人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

310724

消え去る前の小話

 死への恐怖がある。

 仕事をしていても、娯楽に興じていても、何をしていても死への恐怖はぬぐえない。私は太陽信仰を求め、バスルームの電球カバーを外した。あのフィラメントの熱、あの光、シャワーの滴る水滴と精液が混ざった排水溝は私を孕む。私はそこで生まれた。私は壁面の張り付いた虫を自室にいれないよう深夜に無駄な抵抗をしている。

 自分の子孫を残せばそれで満足か、日々死に続ける私を救うものは太陽より他ない。太陽礼賛により、フィラメントの熱を太陽へ還す為、バスルームで泣いている。「俺を殺せ、俺を消し去れ」太陽の熱で私は0.1秒の間を持たず消え去る。

 永久に引き延ばされた私の体は質量の極点へ向かい質量の極点と化しその姿はF = mc^2と近似していく。空飛ぶスパゲティが私であるように、私は永久に絡まる。ビッグクランチの中へ、全てが静止する暗黒物質の漂う中で私は太陽を礼賛する。太陽が超新星爆発を引き起こした時、私は数秒だけマイナスの時を生きる。そうすることで私は死への恐怖を少しだけ時間的遅れとして認知せずに済む。その時定数のちょっとした合間でその中の極限まで圧縮された質点が私である。私は散歩する時、死を望んだ。私は深夜に散歩する中で歩く回るゴキブリを踏み潰した。死への恐怖があるからだ。

 どこにいても どこかではなしても どうしてか どうにもならない

 腐り始めた私は周囲の人間との距離の開きに慄く。死ななければならない。自然の摂理を考えることは少ないまたはそれらをひた隠しに出来る知性の高さがあるのだ。知性とは何か、知性とは太陽礼賛である。そこから受け取るマイクロ波と熱とそれらを緩和するオゾン層より成立する私たちの命がここにある。人間は考える葦、人間は考える葦、人間は考える葦。筆記体で読み込まれた人間の考える葦は上質な毛筆だ。繰り返し続けられる哲学の台詞を吐いたところで壊れたラジオの様に太陽から欠けた電波を鳴らし続ける。夜空でそれを受け取れたらどんなにいいか、山頂で認めた星々と熱々のココアをふぅふぅと覚まして飲む。今は太陽礼賛の静かな部分。生きたいと望んでいても焚火は木材を延々と太陽へ運ぶ。それは死だ。それは礼賛すべきものだ。私は焚火にマシュマロを近づけ、焦がした。その苦み、まずさが私の生を担保する。どうせぐちゃぐちゃと言葉を並べても、線にするな点になれと言われたことがずっと頭に残っている。私は太陽礼賛をしていたが、そうした知性の有る人間達とどこか違っている。

 点になれ 点になれ ぐだぐだ喋りやがって 点になれ

 私の居場所はない。居場所を作れとみんな言う。適応こそが生存である。適応出来ないは死滅である。死は怖いが、世間から感じ取ったのは「お前は適応できていない、この社会は残酷だ、死んでくれないか」であり、誰かに優しく諭されたり見下されたり馬鹿にされたりなにかされるたびに私は消えてしまいたくなる。私を消してくれ、私の少ないわずかばかりの知性では消してくれる者はない。だから私は確たる太陽以外認めない。男であること、女であること、それはどちらでもいい。私を男にしてくれ、私を女にしてくれ。私はなにものでもない。なにかになりたいのではなく、なにかにしてほしいのだから、そこに自身の意思と行動は必要ないのだから、私はなにものでもない。誰かにそれは話してみましたかとカウンセラーは告げたが誰にも話していない。誰かに話したとしても私の居場所はないから。私は人間から遠ざかるヒトのようななにかである。反重力が生じる負の質量を持つ私なのだから、この社会が取り決めた正の値は私を対消滅させてくれると信じているのだが、長々と惨めに生きてしまった。死への恐怖があるから、点になれないから、居場所はないから、私は適応できていないから。消え去ればいいなどど言うな、人道派は残念ながら太陽礼賛を鼻で笑い、それをおかしなものとして見るだろう。しかし、私にとってはそれが幸いであり、祝福であり、幸福であり、私が把持すべき考えの全てである。世の中に確たるものは少ない。私が把持すべきものは確たるものではないが、私が核だと決めたのだからそれは核だ。

