Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

偶像崇拝との距離

消え去る前の小話

 私は現実の人間に執着する前に逃げ出した男である。

 孤独にはウジがたかる。

 楽しいことを考える、これが徐々に削られて嫌な所へと向かっていく。

 私がまだ学生だったころ、アイドルの握手会に参加したことがある。理由は特になく、社会経験のために金を払った。友人が勧めるものだから一体何が得られるのだろうと有りもしない私財を少し投じていたのだ。

 特に曲も聞いたことがなく、可愛いかどうかも私の中ではわからない彼女たちとの距離を考えていた。

 なんのために、ここに来たのですか。

 その少しヒヤッとした手の感触と、こんな接客は大変だろうなと思いながらも私はあのアイドル好きの一人としてそこにいたのである。外側の行動だけが人間性である。内側の思考は人間ではない。

 それだからか、投げ銭はよくわからないのだ。その人に覚えてもらったから、嬉しい。というのは、予めご了承くださいの中に別の何かを見出そうとする傲慢さに他ならない。その個体に執着出来ることが私にはわからないのだ。

 そこに打ち出された文字列が何を意味するか、それは行動ではなく、思考である。

 妄想である。

 しかし、そこに並ぶ金額の数々は私たちがまだある程度裕福であることを示す。世の中にあるパトロンサービスを見ているとそう思う。

 そうしたアホらしさが世の中の余裕を示し、それすらも無くなれば後は暴力だけである。

 ∴私は人間ではない。

 しかしながら応援したい、という意思があって一度だけ投げ銭をしたことはある。アバターを被った中年男性がドヤ街暮らしのお姉さんを演じているものだから、これはいくらか出すのも良いと思った。

 忘れ去られようとする最中の懐かしみがそこにあったが、私は底を知らない。

 退屈なお喋りとゲームと、それが嬉しい。

 コンテンツとして面白くしようという意図が伝わるものは見れたのだが、それ以外は粘土をぶつけられたに等しい。(粘土がお好きならふわっちでも見ていればよく分かる。私も粘土である。)

 それらは私の拠り所でも癒しでの楽しみでもなかった。ただただ妄想すること、空想することが私の拠り所と出来たのはそうした見えないものの中でしか無かった。

 それだからか、離人感は強く自分が起きているのか私は分からなくなった。確かに仕事はしていたのだが、終わった時には何も残っていなかった。その機能を果たすための器官があり、それが稼働を止めれば私は現実の妄想の人間として酩酊を始める。

 例えば、自分で自分の機嫌を取る必要がある。拗ねて女叩きを始める男が喚く。私はその言葉をよく知っている。その思考回路をよく知っている。いいかい、そいつは駄々をこねて注目されたいだけなんだ。そっとしておいてあげよう。ゾッとする結果になるぜ。

 ワザと女にだけぶつかる人も恐らく似たような思考を始めている。気をつけなければならない。弱者はソシオパスの道へ繋がっている。

 しかしながら、この人間とアイドルに握手を求める人間と3Dモデルへの投げ銭する人間には似たようなところがある。

 全て女に対する偶像崇拝である。暴力性を発露させようとも、資本を投じようともそこに個人を見ない。わたしとあなたがないのだ。

 それが分かる例を示すとするならば、campfireで外国留学に行きたい人を調べてみればよい。知らぬ他人がリターンに直筆の手紙を送るといい、それに賛同するのは僅か数名。そこに沢山の金が集まることはない。そこには個人しかない。勿論得られるものが少ないし、見知らぬ他人の人生に関係のない夢ほど遠いものはない。

 私たちが金を出す時、キャラクターだけがそこにある。売り渡され、資本化された自我がある。(私が労働する時に働かせる器官もそれと似ている。)様々な見てわかりやすいものだけがその価値なのだ。溢れんばかりの情報に私たちは考えるのをやめた。ただ判断するだけで、それは思考にならない自動的なものとして「わかりやすさ」だけが残っていった。

 それだからセンセーショナルな嘘があり、絵があり、多様性の嘘を喚き難癖が付く。そうやって一部のなんでもない世界は回っている。宇都宮餃子のミスリードを狙った政治家の発言は、結局そこだけで終わった。

 行き着くところは原始に存在していた。神の子を孕む太陽の巫女である。その時代のプリミティブな形と妄想すること。

 そこに酩酊する。これらは社会に強く接続されているが、私の酩酊は弱い接続だった。頭の中にしかないから。

 だからこそ、私は性にも淡白である。殊更他者との接続はなく、性風俗といったものは苦痛にしかならないのである。だから友人知人他人多くのものが抱く性欲は理解出来ても、それが見ず知らずの淫売に向くことはない。頭の中にしか私の世界はなく、外側は肉体の生存の為だけにある。親しい者との対話は良いものだと知っていてもなお、私はその内側から出て来れないのだ。

 私は弱い。現実を把持する能力が低いものだから、現実では最も容易く他者に流される。それをキャラクターにやって、その裏にいる現実の人間を困らせるのが偶像崇拝の連中なのだが、それを理解したうえで楽しむものが大多数だ。現実とのバランス感に気をつけていればこれらの行動は忌避されるものではない。

 しかしながら、それを利用する者どもに気をつけなければ。それが出来ないから弱いのだが、気を付けなければ。ガスライティングを疑うなよ、余程のことがなければそれは精神病の症状である。

 世界は全くもって不条理に浮かび、個人は常に無関心に接続されている。

 だからこそ崇拝が必要だ。

 神の女となり、子を成そうと考えたシュレーバーも、太陽に焼かれることを望む私も、薬物の酩酊の中で生きたバロウズも、何者もその接続から逃れられないのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火