Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

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消え去る前の小話

 前を向く。それだけで落ち込む気持ちはある程度抑えられる。しかし、俯いて進む地面はベルトコンベアのようなものである。勝手に動いて、勝手に仕事を始める。それが仕事なのかもわからず、ただ働かなければならない。働くこと以外は致命傷である。そこから離れた時、私たちは餓死する。私は自身が無能であるという俯いた世界から逃れられない。太陽が体を焼くから、熱に堪えかねて頭を垂れる。そのまま切り落としてくれよと願い、それは望まない時に落とされる。焼け死ぬか、首が飛ぶか、そのどちらも私の死である。俯いた世界からおはようございます。そこはどんな所でしょうか。なに、つまらない場所だよ。こちら側で生きるのに疲れたのです、どうしたら。駄目だ、そちらにいなさい。そんなやり取りが朝行われた。昼にもまた、似たような話が出る。ではどちらも合わないと言うのですか。いや、どちらかを選べない。……。どこにも居られないということでしょうか。それそのものが勘違いだ。それでは、丸まって俯いて前へ進むしかないのですね。それもまた決められたことだ。それだから俯いた世界観で反芻する。求めていたものはなかった。確固たる世界と呼べるものは何もない。水と油のように分離されていない。浸透圧に抵抗する。体を守るので尿素が体にある。

 人生は加速度的に変化する倍率である。9.80665倍されていく。地球の人生と金星の人生と火星の人生とエウロパの人生と、それら様々な加速で人生は変化する。

 早くしてくれ。不意に浴槽で転び腰を打つ。私はその惨めな自身を殺せと一頻り叫んだ後、それすらも虚しいことに気づき黙る。太陽はまだ私を焼かない。

 なんで今日まで生きてたんだ?

 単純な奇跡である。どうして走っているのと訊かれても、私のようなものにはそう答えるより他ない。意味や価値や目的はつまるところ自己撞着である。なんで生きて来たのか、どうして生きるのか、挿入される合理性と経済理論。個人の活動や嗜好の情報が様々もので収集され、その中で最適化された広告、コンテンツ、それ自身が個人を規定し始める。経済活動を助長するように、回せ回せ回せと情報が私達を動かす。個人の行動を知ること、サービスを受けるからと取るに足らない情報を与える。そうしたものが少なからず私達の価値、目的に生え揃い、その中で生きているような感じを抱くからそうしたものになるのだ。

 私は中央アフリカで生まれていれば混ぜ物の麻薬で腐っていっただろう私はアメリカで生まれていれば頭を撃ち抜いていただろう。

 私はただ社会に引っかかっただけの人生だ。

 経験はなく、頭でっかちに再現される世界。私は真に迫れない。頭はもう益体なしだ。消えるために生きているのだから、いつ終わらせてくれるのだろうか。死ぬには勢いと度胸がいる。結婚と似ている。子供がいる。その時私の人生は終わったのだ。次へ紡ぐことが人間を満足に至らせ、そして消えゆく。しかし私の人生はそれがないままに終わったのだ。だから気が狂うより他なく、命を経つことも出来ずにこんな場所で喚くしかない。

 様々なものから距離を取った。その自我のよりぬきの後、世界観の薄膜は更に薄く引き伸ばされる。私を包もうとしたが、包み切れない。そうやって膜の外側へ落ち込んだ先に世界はあるのだが、それは他人との重ね合わせがないが故に世界観が観測されなくなって現れるものだ。自己と世界が同一化される。それらは私達が解しようとしている世界ではない。私だけが理解している世界は畢竟宗教的な世界観を生む。そうして自己だけの中に逃げ込んで、社会を破壊する。

 その人間たちの中で生きる癖に人間らしさがない。どこか異質なものがある。それは小さな癖や言動や感情やそう生活の中でわずかに生じる差、これが反復し自励を始めそれが明確な好みや差別へと発展する。「キモい」という言葉が溢れているが、そうした単一の簡単な言葉で人を区切るのはそこに非人間化プロセスが含まれるからだ。これは人間ではないから、傷付けてもいい。なんなら対話すらもコレらの攻撃なのだから、やり返していい。殺してしまってもいい。

 そこまで苛烈ではないが、区切るという行為は自然と行われる。

 その中で、私は楽しく、愉快に生きている。区切られ、見下され、被害妄想が吐出し、物事の表層をなぞる。そう言っていなかったから、何もないから気にするようなことじゃない。HSPなどと喚いた所で、それが救いのように、免罪符のように定義されたところで、それが特別な配慮に変わることはない。私達は個人を尊重しつつ、合理性の檻の中で回らなければならない。辛さが押し付けられるから、誰もかれもが反発する。それを少しでも和らげる形に持っていけたら良いのだが。

 人間の曖昧さを明らかにし、何か明確なものとして社会に提示する行為は良いことなのだろうか。極端なものへ走るのは、都合の良い分かりやすさで動くのは、個人としても社会としても動かしやすく非常に楽な選択なのだろうが、おそらく一人一人が分かりやすさのウソと幻を判断できるようになっておかなければいけない様に思う。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火