Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 人間とは嘘つきである。だから私は正直に嘘を吐く。物語や文章を組み上げることは嘘を吐くことに他ならない。また他人の世界観は嘘を内包する。世界から浮く世界観が私達を構成する。だから私は正直に嘘を吐く。お前はどうだ貴方はどうだどうだと問うたその言葉すら嘘である。自身の中で反響する無響室の楔に吸い込まれる言葉文字それらの声は現象エクリチュール常に音と字は正しいがそれらが組み合わされた現象は嘘になる。概念という人間のフィルタを通したものは嘘である。

 作られた差別と綺麗ごとの蔓延する社会。故に私は二項対立として様々な物事を語るのは好かない。左翼だの右翼だのそんなものはどうでもいい、イデオロギーなどゴミ箱に捨ててしまうべきなのだ。結局対立し争い何かを奪いただただ利を得ようとするだけのこの人間という機械、反応装置にほとほと嫌気が差している。しかしだからと言って目を背けるわけにもいかないのだ。人間の条件の本質は活動であるそれは嘘でもあるがそれで社会が組み上がった。全ての人間が社会を考え行動できるような所が必要なのだ。面倒くさい、興味がない、そんなものは必要ない、投票したって変わらない、変わらない。変わらないのはお前の世界観だけだ。構造は代謝される。指向性のある代謝は腐敗と表裏一体である。国家の解体がもたらすものはなんであろうか、平和とは、現状維持か? 学校で会社で、嫌なやつもいればいいやつもいる。国も同じだ。はっきりと立場を主張しなければ私のように押しつぶされ悪夢のような現実と愚かにも社会に打ち込まれたものに苦しむようになる。だからこれは遺書である。人間とは嘘である。他者の意識の存在を認知出来たか、それは出来ない。あくまで感覚器発話動作を通して意識が現れようとするがそれそのものではない。差別がそれそのものの撤廃として提示されていないのはそんな撤廃の構造を人間は持たないから。全ての概念は人間に利用される。

 差別という構造。人間には予め社会性を保ち生存するための機能として差別が組み込まれている。私達のコミュニティの存続の為、私達のグループが脅かされないよう、異質なものは排除する。考えに合わないものは排除する。そうやって同質化を図り、数を以て生存を行ってきた。現代社会ではそのようなことはさておき理想論として差別をなくそうこれは差別だあれは差別だ言っちゃいけないよとどうしてか綺麗ごとの中にそれら自身が持つ差別を内包しているのは何故か、それに触れてはいけない様にすれば何が起きるのか、言語化してはならない。これ即ち概念として保有してはならない、透明なものとして透過させよ、、、差別は利を得るための道具として用いられる。だから綺麗ごとに他ならない。不公平をなくそうではなく特権を。デリケートなものだからこそそれを上手く利用してやれ、使える者はなんでも使おう。これは動物として正しい。だからそれが「悪いこと」とか「善いこと」といった判断はない。その利の先に不利益がある。それがもたらすものは誰にとって必要なのか、誰が望んでいるのか、そしてそれは私達とどうつながっているのか、考えていくとあまり良い答えに辿り着くことはない。試しに日本において口にするのが憚られる単語で調べてみれば最早弱者の権利はただただ戦略的な一つの手段と成り果てつつあることが理解できるだろう。人間はそんなものは欲しくないというのに、声高に主張するものはなにか、私達はそれらの活動を感情的に「かわいそう」で判断してはならない。人間は感情でしか物事を判断できないが、それは理性が最終的には結論を出すものではなく、適応の為に持ちえた理性は動物性の補助に過ぎないのだから。そして人間綺麗ごとを語れなきゃ終わりだが綺麗ごとを利用する人間にはなってはいけない。理想など目指すつもりもない、今の社会に蔓延る差別は構造腐敗を生じさせるなにかでしかない。弱者を利用し弱者を踏み台に弱者以外の利を得る。これも世界観の違いの一つではある。しかし本当に弱者の為に考えることは出来ない。私は私の利を得る為に弱者と協力する、共に生きるのは協力し合いどちらにも利があるからだ、個人同士のシナジーを考えるのが人間である。しかし弱いものを利用しただしゃぶって捨てるといった行為の方が社会には多いのである。 

 他人の利を考えられないのは個人の世界観と衝突する動物性があるからだ。ここで言う他人とは個人だけでなくコミュニティグループ私達が所属するものを含めている。私達の前提は動物である。動物が持つ機能は人間の持つ適応とは少し異なる。世界の概念化が人間よりも少ないそれは複雑な言語が存在しないからだ。クジラの歌やイルカの声がコミュニケーションとして用いられるのは周知の通りだが言語として文字として複雑に概念化できるようなツールとしては用いられていない。情報が少ないということはそれだけ個体同士の世界観のズレが小さくなる。動物たちの世界観には秩序やルールは複雑ではない。社会性の昆虫が作る社会はシステマチックに機能し、私達の社会のように弱者を救ったり求められる機能がグラデーションではないからだ。冬虫夏草に感染されれば巣穴から外側へ追いやられ犠牲を最小限に留める。縄張りが衝突したグループで負けた方の子供を優先的に殺しその脳を喰らう、徹底的に滅する。多くはその活動が人間のように短いサイクルで変化しない。ラブカという鮫が古き時代からの機能を継承しているように、長いサイクルで世界観が変化する。緩やかな構造代謝が動物達の中にはある。そして差別はそちら側に根差した行為である。先に挙げたが、差別はコミュニティの維持の為、自分たちが死なない為の構造代謝が動物にはある。弱肉強食にはルールは存在しない。私達がムカつくからイラつくからと目の前にいる人間を闇討ちしたりしないように、社会にはルールがあるがそれらは人間の世界観。そこから反発する行為が差別であり、この動物性の構造が私達の感情でありそれを上手く利用すれば利を得ることは容易い。多くの同情は正しさを担保しない。私達はそれを理解しているのだろうか。

 

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火