 明日死んだら 畳の上でうめき笑う蛆ども 腹から溢れ私を喰らえ

 ああ消え去りたい。この現実から自殺者は減った。自殺とは社会から押し付けられた様々な物に耐えきれず命を絶とうと思う人間、そして社会からの押し付けがソーシャルディスタンスによって減ったからだ。社会との距離が適切に取られたが故に私たちは死なずに済んでいる。だが社会から押し付けられない自殺があるだろうか「人生を楽しいうちに終わらせたかった」と遺書を書いて自殺した子供は一見自身の意思でこの社会から何も押し付けられず死んだように見える。しかしこの社会から押し付けられる様々な愛すべき糞を生の先に見たから死んだのだ。その先には自分がこの社会から押し付けられた様々な糞でまみれた体になるのに我慢ならない。という気持ちがあるように思う。それは当たり前だ。人間は社会性動物で私達は社会を作り上げたことで繁栄し私のような適応できない個体すらをも生かせる素晴らしい社会となった。しかし、その社会は私達に様々な物を押し付ける。それらを多くの人間はするりとすり抜け、そんなものは特に問題ない、適応できたのだから生を謳歌する。嫌な個体、弱い個体は丁寧にこの社会ですりつぶそう。生き物だから。様々な価値観と多様性が尊ばれて私は生きられる。生きられるからいつの間にか増長し多くの糞を求めるようになったのだ。金を寄越せ、結婚させろ、年金を寄越せ、居場所を作れ、と。元来私のような人間は淘汰されるべきだから、声を上げなければすりつぶされる。だからこの素敵な社会は多様性で、太陽信仰により確固たる地位を築くことが出来る。これは強烈な思い込みであるが、ある意味適応できなければ死、どんな手を使ってでも生存すれば良しとする人間を含めたすべての動物達が持ち得る競争だろう。ルールを作ったのは私達が社会性を持つから。蜂が仲間に情報伝達をする際に独特な回り方をするように、冬虫夏草が寄生した蟻をコミュニティの外側に捨てるように、私達は社会性を持っている。この領域は生き物の領域と背反する。どんな手段を使ってでも生き延びる。大量の仲間を持って作り上げた虚構はそれら自身が生きるための適応と化した。では、動物であることが正しいか、それは個別の判断になる。正しさ、善悪こそは私が太陽に全てを委ねるように、ここの世界観の話である。社会から望まれるものから外れていけばそれらに殺される。自殺は本質的に自分から生まれるものではない、自殺はステレオタイプの他人、メディア、そういったところから生まれてくる。いじめに対してそれらが妥当であると心のどこかで思っているように、生き辛さを抱える人間はそれがあるから人間らしいなどと考えるように、個々の世界観でもって私達は私達で糞を押し付け合う。

 !!!だからといって すべてを ここのせいにするのは まちがっている!!!

 社会に押し付けられている。この社会への恨み妬み苦しみを募らせた先に何があるのか。私はイデオロギーに付け込まれることを危惧しなければならない。適応出来ないのであれば私個人が改善すべきものも多くある。しかし、その身に打ち込まれた矛盾により狂気じみた思想を手に入れるインセルも似たようなものだ。ではどうするのが良いのだろうか。人間は自分勝手で自分のこと以外何も考えられない。だからそれと同じになろう。免罪符に使われるHSPは結局のところ糞を押し付け合っているに過ぎない。敬虔な太陽信仰を持つ私はそれを口にしない、それらに分類せず、またされようとも思わない。それこそが自立を妨げる。この世で頼れるものなど一つもない。または一つだけではない散逸の中にこそ私達が隠れ住む場所がある。巡り続けるならば巡らなければ死の恐怖は恐らく消えず、これっきりであるというユニークな心持で無用の長物の如き思考とそれらを把持する個別のツールボックスと素材を持っておくべきだ。それらはいつでも付け足し破壊することが出来また本来の機能からかけ離れていくべきだ。善を目指す幸福主義が今は見えなくなっている。センセーショナルな見出しだけが蠢くこの社会で沢山の者どもの賞賛と惨めな虚飾で彩られる私達。なにも見ていないのだ、なにも見たくないのだ。そしてそれはなにかを見ようと試みて苦しむ私が適応出来なくとも太陽礼賛だけ有れば存在できる理由だ。誰かが見せてくれないのだから、それらは金を生まないからだと言っているのだから、こうした場末に私は言葉を残している。これらは全て遺書であり呪いでありまた私がいつ消えてもいいように残している文章の残滓である。ただただ分かりやすさの跳梁跋扈を私達は危惧しなければならない。空虚ななにかの言葉が宙に他人の空虚な賞賛を得る。なにか素晴らしい事の様に人生の生活を描き出す。ただ喰い眠り貪り殺しの上に立つ生き物だというのにそれらを素晴らしいと描く。それらはどこかずれていておかしいように思うがこの私の文章の方がおかしいのだろう。元来人生など生活など人間など動物など斯様な蒙昧が紡ぐ文章の泡沫に過ぎない。価値とは糞でありただ増える私達はただただ大きな肥溜に相違ない。押し付けられているのも世界観の幻だ。

 今日はここで消え去る。常に私は浮いている。太陽信仰の定めだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火