Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

310108

消え去る前の小話

 感染者を特定するような質問が飛び交う記者会見を見ていた。ああ、まったくもって無意味だ。一個人の問題に矮小化すればコミュニティの安全が保たれるとでも思っているだろうがそれは有り得ない。感染者の実名をチラシで配ったり、感染者を出した店に抗議したり、そういった簡単な問題ではないのに、これまで所属していたと思い込んでいたコミュニティそんなものはこの社会で消し飛びつつあるというのに。感染は悪か? 感染は自然現象である。対策をしていても、ただ運が悪かったというだけで誰もが感染のリスクを持つだからそうした所を攻撃しても満たされるのは自身のお気持ちだけなのだ。適切なリスク管理と意識を持っている人間は限られているというのが分かってしまった。また、飲食店を公表することで得られるものはなんだろうか、それは店主の借金か、はたまた更地だろうか。ワクチンが出来ればいい、そうすればまたあの時に戻るはずだ。そうならなかった時に私達は何を考えればいいのか、どうしなければいけないのか、それらは感染者の特定といった些末事ではない。経済と医療の天秤を考える。尊厳死の有り方について考える。どこかで妥協できるところを模索しなければならない。私達はきれいごとが大好きだから、どちらも取ろうとすれば問題が出る。問題が出るならどうすればよいのだろうか、グレーを許容できずに身動きが取れなくなる。それだけは避けなければ。個人のレジャーの為に、気分転換の為に外に出て活動するのも我慢しているのだから、という話もあるがだからといって感染者を攻撃したり差別を始めてしまえばそれらは歯止めが効かなくなる。個人の自由と感染のリスク、これらを判断するべき指標は今のところ誰かが用意してくれるわけではない。ポジショントークに徹すればそれはどちらも立たず共倒れの未来しかない。自粛を続ければいい、そうすればかからないのだから、家で遊べばいい。これで回る経済を作るのか、その後に来る仕事や社会に備える。自分がやれることは何か、それを明らかにしておくこと。他人が安易な行動で感染しても責めないこと、感情が膨れれば混乱が広まる。

 人間はやらなければならなくなった時だけ適応する。命を突き付けられた時、行動を迫られた時、これまで考えない様にしてきたこと、これまで必死に、自己の世界観の中で楽しく暮らしてきたから、それが改めて提示されて混乱する。対岸の火事。差別は対岸にあるものか? 感染は対岸にあるものか? 死は対岸にあるが、その道のりはどうだ。外側から冷笑的に見ていたものが目の前に提示される。さあお前はどうするのだお前は何を選ぶのだ。そうやって生きていたが、そうでもない。勉強が出来てある程度の学力を身に付けられれば日本という国ではまだ選択は少ない。しかし死は私達の目の前に横たわる。だから生き方は選ばなければならない。公務員が安泰だとか、いい相手をマッチングアプリで受動的に望むだとか、これさえすれば人生は攻略できるだとか、自己の世界観で楽に作り上げた世界観が通じなくなる時が必ずやって来る。やらなければならない、と私達が必死になるのはいつだろうか。

 そしてまたこれらの問いが提示されれば人間はギョっとする。今のパンデミックBLM女性も人間だチーズ牛丼類を挙げれば無数にある。これらが何を示しているのかと考えればヒステリーなのだ。感情のうねり歪な正義糾弾様々な負が生ずる。うつ病の私は完璧主義者だ。0か1、Dead or Alive、横断歩道の白線から足を踏み外したらそこは溶岩、これは悪い事だ、絶対に無くさなければならない。人間から悪いことを取り除くことは不可能だろう。天秤は過渡的な変化をする。人間も赤子から大人、大人から老人、これは節目が来てすぐに生じる現象ではない。全てが経時的変化でありそれらを単純な世界観のモデルで0か1にすることなど不可能なのだ。グラデーションをレッテル張りしてかくかくしかじかこれはパーソナリティ障害ですなどと言った所でそれで何か変わるわけでもない。障害とはなんであろうか、出来ることと出来ないことがある、難しいことは出来る人がやればいい、そうやって協力してきたのが人間ではなかっただろうか。それらは決して振りかざされるものではないし、それらで虐げられることがあってはならない。極端な行動や選択が増えているように感じるのは、私達が極端で分かりやすく簡単なものばかり摂取してきたからではないか。SNSにおけるエコーチャンバーと極端な情報の伝播とそれらの情報が精査されることなく流れていく。そうして上記のような分かりやすい言葉や画像、概念といったものが飽和し感情が溢れる。本当にしなければならないことが分かりやすさと人間の感情を揺す振りやすいモノたちでかき消されていく。間違った情報は訂正されても訂正後の情報が回ることが少ない。そうやって考えたり、意見を突き合わせて何かを積み上げていく行為が取り沙汰されなくなる。本当に大切なことは目に見えないとはキツネの言葉だったが、私達は「これはただの箱さ!」とその箱の中にいた羊たちが想像できなくなっている。待てばいいのに見ているのは「いいね」だけなのだから、同意する者達だけで集まってそれが正しいと主張してもそれはただ数の暴力に任せて攻撃しているに過ぎない。個人の世界観の重なり合う部分を沢山揃えれば人間は安心するから、そうすればコミュニティが保たれるから。社会性を持つ人間だから当たり前の活動ではあるのだがお前は何を選ぶのだと提示された時に分かりやすく感情だけが揺さぶられるものを手に取った。それが解消されれば安心するから、具体的でなくとも現実的でなくとも、ただ消費されればいいのだ。

 その先にある世界を決め付けたいという妄想。SNSは分かりやすさとセンセーショナルな内容で情報が伝播していく。そして誰それはこうだ私はこうだそうやって1か0かで決め付ける。個人の生きた世界観に基づいて人間とはこうだこういった言動をしたからこうだと適応するにおいて様々な物事のモデル化が行われる。個々人の人間のモデルそれらがレッテル張りに生じている。世界観はそうしたモデルの集合体であって私達はそれらを言語で以てモデルを作り、それらを積み上げている。それが適応の正体なのだから、誰それをレッテル張りして自身の世界観で決め付けたいと望む。また、物事の曲解もそれに近しい。私達の世界はこういったものだ。ただただ自己の体験をモデル化しそれらの偏見で組み上がった世界観をこの世界と対峙し適応しようと足掻いた結果である。だからそれは重ね合わされなければならない。そうしなければそれらは世界を決め付ける妄想に過ぎない。各自が持つ世界観を重ね合わせて私達は世界を作って来た、そうして世界がある程度の秩序と安定的な構造代謝を続け腐敗し破壊され創生され人間が続いて来た。決め付けられた世界という構造腐敗から距離を置かねばならない。SNSを全て断ち切って生活すると言った青年が過去にいた。彼はまだ元気にやっているだろうか、植物が好きだと話しぶりが優しい青年だった。

 これらは個人的な意見、即ち世界観の話だ。情報収集と事実を仕分ける他人の行為に私は責任を負わない。事実ではなく、個人の世界観なのだから、これらの記載内容を事実と認識する行為はすべてそのもの自身に帰属する。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火