変さも孤独に楽しんで生きるにも、様々な大変さがある。個人の世界観の中にあるのは確実に私達が死ぬということ、この意識はもう二度とここに現れないということ、一つの宇宙が終わるので次に現れた宇宙は別物で、この意識は個人の中にしかいないのだからそれだけが私達の救いでもあるが、死に至る道のりは暗く不安に塗れているから大変なのだ。

 一つ言えるのは、これらの提示された予測に対して、それらが異なるのであれば、更新の余地があるのであれば、そうした意見があるのかと私は期待していた。しかしながらそうした積み重ねはほとんど得られず、そこにあるのはただただ否定で、個人的な攻撃に終始しているように見えた。モテたいと思ってもそこらへんの有象無象がそのようになるには結構な努力がいるよね、その一つに男女の関係なのだから女性にもこういうような視点がある。それが強いとつらいよね。ということだろうが、実際にはそれ以外の要因もあるのだから、それらが仮定でもどこかに示されるかと思っていたのだが現実はそう上手くいかなかったようだ。

 続きます。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火