Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

記憶と記録

消え去る前の小話

 こんばんは。年末なので言葉遊びです。

 記憶したものはその流れを捉える。

 記録したものはその物語を積み上げる。

 私たちが時を保存しようとするとき、そのどちらかに頼るしかない。世界が終わるのだ、終わって欲しい、殺してくれ、生かしてくれ、世界は終わらないよ。記憶だから。

 映画、ソラリス(ソダーバーグ版)を見ました。そこからぼんやりと考えていたんですがね、結局人間が選ぶのは物語で、愛もそこにある。複製された物語に愛はあるか?

 記録が記憶と距離を持つほど、その乖離は埋めがたい。記憶がないのだから、記録に従うしかない。記憶の中で私たちは愛を見出すように思いますが、どうなんでしょうか。愛が記録されたとして、それらは結局受け手の物語に過ぎない。死という記録から、レアという記録から、物語の中で生きる。もうそれしか体の動かし方を知らないから、記録がなくとも愛はある。

 けれど物語の中で自分本位の愛を選ぶのも、それはどちらが正しいとかはない。

 選ぶだけだ。

 ジバリアン(?)もそう言っているし。

 そうした一つ一つの積み重ねで世界観は作られる。私たちが生きる物語と化してきたのは、記録が氾濫したからだろう。

 それが愛でなくとも、楽であろうと、なんであろうと、私たちは物語の中を生きるしかない。理論から導き出されたユートピア的思考のまやかしに私たちは付き従う。隷属している。物語の奴隷である。

インフルエンサー・ハザード【1/2】 - YouTube

 現実から様々なものが取り払われた物語が、私たちの生き方である。

 上記の動画のように惑わされふらつきがちな私たちは物語の中で生きている。記録したものの中で、その記録がシナリオとして現れ、そしてその流れが記憶され、更なる物語へと分化する。現実逃避の物語を作り上げる。

 実際は安易な物事などない。テクノロジーが個の力を高めたとしても、物量にはかなわない。共有される世界観が多くの人を取り込んでいるのであれば、それで回る。忘れ去られていく私たちはその中に入っている。

 物語の入れ子構造によって、同じものが氾濫する。安心と隔絶。違うものを、興味があるものを取り入れ続け、気付けば世界観は非常に狭く一寸先は闇。

 小説家になろうに溢れるテンプレート作品も、個人が物語として生きるようになったことの表れであるように感じる。記録に従って私たちは誰でもシナリオを作り、記憶に従ってその中を自身で動き回る。

 私はテンプレート作品が怖くてたまらない。ある程度の「定型」に沿うのが物語で、落としどころはどれもそれほど大きくは変わらない。見せ方だと思う。キャラクターが機械のように動いていると感じた時、その裏にある無機質な感覚に怯えた。

 しかしよく考えればそこに求められる価値を回した結果だ。コンプレックスを煽る商品も同じ。売れるから続ける、売れれば多少の瑕疵には目をつぶる。

 細かいことばかりが気になる私が勝手に怯えている。娯楽を娯楽として楽しもう。健やかな考えと健やかな生き方をしよう。

 それが出来ないのは、太陽を浴びていないから。

 自身に囁きかけてくるキャラクターも同じようだ。買い物の最中付きまとってくる何かとやり取りを平気で始める。しかしそれらは不定形でぐずぐずとしている。

 こうした物語にはいつでも回答が用意されていて、安心がある。毎日少しずつ消費するドラッグのような形で私たちを狭い箱の中に押し込めてしまう。電子ドラッグは言葉で、音で、動画だ。SNSが薬物のように扱われれば、それで人を動かせる。

 麻薬は人生と言った作家も止めようとはしたが、熱心なファンが送って来れば止められない。アヤワスカの強烈な吐き気に我慢ならない。変な匂いの煙草だな、とだらけたベッドの上で記憶と知覚が混ざる。やってはいけないよ、というのは法的な罰、ルールに従っている方が利を得られるから、しかし追い詰められれば、その利益が感じられなくなれば、もしくは刹那的に目の前だけで生きていれば、集団で生きる弱い協調性を煽られれば、いつも簡単に破られる。人がルールを破るのは容易い。弱いから、何故弱いか、経済苦か、孤独が生む独り善がりか。

 そうすれば結局、不利益を被り、罰を受け、より一層駄目になっていく。

 いままでの物事を全て台無しにしたいですか?

 したくないですか?

 毎日問われている。私はもう日常に散逸することが出来る。思考は切り離され、記録を紐づけるだけに使われる。

 人間関係が記憶から離れ記録となった場所で「人」という単位はコカインの一吸いにも似た形となる。同じものをみて得られる快楽、人間関係は違いをすり合わせる過程で生まれる。記録ではなく、記憶として、形作られる。

 ここまで考えて、明らかに杜撰な考えの動かし方だ、と私は頭を抱える。

 記憶は一つの現象として生じるが、記録はそこに置かれる。この差が埋められないので、私たちは記憶そのものをどこかに置くことが出来ない。

 記録しか持ち越せないから、全てのものの記憶が失われる。

 長い時を経て残った記憶は、どこへ?

 私たちから取り上げられてしまった。

(友人に指摘されて考える。私は狂っているのだろうか、やたらと攻撃的な知性が現れればそれは社会からはみ出てしまう。普通にやっている、気を遣って生きているつもりだが、ただ断絶しているだけなのかもしれない。様々なもののあほらしさに、私自身があほらしい人生を送るのに我慢ならないのは攻撃性がなくとも変わらない。繰り返される内省で極端な思考に至らないのであれば、振り返ることが出来るのであればそれはそこら辺の人間と同じである。太陽に焼かれる為の秩序も、掌に残る水ぶくれも、それらが選ばれた時に、私が私として容れられた世界観の話であって、それらはこのような散文にちりばめられているだけである。他者の世界観と接続することはほとんどなく、そうしたとしてもそれは弱い接続に他ならない。あっ、ちょっと独特の世界観をお持ちの変人ですね、距離取っとこう。それで済む。そうであれば狂っているとは言えない。なんでも全て何かに定義付けなければ生きられないのであれば、社会的な正しさ(常識)だけで自由を囲うのであれば、私は散逸しかない。しかしながら私は穏やかな気質ではないのかもしれない。だからこうした散文以外ではあまり他人と付き合わないようにしている。付き合えなくなった、という方が正しいかもしれない。)

 しかし、それでは、

 私は自ら捨てたのではなかったか?

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火