Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

冷凍されたのは14年前だ。

消え去る前の小話

   こんばんは。ずれてます。

 人々の様々な物は冷凍されてしまわれた。

 僕自身は、能力のないままに社会に放り込まれ、やがて完全に無能となりこの社会を落ちていくのだという確信は消えることが無い。それは硬化を続ける意識のせいだ。

 最後のあの瞬間に、氷がやってきて僕らはしょうもない時を過ごし朽ちていくと知った。実は少女はただ流されるだけで、誰かの所有でしかない。長官も、私も、現実味のない世界の終りも、凍り付いた海辺の家から一向にその風景を変えないのだ。

 そこには古びた家があり、私たちのリゾームを辿れば火、水、土、風これらの基本的な要素によって構成された体験群が顔を出す。

 私たちが見た原風景、体験の外側にある強制力を持った視界。

 メディアで示されているから、けっしてそれだけではない。

 文明が発展を続け、資本が延々と回り続ける。資本主義は上昇の歯車以外を見ない。そしてその上昇は軋みを上げ、偏心した回転が今にも壊れそうになりながら世界を回している。人間に共有される世界観にある大きな歯車の一つ。

 その連結はどこかで噛み合わないままだ。なんとか歯を追加して動いている。

  ギリギリで保たれている安定的な社会。少し時代が戻れば戦争にペスト、宗教と争いといつ死んでもおかしくない時代。明日死ぬのであれば、一日一日は刹那的だ。

 恐らく僕はこのまま「死」へ落ちていくのだろう。

 日々の仕事も、それに紐づけられた様々な意図や感情も、原風景の前では霞んでしまう。

 現実を生きなければね。けれどもそんなものはなかったから苦しむ。

 一介の労働力を提供出来るだけで、価値創造の能力はない。ただやってみました。が消化できずそれは自己愛に潰されかけた自我の反抗である。

   もう十分苦しんだから、後は希望と良心と、それだけでいい。

 これは私が発すべき言葉ではない。

 明日すぐに死ぬはずもなく、日々の無能は労働力を提供すれば生きられる。

 まだ努力をし、やりようによっては生きられる社会であるからだ。

   夢は死と共にある。

   夢想の中で死んでいく。その未来図は自身を殺したのだ。

 夢を見る。というのが私はわからない。夢とは、例えば死には持っていけぬ資本や金の話だろうか、有力者として多数の人からの支持や羨望、妄信されることだろうか。
睡眠中に見ることもない。夢。
 ただ、現実にはありえぬ、夢想の中を駆け回る。白昼夢として、ふとした瞬間に私はあの黄昏の都市と巨大なガレー船を見る。猫の軍勢が白く滑りを帯びた軟体生物を倒し、暖炉の木が弾ける。
 または亡霊として閉じ込められた私が世界を当て所なく彷徨う。様々な時代から省かれ、修正の隙間に落ち込んだ者たちの生活、蹂躙された地肉の転がる大地に突っ伏して涙する。
 消えた男はこの地に胡乱な神を喚ぶ。それは人間を守るシステムと循環を破壊し、暴力と姦淫だけが人であると、その神性は人が見て見ぬ振りを続けた愚行を表に出し、善行を隠した。
 例えば、夢。なりたいもの。漫画家、小説家はどうだろうか。もしくは配信業でもいい。どれも別に金を稼ごうとしなければ誰でもできる。この世の中でできないものはそんなにない。
 先進国である日本。現代は、紛争など大きな暴力も無く、文明が発達し大抵のものが実行に移せる。26年前に持ち込まれたハインド、サリン、機関銃、またはゲーム感覚で一人の男に撃ち殺された70名以上。ガソリンぶち撒け放火なんかも彼らの選択の結果だ。
 こうした大きな暴力、死、無慈悲なるさま。この規模は小さくなり、他の領域で表現されるようになった。
 
 予めそうなるように私たちは選択をしている。
 何かをすれば、あるべきところに収まるのだ。
 (望むとも望まざるとも定められるのが役目だ。)
 
