Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

人間の形をしたそうでないもの

消え去る前の小話

 こんばんは。

 私たちは他人を人間として扱わない。何故なのだろう。

 所持金は8円。渋谷・女性ホームレス殺害。「痛い思いをさせればいなくなる」を地でいくこの社会 | ハフポスト

 少し古い話題になる。

 路上生活者が来なければ、私たちの生活に「異物」が無くてよい。私たちは、絶対に彼らのようにならないという驕りと自信がある。

 私にはその自信はない。この肉体が働かなくなる可能性はあるし、精神だってまともに機能しなくなるかもしれない。そうやって仕事を失い、生きることが出来なくなり、死んでいく。

 その可能性を考えている。人権が尊重される最後のセーフティネットを、私たちはより良い形としなければならない。そのための政策を、政治家を選ぶ必要があるのだ。

 異物が許容できないと排除に向かう。同じ種たる人間だとしても。

 私たちと違う人間だから、何をしてもいい。ドイツで配信中に殴られたり、釣り目で馬鹿にする連中に有った韓国人女性の動画を見かけた。異物が許容できないから、取るに足らない者のように扱ったり、下に見る。勿論、そんな人間だけがいるわけではない。ある程度、平等に、対等な立場で接してくれる人もいる。

 けれども、日本ではあまり見られない光景かなと思う。私が寡聞なだけかもしれないが、何故、そこまで気にすることが出来るのだろう。ある意味子供のような振る舞い。

 その要因は多岐に渡るのだろう。歴史的要因、宗教的要因、文化など、不平等を生み、他者を攻撃しなければならない思考に至るこの形は、多くの世界で見られる。私は地下室からこのような文章を書く以外にないので、ほとんど体験することはない。囲われて死を待つばかりの暗愚な私には、それらを知る権利などはないのだ。

 群れからはぐれたオスは他の群れによって殺される。私たちが分化したのはチンパンジーからだ。彼らのそうした暴力が私たちから異物を排除する形態として残っている。

 同じ社会に住む者同士でも、手を差し伸べたり、死に追いやる者がいるのは仕方がない。人間などその程度の動物なのだから。私がこの記事に残されたコメントに我慢ならないのと同じだ。稿料を分け与えよなどと書き、その実何の意味もない文章が連なる。この文章は路上生活者に向けられたものではないのは明白で、そうでない労働者に向けた記事だが、その意図ではない事柄を分かったかのように指摘する。

 このあほらしさにうんざりする。(「也」ゴミ箱へ投げ入れろ!)

 と、しょうもない文章に何かを言っても仕方がない。私たちは糞袋でしかないのだから、好き勝手文章を連ねるしかない。(意図は全く分からない所へ向かい続ける。)

 人間の形をしたそうでないもの。

 非人間化から差別が始まる。

 日本はそれほど路上生活者は多くないと認識している。しかしながら彼らに対して、好きでやっているんだからいいじゃないか、とか、努力が足りないからそうやって堕落するんだ、とか、公園や町から居場所を無くしてやろう。とか、汚らしいから見えない所へやってしまおう。

 こうした意図は町や、人に見ることが出来る。記事の例にも挙げられている、野宿させないための座りにくいベンチや、無駄な凹凸などは都市部であれば見かけることが出来る。

 しかし、これだけでは、彼らを見えない場所へ追いやるだけでしかない。

 汚いものには蓋。知らんぷりすれば、殺人も餓死も暴力も過剰な性描写も見ずに済む。あまりにも稚拙なやり方だ。嫌な思いをさせれば近寄って来なくなる。

 個人では小さな集団の中で生きるのに必死だから、私たちは排除しがちになる。自分は絶対にそうはならない、ああはならない。ほとんどの人がそう考えているから。

 そもそも個が出来ることなどは限られているし、個人の援助が根本的な解決に至らないことは自明だろう。最初は援助をして、誰かを助けているという良い気持ちでいられるが、それをずっと続けると段々惜しくなる。

 自身の生活が危うくなれば、それだけ惜しくなる。集団の外側にいる他人を排除したくなる。一つの国家の中で暮らしていたとしても、個人レベルでは許せない人間が出て来る。聖人君主な人間が大多数ではないのだ。

 だからこそ、弱者のための世界が必要になってくる。

 個で助けるのが難しいなら、集団で助ければいい。国で支えればいい。(私たちは真面目に必死に生きているのに、どうして落ちていったヤツに手を差し伸べなければならないのか、そう思うこともあるが、全員が働いてそれなりの給与を得て、消費をした方が経済は回るのだ。一番したから切り崩す社会は、その内全てがなくなる。)

 人間の形をしたそうでないものは私たちの身の回りに沢山いる。毎日過ごす中で、一瞬だけ通り過ぎる他人、酒に酔いつぶれて倒れている他人、文句を叫ぶ他人、私たちが暮らす中で、その所属の外側にいる人たち。

 真冬に酔いつぶれた人が駅前で寝ていたとして、助けるだろうか?

 駅員もいるし、警官もいるし、きっと誰かが助けるだろう。面倒には関わらない方がいい。

 弱い人間に飴を与えるとつけあがるからな、あんなのは自己責任だ。

 私たちは皆、弱い。

 最低限生きられるような仕組みはこの国にはあるが、普通に生活をしていれば全く知らずに過ごすことが出来る。生活に困窮したら、六十万円まで借りられるとかいったことは調べておかないと分からない。

 路上生活者や困窮する人たちを支援する方法も、また、どうすればそうした生活を変えられるか、といった相談も出来る場所はある。(恐らく、今は人手が足りない状況だろう。)

 私たちはそうしたことを知っておく必要がある。個人のお金では何とか出来なくとも、助かるための手続きがあること、税金を支払っているのはセーフティネットのためなんだ。

 大人だから、大丈夫。大人だから、自分のことは全部自分で責任とれるよね?

 私たち個人は苦しまずに済むために、重荷になりそうな人間を見て見ぬふりをする。私もそうだ。疲れているから、自分の精神を保持するだけで精いっぱいだから。

 誰もがそれなりに生きられる社会は、どうすれば成されるのだろう。

 私も誰かの助けになれるよう、生きられればと思っている。

 人間の形をしたそうでないものに向けられる目線はとても冷たい。

 私はその目を良く知っている。

 悪気があるわけじゃないのだ。どうあがいても、人間そういった面がある。

 私は良識者でも、博愛主義者でもない。

 ただただ、下を切り捨て続ける社会では不平等が膨張し、その果ての暴力に繋がることが怖いだけの臆病者なのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火