Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

頭を使うことの難しさ

消え去る前の小話

 私は無辜である。

 そう言い切れる人間は存在しない。

 

 様々な情報と私たちは接続する。

 ふと「この貧困は何故解消されないのか、分断を生むのはメディアか」

 或いは「生き辛さは資本主義のせいである」

 

 色々な世界観がここには横たわる。

 その日暮らしで生活が放棄されていく。

 自宅で仕事をし、金銭的余裕を持って孤独を募らせる。

 私たちの居場所は虐待か、理解か、無か。成功はなく、それらは際立つ個人の特異例である。どうあっても「一発逆転」はあり得ない。

 得意なことだけやるんですけど、先を考える場合に色々な選択を用意しておくことしかないですよね。

 凡人よりも少し下にいるから頭を使おう。

 へへ。使う頭なんて、ないんですけどね。

 

 私たちが生き辛いのは「これのせいだ!」

 特効薬のようなものを望んでしまう。一発逆転となるホールを望んでしまう。世界観がそのようにして繋がっていった。私は私達となり、達は「そうである」ものへ。

 自我は失われた。頭を使ったがために、自我は失われた。

 

*****

 時折放り出されるクソと共に老化していく肉体。この先に雨止みはないが、雨止みを待っていた。濡れるには肌寒い季節に、酔った老人と抱き合う中年に唾を吐きかけた。

 平均年齢48歳のこの社会で若者は歓待された。俺はそのような中で、大切にされたが生き抜くことを教わってこなかった。だから歳を取るにつれて忘れた。大人であることも、そこで舌を絡めている汚い男女のようにただ欲のために生きるのだと教えてくれた。

 このような「先生」が沢山雨止みを待っていた。

 もう降り続いてから何年経つのだろうか、俺は過去の嗜好品となった煙草を咥えては箱に戻してその姿を鏡に見る。

「皆さんはこのようなトピックを見ています」

「今注目の人、話題に参加しましょう」

 沢山の数字が俺らを規定していった。そこに持ち込まれた競争、そこに持ち込まれる絶対的な能力の不在。

 そんな物事の全てから離れてしまえ。思いつきで何かをした。

 記録されること、記憶されること、俺が今見ている雨、缶をくしゃくしゃにして一人で癇癪を起している老人は隅で縮まって最後の一滴を望む。

「あれ、あんなふうにはなりたくないね」

「そうだね、昨日のアレ、見た?」

 気付かずに老人に近づいてしまった女が嫌悪たっぷりな表情を浮かべた。

 彼女らもやはり傘を持っておらず地下道へ歩いていく。

 老人はちらりとこちらを見て、くしゃくしゃになったレジ袋からニンジンを取り出して齧る。カリリ、カリリと小気味のいい音が出る。

 それすらなく、雨水は次々に流れその流れは全てエネルギーとして使われる。水が流れるから道路で車がエネルギー不足になることはない。

 流れていく。

 俺と接続した様々なものが何かの流れに依る。その流れに乗らなければいけない。何か絶対的なものを求める形をそこに見ている。

「先生」たちも同じだった。

 だからこの一部から疎外されている感じがした。

 年々住む場所が消えていく。

*****

 

 私は頭を使うたび、裏目に出ている。

 こうだ、と思っていたものは掌から零れ落ち、世界は意味不明でアップデートされていく。仮想ランドマークが世界観を繋ぎ続ける。強固に繋がれた世界により、私たちは絶対的な差を見る。

 なにものにもなれず、この社会に捨てられていく。

 

 逃げても、立ち向かっても、頭の使い方を間違えてしまえば様々な世界観に利用され、振り回され、道化となり、全てを憎み消えていく。

 いいのです。そこで、小さなコミュニティがあって、対話があって、それが人間らしい生き方に繋がっているのであれば、まだ救いがあるのだから。

 そうやって私たちは頭を上手く使えない。

 利用されたところで、生きるしかない。失敗した所で、生きるしかない。

 生きているだけでいいよ。

 そんなものは人間じゃないから、この優し気な言葉も壁を作り対話を拒否するお為ごかしに過ぎない。

 非人間化することで、他者は人でなくなる。尊重しなくなる。

 そうなった時の冷たい目を感じた。ああ、またも「仔羊」だ。

 

 キツイ状況の私たちがどのように小さな対話を得ていくか。

 小さな感情の吐露をし合える形が無ければ「生きているだけ」が辛くなるのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火