Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 無駄遣いが社会を回転させる。無意味な争いが生じているのは不安からである。自粛が続けば確実に食い扶持がなくなる。私達はどのような選択をすべきだろうか、やはり感情的に良い悪いと叫ぶだけでは意味がない。生き方や生活は変化していく、その先に存在するものはまだ見えないがより一層不安が強まる。極端な行動をするもの扇動するもの様々な意図をもってそういった行動をしている。勿論きれいごとを頭に掲げ、口を出せばその正当性を叫び騒ぎ暴力的に押し込み続ける。ああ誰も妥協はしない自身の世界観をぶつけて押し通すことを「対話」と喚きそれらを「全員で合意した」と言い張る。その先にあるものが個人や組織の利であるのは自明だ。事実と個人の感想の区別がつけられず、結果的な欺瞞が生じる。感想が不安を掻き立てるそれは感情だから。私は感情そのものを恐れる。不安定な感情は人間から社会性をはぎ取った何かにしか見えず、それらが見えるのが怖いのだ。取り繕った仮面だけ見せていて欲しいのだ。

 幸か不幸か今年は静かである。現在生じている距離は静かに不安だけを募らせる。平和を確かめ合うイベントが日本には存在する。それを利用するものがいる。これもきれいごとの例である。人間を1か0で判断し、戦う。全てを吹き飛ばしてしまえと私は思い様々なことが吹き飛んで部屋で丸まる。1も0も見たくはない、何も判断したくないのだ。その間の無限に揺蕩う。きゅうりメロンを育てたいと思った。きゅうりでもメロンでもスイカでもない何か、すずめうり。うりは子供、子供の時からうりを食べる。1か0の苛烈さはうつ病の要因でもある。死か生か、有能か無能か、迷惑をかけるから社会から消え去ろう。人間は何も出来ないのだから破壊しよう、お金がないのだ、お金があるのだ、友人がいないのだ、友人がいるのだ、ここでは点を塗りつぶす。点に帰れと誰かに言われた気がするのがやはり頭にこびり付く。消えてしまえよ。

 息抜き、集中力が続かないのは何故か、腰の痛みがひどく自己を欠いていく。軽いデッドリフトに失敗したのだ。外に出なくなっている。誰かの会話もなく、なにかのイベントもなく、正義感から他人を責めるのは恍惚以外何もない。正しさの檻よ人間を対立におく、対立とは適応、あれかこれか。あれもこれもと欲張るなと思想は極端な値を持つ。平和記念式典で騒ぐ連中は正しいだろうか、屁理屈はどこにでも存在する。自身が恵まれないから、世界が見えないから、もしくは見えているから暴力装置は幾つかの団体として存在する。気が付かないうちに、気が付いていても、何かを押し通すには集団の力を選ぼうそれが一番かそれは一番ではない。集団の安心感とヒステリーの加速は今の時代簡単に煽れる。そしてそれはもう証明されている。
 私は仕事が上手く進まず頭を抱えそれは昔から変わらず仕事をしない4,50代にその姿が重なる。彼らはかつての日本の名残でかつての狂騒、かつての技術、かつての世界観、そしてその残り香の中で産み落とされた私は脳無し、脳がないのだから判断は反射そのもの、意識は流れているがこれは本当に意識と呼べるのか、量子的振る舞いを自我と呼ぶ、太陽は反射でありそれを信ずるのなら私も射なのである。

