Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

食。または、みかん

消え去る前の小話

f:id:Katsute_no_kigou:20210103001252j:plain

みかん

 こんばんは。

 令和三年になったので食べ物の話をします。食に始まる自宅籠りの年。

 久しぶりにミカンを食べました。とかく一人暮らしでは果物やお魚を摂取することが少なくなります。簡単に使える豚バラ、小間切れ、ミンチ、または成形肉。カットされた野菜に納豆と豆腐。冷凍食品。そういったものが食の主力となる。

 昔は冷凍食品や電子レンジは性能が低くて食えたものじゃないと避けられていた。炊飯器だって温度調節が難しくて始めはまずかった。蒸しなおした方がおいしく食べられる。それが今ではそうは感じない。改善、改良は私たち人間の能力である。

 楽に作れて、それなりに満遍なく食材を摂取できる形。洗わなくていいとか、虫を気にしなくていいとか、手が汚れないとか、生ごみが出ないとか。

 食に張り合いがなくなっている。ゼリータイプのカロリーメイトなどを流し込んで終わらせることもしばしばある。

 食べた気になるだけのポップコーンが最近のお気に入りです。レンジに入れて三分、ポリポリやりながら一日を過ごす。百円で一日分は出来る。ただ塩を振るだけでいい。嚙むので食べた気になる。けれど私の体重は落ちることはない。

 最近じゃ買うのも億劫で冷凍肉と冷凍食品を常備している。適当に麺をゆでる時に入れる、更に流し込まれる冷凍チャーハン。たんぱく質を取らなければ。豆腐と納豆をかき混ぜて流し込む。食の楽しさは二十代の頃はあった。色々な料理を作ったりして遊んでいたが、今はいかに早く食事を終えるか、ばかり考えるようになってしまった。(元から食べるのは早い。)食は根本の楽しみの一つだから、ここが腐れば中身も腐る。

 料理自体は嫌いではない。出汁を取って、灰汁を取って、透き通った琥珀色の汁ものを作るのが好きだ。濁っていない汁は何となく達成感がある。濃い味があまり好きではないから、自分で作った方が良いというのも分かっている。しかし、体が動かない。

 お菓子作りも嫌いではない。卵白を手動で泡立てる時のあのカシュカシュとした瞬間、ジャンキーなグラニュー糖の量を感じながら、生地が出来る、クリームが出来る、上手く焼けるかオーブンを時々見るのも楽しい、部屋が甘くなるのも楽しい。

 もちろん一人で全てやるから、片付けて台所が綺麗になるのも満足感がある。

 それを分かっていたとしても、最近はあまりやる気が起きない。何故だか曇天のまま昨年からずっと倦怠感が続いている。精神的によくないのは知っている。甘いものを無償に食べたくなって、グラニュー糖をじゃりじゃりやる。チョコレートを食べ続ける。

 はたして私に人生は重荷である。このように食だけ一つ取っても、体が動かないのだから。

 

*****

 私たちにはミカンが不足している。ミカンによる並列回路で室内を監視しなければならない。ミカンの中にある酵素が部屋に満ちなければ生を確保できないまでに弱っている。ふふ、ミカンの匂いがさわやかな一日を約束してくれる。

 だから部屋中にミカンを置かなければ。ミカンとミカンとの距離は約五センチで、その距離がつり合い、非腐敗の空間が生じる。黴が生じればそこから私の生が失われる。

(本当におめでたいですね、アナタ)

 非武装の空間から、武装されたミカンに変わる時、清々しい気持ちで一日を終えることが出来る。部屋中を飛び回るサメも、私を処理しようとそこら中でひっくり返るグソクムシも、睡眠中に口から侵入を続けるハエトリグモも、ミカンがあればそうはならず、私の体は朝から清々しい形を取れるのだ。

 友人たちが人間らしい生き方をして、私のようなものから遠ざかっていくのを感じる。歳を重ねる毎に私は彼らのようにも生きられない何かだと思う

 滝のように零れる汗は緊張からではなく、私から失われた人間らしさだろう。

 晩年は『関わっては行けないヒト』という何かに変わるのだろう。社会性が失われた私からはミカンがいつも不足していて、他者との壁が厚く厚く私を圧する。

 それだけを恐れている。そうなれば消え去るよりほかないのだ。

 上記のようなミカン結界を作業スペースに張り巡らせなければ、太陽の下で掌を焼くにも、ミカンの等間隔がなければ始まらない。

(行間に住む作業スペースを見ないふりしても、ふふ、だめですよ)

*****

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火