人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

310808

消え去る前の小話

 思い込み。どうして死すら待たないのでしょうか。時間がただ早く回る、それだけで誰かで遊ぶ、ただ自己の為に、動物性の為に。待てないのだから飛びつく。待たないのだから井戸は未使用のまま壊れてなくなる。素早く答えを、素早く回れよ、生き急いでいるのではない。情報に踊らされているのだ。だから時間経過を代謝を信じない。太陽に焼かれ続ける肉の臭いを感じようとしない。消費される自死、もちろん慈悲など誰も持ち合わせていない。待てないのだから飛びつく「待て」という飼い主は存在せず、そんなものは元からなく、待つという行為が理性的だからだろうか。

 情報と距離を置くこと、人間と距離を置くこと、知らなければいけないことと知らなくてもいいことと、その結果を天秤にとって社会の外側に向かって離れ続けなければならない。ハレー彗星のような周期で遠ざかる。人間は優しいのではない、愚かなのではない、動物であること、太陽を感じること、汗をかくこと、想像すること、基本的なところを顧みなくなってしまった。ただそれだけなのだ。日本で結成するギャングのように本当に弱いのではなく、そこから足を踏み出そうとせず表現で戦わない。白兎を見たのか、見れないのか、距離を置くべきことが分からない。

 誰かが、誰かが、誰かが。そうやって暴力は振るわれそれは正しいのだと誤認している。さながらムカデ人間の続編のように、私達は他人の尻に口をつけて栄養を得ている。先頭のヤクザがチームワークを求めたとしても、尻から得た栄養では死ぬ以外にない。それらが連結された時に人間の動物らしさが一心に現れる。誰かがではなく、自分から糞を喰う感覚。それは強制されているが自立的である。もう大人なのだ、他人の尻から栄養を得るのは大人の貴方の責任なのだと。21世紀にアップデートされたゾンビの定義とは「家畜を喰うこと」であり、人間の定義は「糞を喰うこと」である。自身の糞まみれの口元を見る者は少ない。それがおいしい、それが素敵だ、それが素晴らしい。果たして黄金の糞は価値があるだろうか。一片の駄作としての鮫映画以上の価値はあるだろうか、頭を3つ5つ6つと増やして考えてみる。共食いだ、共倒れだ、自己の中にある無数の頭たちが自分自身を喰らい、どうしてネズミザメ科ばかりが出て来るのかネコザメに襲われたっていいだろうにだから私はイタチザメである。ゴミ箱である。なんだって喰らうのだ。距離はなく時間もなく胃袋に溜まっていく。

 なんだって喰らってやる。この最後の一歩を踏み出した時に恐れは捨て去れよ、脚は震え、世界を獲ったとしてその後に薬物の酩酊から太りそして最終的には表現をやめない。返り咲く、これが最後なんだこれしかないんだ、やってやると生き、多くのものを乗り越えた。たった13km強だ、しかしその距離は遠い。紛れた中で紛れずにいるからやるしかない。どこにいてもやることは変わらず、世界観の外れには誰も目を向けようとはしない。たた飛びつく。家畜を喰うことも糞を喰うことも前述の話から同義である。私達はほとんどが生きてはおらず世界を徘徊している。沢山の人間の中心に続く。自己がないのは距離が存在しないからその一歩でしかない。

 もちろん私も、もちろんこの場所も。遂には浮浪者だろう。40前後で首になる、サラリーマンは絶滅するとどこかのコラムに書いてあった。その中には投資家になれと書いてあった。見て見ろよ、やはり徘徊しているじゃないか。脳は60まで持つ。その先はタウタンパクの積載超過により意識は繰り返す記憶は取り乱すそうして世界観が固定されていく適応が見いだせなくなった人間はそれを恐れるしかしそれはやって来る。人間が減ればそれだけそんな余裕はなくなる。どちらも絶滅以外にない。回すには糞を喰わなければならない、回さなければそこから消えるだけだ。逃げられるとでも思ったか、等しく人間達は糞を喰って糞まみれの中で死んでいく。それが幸福なのだから、死の間際に家族に看取られていくことが幸福なのだから、それがない私は徘徊している。誰にも見とがめられずそこらで腐り果てる。

 待てないのは距離がないからだ。回っているのは距離がないからだ。零距離で始まった緊密な世界は広がったというのに人間には距離がない。例えば誰かの配信に集う金封付き質問は単なる権威付けであり何かの自慰でありそれらがぶつけられていくのを私達は毎日死ぬほどうんざりできるほどに見ることが出来る。誰かにしょうもない質問を投げかけるのは自信がないからか、私も自信はないが他者の回答が何かを生むことはないのだ。権威を委譲した、誰かに自身の選択を託すことほど愚かなことはない。それが生み出す小さな麻薬のようなひと時、マシュマロを一つ口に含むそんなものだ。私は何をしたいのか、という問いを立てモニタを見れば糞で出来たレッドカーペットが空虚な喜びと騒ぎを生じさせ私達は私達と近接する。息がかかるほどに、私の恐れる他者との肌のふれあいが生じてしまう距離しかない。楽しいからいいじゃないか、楽しいから、それらの距離について考えている。私達が自身の目を眩ませるとき、それらが現実を把持しようとせず自らの世界観で構造代謝を続ける。そうして腐敗が生じる。回転は自己だけで生じるのではない、他者との距離が回転を生む。それらがない私は静止しかけている。死すら金に変換される。人間が資本化する。それは距離がなくなったから。緩やかに繋がることはほとんどなく、緩やかに生きられる社会は来ず、逃げない。やってやるしかない。震える脚で、ステージに立てば声は出ず、不評の嵐の中でやはり踏み出す。言葉を並べろ、行動をばらまけ、そうして距離を置くしかないのだ。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火