 常に分裂を続ける。融合を続ける。赤黒く歪みその後に収縮して消えた。消えるのが意識、繰り返される宇宙の発作だ。自身でスキルを考えろと、何が出来るか、それらはニュートン式世界として全て予測可能である。このような分裂と実存、そうしてシニカルな人間観が私の世界観であり神は太陽より他におらず、人間は愚かと発しその後にタマネギから麻薬の販売サイトが現れる。しかしこれは本物か、それはわからない。薬物は太陽ではなくただの月光その刃は脳を焼く。愛は太陽から伝わる熱が分化したものだから、脳を焦がす。私は生焼けだ、太陽しかないのだから。これらの信仰はどんな宗派からも分化しない。構造代謝と回る社会がある限り太陽の熱は反射され大地を焦がすことはない、私が焼け焦げることはない。つまるところこの太陽賛美、信仰は元より矛盾を孕むのだ。人間が人間でないものへ社会の外側へ歩もうとする時、それらは反社会ではなくすべての人間の営みを捨ててしまう試みなのだから太陽の熱は反射されず、人間の中で焼け焦げて消えない。腐り蛆が湧くハエが唸る部屋の中で生じる生と死、破壊と創造、食物連鎖の宇宙が繰り広げられる。空間に侵食する腐敗と分解、構造は分解され全てが点に落ち着く。消えてくれ。その間に起きることは社会に人間に経済にとって隠され不要なものとして端に追いやられる。社会から死は隠され、ウィルスによって目の前に現れた。だから不安定で、感情は自由だから不安に怯える。こんな自由があってたまるかと構造の分解を恐れる存在と無、存在は無、哲学は私の頭で理解できないままだ。世界観なのだから世界は五分前に出来たし、私以外の人間は反応の権化であり、教育実習生のふりをすれば烏も人形も猫も何もかもが自我を持ち話しかけてくる。煙を燻らせた所で淫らな妄想が自身の頭の中に取り憑いて離れないでいる。不安だからだ。消費か死か、私は相談している。生きられないから、死ねないから。人間の知性としての反抗は太陽にある。

 チャイムが鳴る。私が生まれた時からずっとチャイムが鳴り続けるディストーションがたっぷりとかかったチャイム、不協和音、繰り返す。歪みは瞬間で切り替わる。見ている時見ていない時聴いている時聴いていない時、チャイム無しには生きられない生活、自由が存在したことなど一度もない。私が股座から頭をはみ出した時、あの海と太陽から追いやられた時、肉体を得た時、その時に自由は奪われ存在を始めたのだ。そこから響くチャイム〈拍手〉繰り返すチャイム〈喜びの声〉それが生きる間ずっと鳴り響く。誰もがチャイムを聴く、それ無しには生きない。授業が始まる、業務が始まる、終わる、朝のテレビが何事かを話す、必ずどこかのチャイムに出会す。それは太陽が昇る時、沈む時、時、時、時、それは時で人間から続く世界の理。時のアンカーとしてチャイムが存在する。鳴れば自動的に着替える自衛隊員のように私達人間は自動的に自立した風に見せかける。続けてきた世界観が全てだから、その先から内から出ていくことはなく、ぼろ家が改修され生き物のように拡大を成長を始めそれを能力と信ずる。それをすることの累乗、誇るのはただ自身の世界観だけである。

 私はカウンセラーの予約が立ち消えになりもう3ヶ月も経つのに今気が付いた。最早無いのかもしれない。あの場でさまざまな夢想を、妄想を、私は私として垂れ流す。ただ言葉を流してそれを拾ってもらう他人が理解できる世界観はそれだけしかない。私が私として持っている世界観とはまたズレていく。そのズレこそが世界観の亀裂でその中に潜らなければ私は社会から離れられないと感じた。思考はなく、理性はなく、論理的思考もなく、感覚で作り上げられる。太陽信仰だ。それは閉鎖的で新たな信者を生むことはない。それらはこれまで築かれた家族にのみ生じる。個人にチューニングされた信仰は何者をも拒絶する。そこには正しさも社会性も悪意も取り繕った仮面もない。ただ私があるだけで太陽は私との同一化を果たす。それは男であり女であり雌雄同体であり細胞分裂であり37兆を超える細胞の一つ一つに存在するミトコンドリアですら太陽と同じだ私は太陽で構成されている太陽は私で構成されている私はそれ以外に何もなくそれだけがこの社会の外側を歩くに値するものに他ならない。

 消えゆく細胞にも新たに再生される細胞にも太陽があり、自身が構造代謝であり、それらは腐敗を手引きし、破壊を導く。その為に太陽が必要なのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火