Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

314002

消え去る前の小話

 男性はうっすらと嫌われている。この社会から、この世間から。それは被害妄想と私の病的な意識のせいだろうか。言葉はなく、私は太陽礼賛を続けている。あの熱で体を焼くこと、目を潰すこと、それ以外に私というものの意味はないのだ。あの忌々しい糞ったれどもはそれを上から潰すか、見ないままに私は死ぬだろう。自我が無ければ、意識が無ければ、私は狂ってなどいない。人間は無関心だ、ここに文章を並べた所でそれらが私を狂っていると証明するものではない。逃避なのかまだ胸が酷い苦しさを訴えてはいないのだから、私はうっすらと嫌われたままここで生きるより他ない。嫌われているのは、男性が居場所を獲得し競争するその暴力性があるから、自身に関係のない男性に警戒心を抱くということなのではないかと思っている。私は誰かに援助をしたのだったが、それらは追加された。しかしそのような余裕はなかった。自己の中に沈み続け、ぼんやりとした息苦しさと何も考えたくはないと思いつつも様々なことを考えるだけで行動に移せないその怠惰に焦燥を感じている。

 その中でも対話力に乏しい私はそれ以上だ私はその手を血で汚すまで見えないのだから、孤立している。先で挙げた氏の記事をもう一つ上げて私というものを規定してみる。何か箱に閉じ込めて安心したいだけの自我があり、この憂鬱の噴出する周期が短くなりつつあるのを私は感じている。

男性のつらさの構造|すもも|note

 この記事は男性だけに向けられたものであって、それ以上ではない。経済力を男性に求める女性の意識改革が必要とあったが、これらは今後十年で大きく加速するのは間違いない。この下降を続ける日本経済が昭和後期の景気の良さを取り戻すことはまずない。人が減り、経済の回る力は衰え、人が少ない分だけ優秀な人が出て来る割合も小さくなる。小さなパイでは小さな動きにしかならない。誰もが困窮すれば、一人よりも二人で生きるようになる。個人の時代、などと言ってはいられない時代が目の前に横たわっている。(未来のことは誰にも分からないが、今の状況を線形で想像すればそうにしかならない)だから、閑話休題。記事にあるモデルではうっすらと嫌われ、ジェンダーロールから遠ざかっている為に対人魅力がなく、孤立すると書かれている。ここではこの問題が生じる理由を「女性の高望み」としていたが、私はその先に存在しているのは高度経済成長とバブル期の亡霊を引きずった家庭環境やそれらを補強したり不安を煽るマスコミュニケーションがそれらの文化を醸造させたのではないかと考えている。実際にそうして来たから、それを見て育ってきたから、男性の経済力は依然重視される。また、アンケートでは不安が大きな項目のポイントが上がるのはある意味当然だとも思う。私は経済力と職業に今時点は問題はないが、おそらく世間の物差しで言えば問題がある。

 異性に重きを置くのは止めよう、それはインセルを助長する。そんな言葉が引用として記事に挙げられていた。インセルという存在は、その社会的文化に適応しようとした成れの果てである。異性とパートナーになることを社会は良いものとする。何なら至上命題と言っても差し支えないようにそうした話題で溢れる。思春期を迎えれば必ず異性と恋愛しなければならない。三十までにそうした行為が無い人間はどこかおかしい。結婚できない人間はどこか欠陥を持っている。そうしたような風土があり、それらが当然のように押し付けられる学生はそれに適応しなければならない。しかし、そうした能力が無い者、努力が出来なかった者、様々な要因でそこから見えなくされた者、こうした者達に異性に重きを置くのを止めよう、と呼びかけてもほとんど意味がない。子どもの時からそうやって刷り込まれてしまっているのだから、そしてそれらに無自覚に加担し、そういった人の立場が分からないほど恵まれている。だからといって、苛烈な思想や暴力、差別にまで発展すれば問題が大きくなる。

 こうした話になると大抵人は対立させて物事を考える。男性と女性の二項対立として問いが提示され、そうすることで私達は強制的に分断される。恋愛強者は女性だから、男性は経済力や甲斐性で求められることが多いから、そうした話をしても結局ポジショントークに終始してしまうことが多いように思うし、例えば男性を攻撃するようなフェミニストを自称する人たちもそこにあるのは深い憎しみと怒りが大半のように見える。人は、余裕のない時は攻撃的になるものだ。そうして攻撃して作られた社会が良いものになるとすれば、私はその社会を認めたくはない。それらはチンパンジーが他のグループの子供の脳を喰らうが如き所業と何も変わらないのだから。私達は知性と言葉でそうしたことを誤魔化す。本当に大事なものは目に見えないということから遠ざかり、寛容の心を忘れてしまったのだろうか。あるいはSNSがそれらのタガを外してしまったのだろうか。人間は「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」なのだから、その灰色の領域を上手く泳ぐ必要がある。人間は世界観の重ね合わせで存在している。誰かが恋愛は摩擦だと言っていたが、そもそも社会生活そのものが個人の世界観の摩擦なのだから、それらを滑らかに近接させるような形を目指せないのだろうか。

 私にはソーシャルサポートもなく、ただただ孤立がある。糸杉を描いた画家の絶望はいかほどのものだったろうか。

 私はこの社会からうっすらと嫌われている。

 しかしそれは男性それだけではないものが自身にあると感じている。持たざる者はそこに存在していない。私の思考はこの場末のWEBから出て行くことはないだろうし、またそれらは誰かに見られることもない。

 人生はどんな瞬間を切り取っても孤独なのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火