 だからありもしない超人と永劫回帰で発狂した。
 器官なき体を授けられれば踊り狂う。
 黄金の時代と、太陽に至る信仰のイメージと救い
 
 商業的に成功するのが夢。沢山の金と沢山の羨望。多くの人が目指す欲の山。果たしてそれは夢だろうか? ビジネスの一つが夢と? いやそれは結局マウンティングと資本主義のシステムに組み込まれた自我の一部に過ぎない。しかし、理想を組み込むことは可能だ。シンプルに、誰かを喜ばせたい。や、こんな世界観、私を見てくれ、こんなにも世界は遠いのだ。など。
 しかし、良心の領域に存在するものを忘れてはならない。夢には具体的、合理的なところから少しだけ距離を持つ。
 けれども今が辛いから、それを夢見るのだ。それは夢か?
 単なる娯楽と区別したか?
 何かになりたいなあ。夢を実現しよう。夢を実現する。この言葉の薄ら寒い響きは、それらが資本だけに結びついた時に現れる。それだけが価値であれば、人は要らない。
 全てが合理的で価値を持ちそれらを高めるためにさらに回る。それだけで生きる。
 
 私は君に言っているんだ、そこの俺や僕がそうしたことを思う。
 素晴らしき社会適応。それなりに賢しいな?
 運が良かったというだけでは?
 
 食うに困らない、明日は我が身の暴力と死に晒されていないから、先進国であった環境の驕りではないだろうか。
 
   夢は記憶の領域に存在した。
   記録する行為が死を持つ。記憶する行為は夢を持つ。
   自我はその間を行き来しては、私というもの、個我を表す。

夢。

 凡百の私たちがそこに辿り着くのは稀だ。目標であれば戦略があり、それを適切に表現できる。時流に乗る。
 努力できるところ、変えられるところ、全てやり切った先に運が待つ。だから良い。
 夢は叶いましたか? 叶うものではないよね。
 欲は満たされ、更なる欲を求めた。
 状況に甘んじて変化が生じなくなれば僕は最早不死の仲間入りだ。明日気付かぬ内に死んでいたとすれば、それは死んでいないのと同じなのだ。堅いものとして残り、意識の残響はそこに住み着く。
 忘れられる。何も残らない。そこに漂う無限。
 既に同じような意識と感情の反射しかなく、そこに理性などなく、知性は失われた。シンプルに追いやられたので、辺縁で捧げられる。
 
 私が毒にも薬にもならない表現を続けることの一つは夢のためである。現実とはカットアウトされた行間の中に住み着く。確かに愛していたのだから、それは消えることはない。
 絶えず繰り返されるバズは矮小な事実を誇張していった。まるで現実がハレーションのように眩み、ただ強そうな言葉を並べる。よわよわ人類だから、せめてどこかで虚飾しなければ済まない。
 言葉に概念はあるが、関係性はない。非言語コミュニケーションがないのだから、全て小説のように死んでいる。または不死となる。
 社会と繋がっている。より多く人間を引き連れればそれが資本になる。欲情を促す肉体、美貌、声、タレント性、面白さ、様々なものに人が連なる。それらは正しくも良くもない。この社会では合理的で、生き残れるだろうが、それらは虚飾である。現実がハレーションの如く全てを明滅とモネの抽象画に落とし込む
 私たちは現実を生きていると、自信を持って発言できない。接続され拡張され共有され切断し収縮したその世界観はこの世界そのままを、ありのままを映し出すことはない。幾つかのアンカリングと頼りない自身の理解だけがこの社会に表現される。
 
   ――そして、どの他者からも私は離れつつある。
   これも、夢のためである――
 
 つよつよがよわよわを駆逐するのは無慈悲だからではない。自身に全て端を発するからだ。自身の世界があり、そこに届かないから、延々と繰り返す。人に目が行けばその分自身の世界は劣化する。あるいは他の感情により変化する。
 夢は自身の世界にのみ存在する。それらは社会的なものからも離れて、独立した、混ざり合うものだ。
 欠片、破片のような形で私たちはそこへ潜り込む。
 

 鏡。よくみましたか?

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火