想像力の怖さ
まったく想像力でいっぱいなのだ。狂人と、詩人と、恋をしている者は。
その中で、私は狂人寄りだろう。
想像力のはなし。
DLsite.comというwebサービスがある。
このサービスの中では様々な同人ものが売買出来る。
性的な興味というものは、どこまでも自由で、インモラルで、時には冒涜的な形を取る。というのが、このサービスの中でやり取りされる作品に見て取ることが出来る。
私は肉体に対する冒涜にも近いものや、主流ではないニッチなものへの興味が尽きない。丸呑みや悪堕ちはまだDLsiteに数百作品しかない頃から見ていた。
全く呆れるほどに、作品を収集しているのだ。
まったくそれらは、想像力の産物である。または、想像力の墓場である。
様々な風俗サービスがあるが、それらは私には合わなかった。どうにも、リアルで他人と体が触れあうのがあまり好きではないようだ。そもそも、初対面の人と演劇をするということのあほらしさ、馬鹿馬鹿しさを感じて、けれどもその介護に身を預けている自身の状況を鑑みるとより一層惨めな気持ちが増して苦痛を感じる。
――全て、金を対価として受け取る介護であるが、世界最古の労働に首を垂れる。
専門性だけの、哀れな労働者たる私は、この肉体だけで生きる――
世の同性たちが全くそんなことはお構いなしのように振舞っているのが、非常に不思議なのだ。確かに、雑多なリビドーはあるし、それらは不特定多数を向いているのは、人として生き物としてある程度仕方のないことだとは思う。
けれども、そこに対する関係性と対価の関係が馴染まない。もう少し古い時代であれば、今よりも娯楽がなかったからそうは思わなかったかもしれないが、どうにも楽しめないのだ。
なにごとも、楽しめないというのは残念なことだ。
なにものも、顧みられぬのだから残念なのだ。
記憶のそこにも、記録のそこにも、残らぬ泡沫。
不特定多数へのリビドー制御に腐心し続けた結果、おぞましい化物となりつつある自身は、この脳がダメになってから害を生み出す可能性が有るので、早く情動を、欲を切除してくれ。
ただ、欲は際限なく。しかしそれを受け入れる刺激が無いから、想像力は刺激を生み出そうとする。
おぞましいまでの肉体や精神の変容はどこか喜劇的で、まったく笑うしかない。しかしながらそういったものにさえリビドーは存在する。そこに至るカタルシスが堪らないのだ。
同性愛、異性愛、異種愛、、、これらすべては想像力により、リビドーに変換されていく。興奮に至る想像に制限はない。そこにはリアルは存在しないから、射精の度に死んでもいい。または欲望を受け入れる度に生き返ってもいい。現実での行為に紐づかないから、それらは距離がある。
カーム。
恐らくそうなのだろう。
変容してしまうことに対する執着。取り返しのつかないものに対する恐ろしさと怖いもの見たさ。そんなものが内部に渦巻く。
それなりに数が多いのは戦隊ものだ。私の記憶で言えば、悪堕ちはオーレンジャーからだ。自分以外に仲間が皆敵になってしまう。それをおっかなびっくり見ていたのをよく覚えている。
または、状態異常。
ブレスオブファイアⅡのゾンビ化が怖くなってテレビの前から逃げ出した。
もっと、過激に、苛烈に、そうしなければ刺激が無くなってしまうから。
そうしたところから、様々な想像力が羽ばたく。リビドーである。
薬物を求めるようなものだ。快楽を求めているのだから、単なるグラデーションだ。1ml間違えば死ぬ安価なGHBと抑制を解くアルコールと、酩酊と停滞の大麻と、クロコダイル。メタノールを流し込め、盲な私は既に死んでいる。
しかしながら、そんなものに力を借りるわけにもいかない。そこまで弱くもない。想像力を舐めるな、金稼ぎに結び付けられたクソ人工物なんかに手を借りるわけにはいかない。クソ人生はクソのまま、全て私のものだ。どんな主義、物質、人物、世界にも強制されない。
そう思いながらも、そうした領域は砂漠の砂粒の一つほどしかないのだ。私の時間の大半は仕事をする、資本経済を回し、生産し、労働し、消費し、投票箱だけが主張の全て。社会生活の辛さをリビドーで消化する。止められないポルノ依存。そうして残ったのが睡眠だ。
表現はそれらの隙間に挿入され、私のこの自由というものはほとんど無に等しい。
作品数が極めて限られるジャンルや、多くの者からは忌避されるような嗜好では、作品を描くものが少ないから、多少質が落ちても許容されやすい。彼らへの要望に応えるのが苦でなければ、おそらく小さな商売として個人で生活できるだけの需要はあるのではないかと思う。
そうして自分で作ろうとして、やはり挫折している。ただ文字を並べるだけの生物である私は、想像力で刺激を生み出すしかないが、ただ文字しか持たないのだ。
刺激が少ないのは、リアルの経験が少ないかもしくは全くないか、だろう。
誰かと対話をして、一緒にいて、様々な社会との活動の中で、刺激を得る。性的なものも刺激の強度は異なる。また、親となるか、そうでないかでも、異なってくる。
性欲は徐々に減衰していくが、刺激の強さを求めるのも減衰するのだろうか?
