Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

マッシュポテトをぶちまけろ ―形骸化する活動の数々

消え去る前の小話

トマトスープをぶちまけろ

 マッシュポテトをぶちまけろ

  それが傲りである。

 

 思想やその狙いについて理解はするが結局は「悪名は無名に勝る、されど無明」

 果たして、その麻薬のような活動に終わりはあるのか、死ぬまでその悪名にすがりつくしかなくなってしまうのではないだろうか。なにかと「炎上」「闇」「暴露」といった文字が過装飾されて並び、最早それなしには生きられない。コンテンツとして供給する側、受け取る側、そのどちらもがこうした「デジタルドラッグ」にやられて病んだ社会を作り上げている。

 過激な環境団体のニュースが少し前に話題になった。そのどれもが愚行としか言いようがない行為の数々で、そんな人間の言う「環境保護」などは間違いなくエゴにまみれた偽りの活動だろう。接着剤と同じだ。
 モネおじさんやゴッホおじさんの絵画に罪はない。これまで積み上げてきたものを叩き壊すこともせずに、透明な壁に守られた絵を汚すふりをすることに何の意味があるか? 児戯のような「構って欲しさ」が目の前に出た行動は、大きな結果も成果もすぐに得られないからとやけっぱちになって起こした癇癪にも似ていた。
 人間の都合を度外視すれば、地球環境は人類がいなくなればマシになるだろう。この前総人口が80億に到達した。この無数のチリのようなわたしたちがこれ以上繁殖を続けようというなら、地球の外へ生存を見出すより他ない。アルテミス計画が成功し、ゆくゆくは火星へ、そうして人を分散させる。または、核融合発電によって電力不安は解消し、充電を必要としない社会への構造変化。そのような方向性ではないかと思う。
 前述の見た目だけの活動で名を知ってもらって、そこに多少なりとも共感する者が生まれて、炎上のように偽物の議論が生じるところに価値を求める。話題にさせたもの勝ち。そうした社会で生きることの馬鹿馬鹿しさ。
 親の為に生きているように見える少年革命家はどこへ行くのだろう。小さな変化でも冒険はある。密やかにセミから生える冬虫夏草のように、枯れ葉の下で分解者として生きる壁蝨たち、誤って殺してしまった甲虫やちょっとした仲たがい、引き籠っている人たちの世界を広げる、そこからかけ離れてしまうことの違和感はきっとあるのだろう。
 子供は大人以上に人を見ている。大人は子供を軽視する。これは少しだけ長い命が世界を知った気になることの驕りでもある。勿論戒めでもあるが。

 環境破壊をしたいだけして、環境保護活動をしたいだけして、結局この地球が終わるのであれば、そのまま終わってしまうのもまた一つ。極端な行動が行きつく先は絶滅への自励振動に他ならない。人類も無常、終わりは約束されている。

 自励振動とは下記の東芝粉飾決算のグラフのようなもので、最後にはどうしようも無くなる。そうなってからようやく気付いて「ああ、やってしまった」痛い目を見ないと分からない。
 やってしまったとしても、認めない、謝らない、反省して次に生かさない。有耶無耶にしてそのまま変わらない。そのように見せられているだけという可能性もあるが、そうした尊敬のできない大人が目に付くようになった。
 良くならない社会。増える負担、現実を見ないあほらしいロジック、ずうっと昔のやり方に固執し続ける。既得権益に沈んでいく。そんなような現状が横たわっていて、生きているだけで損をしていくようなイマがある。

粉飾決算の手口で学ぶ、会計思考力 – ページ 3 – 日本実業出版社

 けれども、人間はそのようなセンセーショナルなイベントがない限り自ら変わろうと思うものは物凄く少ない。この急激な社会の変化を煽り、余裕を失ったように人々はさまよっている。本来するべきではない心配と競争を続けて、ただただ疲弊する人間達の上に立つ少数のヒト。呪われし霊長類。
 社会はヒトとヒトの間に生まれるもの。こうした個人の世界観に寄った行動が増えてしまうと、それだけ摩擦も増える。社会性動物から社会性を取り去ればそれは獣に過ぎない。わたしたちは獣憑きだ。容易く脳を喰らういきもの。

 AIを活用すれば情報は事実と妄想の境界線を容易くぼかしていく。
 こうした活動すらも多数のフェイクに埋もれ、信頼に足るものはこの身で感じる自然の中だけ、湿った土の上に横たわり、流れる水、燃え盛る火を見る。

A・タルコフスキー『ストーカー』

 今の時代に、この映画を見て「面白い」と思う人は少ない。ずるずると流れていく時間、161分もある映画をゆっくりと見る。3回ほど休憩を挟みながら、場面の流れを楽しむ。
 youtubeだって2倍速で5分以内、ファスト映画、漫画などが持て囃される時代。
 加速しているように見えて、効率的なように見えて、ただ盲になっているだけのわたしたち。それは「呪われた永遠の囚人」
 ゾーンに挑み続ける、ストーカーのようだ。

 処理できないほどの情報の中で、自分の心地よさだけが存在理由。
 都市化によって個人主義が加速していく。これまでの社会的背景があるから、それに対して少し冷たさやうしろめたさを感じ、生きづらさに繋がっている。
 一人で自分の好きなことだけして生きられる。サービスのやり取りが人との関わりになってしまったから、そのような気がしてしまう。
 一人の心地よさは分かるが、これから先を生きていくには家族や仲間といったものを大切に協力していくような形態でないと回らなくなっていくようにわたしは感じている。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火