そうして、何も出来なくなり、消えていく。これが、私たちの生だ。
また、性的嗜好は自分の力で変えることは可能だ。
人間、その気になれば、どんなものにだってリビドーを覚えるしぶつけることが出来る。私は自身の体でそれを実証できないかと考える。自身をアンドロギュヌスとして、男として、女として、女を、男を、またはその両方を求める。もしくは受け入れる。
そうした想像で自身を埋めていく。心とは、体とは、そこに根付いた嗜好は訓練で変えることが可能だ。
例えば、同性愛、獣、といった所にまで想像力を広げ、そうであるように振舞う。多少の無理をして、これは興奮出来るものだと思い込む。
レモンの味がする。これはおいしいのか? おいしいのか?
おいしいと思い込め!
変えられてしまうものは、本当に私が望んだものではなかった。だってそうだろう。性的充足から社会的満足、対話を取り除いたものが人の居場所だとはどうにも思えない。そこには射精に至るだけの単なる儀式があるだけなのだから。
では「性指向」は本当に変えられないのだろうか?
人を好きになる感情は、自ら選んで「志す」ものでもなく、趣味や好みの問題でもないため。というのは事実だろうか?
肉体的に紐づけられたから、生まれながらに紐づけられているから、私は異性しか好きになれないのだろうか?
同性を好きになることは可能ではない?
女として女を、男として男を、私は愛せない。そもそも誰かと何かをして、生活をして、そんな日々を送ったことが無いから。触れ合いも、対話も、会社員である私以外にはほとんど存在していない。
どちらかと言えば、私は想像力の中で生きてしまったから、それらがリアルに紐づくことが無い。想像力の中であれば、大抵なんでも行けるが、それはリアルではどうなのか。
試すのは難しい。
潔癖なのだ。この世界に対して。
誰かの意図に流れるのがとても嫌いで、私は私である。
このシンプルな形に人生を落とし込まなければ気が済まない。
それを変えようとする者ども、私を利用する者ども。
弱きものへは手を差し伸べる。私も弱きものだからだ。
中学生頃の屁理屈を平気で通そうとするのが大人であり、歳を取ることは自己の成長とはあまり関係が無い。とにかく、私がそれなりに出来ればそれでいい。
それほど余裕がないから、周りが見えてこない。
想像の中と、現実とは違うんだ。言いながら徐々に想像の中に沈み込んでいく。性的にしらふであることも徐々にそうでなくなる。そうやって、想像だけが私自身となり、この社会活動がまともに機能しなくなる。
潔癖者の行きつく先は孤立する妄想狂であり、想像力の奴隷である。
そこは魅力的に見えるが、それは社会的孤独である。狂人も、詩人も、恋をしているものも、全て社会的孤独の中で想像力を拓き、それで満たされている。だからこの社会の中から弾かれていく。
それらの世界観は宙に浮き、限られた他者との接続だけで完結する。元々排他的なものなのだ。
だから、人への「相談」はあまりにも弱い。ここの世界観が接続されることはあまりない。だから、自身でなんとかするしかない。その手助けとなる空間とカウンセラー、または神的な場があればその極まってしまう世界観をやわらげ、この世界との接続を強めることが出来る。
「私は鏡なので」とカウンセラーが言っていた。
鏡たる何者かと、全てをさらけ出せる場。これが必要だ。
想像力が体を蝕む。その静かな表現は、ヘンリー・ダーガーのように、またはディキンソンのように私たちに強い印象を与え、社会的価値を生むが私はそのようにはならない。なれないように思う。
私は存在しない者として、今後も続ける表現の中で自身の作品が死後残れば嬉しいが、死んでしまうのだから、別にそれは重要ではない。
ちょっとした創作、ささやかな人生。
これはその終末に至るちっぽけな個人の哀れな想像力のはなしだ。