Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

300999

消え去る前の小話

  ナルシシズム私を救うなど有り得ない。自分を誇らしく思うこと。よくうぬぼれと一緒に評価されるが、他者の承認が植え付けられている、それが自己のアイデンティティを確立するものであるから。自己愛性パーソナリティ。ナルシスが自身の美しさによって傲慢な働きをしたがために池に映る自分と友達になろうとした。その結果が餓死である。水仙の咲く水辺に私は立つ。花を一つ手折り池に浮かべた。それは守るものだったがそれらを咲かせるのもまた太陽である。太陽賛美こそが私を救う。今日もバスルームの小さな太陽に首を垂れる。承認されなければ、表現をするものであれば承認されなければいけない。誰かのコメントが営業利益と共に流れていった。大多数の承認、無数の空虚な通知欄のバッジ。そんなもので自己のアイデンティティが確立されるのであれば、人間は容易いな? されていないから、嘘を並べてバズって悦び宣伝などをしている。うふふどうもこんばんはアルファツイッタラーです。帰れ帰れ素に帰れ。単なるヒトペーパーの枚数が宙に舞ってはそれを喜ぶ人たち。私は太陽に首を垂れる。それより他に必要なものなどはないのだ。承認の空を穿ち、光を注ぐ。太陽風が全てを吹き飛ばし人間の元々の容を顕わにする。人間とはとにかく個となっているような妄想を抱く、私達は群である。個であろうとすれば社会の外側を散歩する。

 社会の外側を歩くとき、それはどこになるのだろうか。私は太陽に照らされ、唯一の乾燥した道を行く。ひび割れた砂地に水がしみこむことはない。太陽を賛美するのだから、その下には焼け付く地面、私の焦げた指が崩れる。そこを歩けばそれは人間の外側でもある。勝手に他人を化物扱いしてはならないが、疎外され生贄として機能する巫女は社会の外側に存在しているだろう。統合性失調症特有の霊感と予言を幾つか漏らし、それは社会の外側、神話から現在に至るまでそれらは都合の良い社会の操作と理解に消費される。都合が悪ければ生贄だ。外側だから、彼らは人間でない。他人を非人間化するのは人間そのものなのだ。私達と違うのだからここから出て行け、という行為は非人間化を端に発する。そうして外側が切り開かれる。構造腐敗の膿を除き、代謝を続けるためには外側を切り開かなければならないがそれが出来る人間は数少ない。私は太陽に焼かれる。それが信仰だから、それらを持って焦げ果てた私が救われる。勿論これは比喩的な意味でそんなものはなく救われるというのは迷路に迷うことよりタチが悪いがそれは私を含めた信仰の彼らが迷路の壁を破壊して回るからだ。信仰とはそれ以外の破壊である。社会の外側に至る為の破壊である。

 破壊は必要な行為なのだ。私達が循環する転回する溢れ喚き叫び散らす全てのものは破壊を伴いそれらからまた循環する転回する狂乱の螺旋と生きよ生きよ積み上げよと人間すらも破壊し社会は葬生し適応し馴染み腐りそして破壊されそれらがこの大気が吹き飛ばされるまで延々と怨怨と続けられる。これが人間これが肉と皮を選んだ人間の世界動物の世界である。破壊は私達の循環を支える。循環は私達へ破壊を導く。今の時世に生じている様々な皮を被った破壊行為とは社会の破壊を推し進める流れに他ならない。人間は破壊なしには循環できぬのだから、構造代謝と構造腐敗は実際のところ同じものだ。代謝され続ければ破壊に至るのが肉体であり、代謝が誤った方向へ進めば破壊に至るのが肉体であり、それは老衰と悪性新生物による死がどちらも同じ死として現れてくるようなものである。破壊のない所に社会も人間もない。この世界すらない。私はこの社会から外側に至る為の破壊を止めることはない。この身に張り付いた暴力が前頭葉を破壊せしめ感情のタガが決壊している。その氾濫する感情のうねり波崩れ落ちる海に身を任せ、その中で太陽に照らされた焼け焦げた大地を歩く。感情とは海、信仰とは大気、この踏みしめる地面は社会と自我の架け橋である。喰らわされたのは土塊。土塊たちが体によじ登る。彼らは破壊とは関係がない、土塊たち。この土塊たちがかつて私が目指した者達である。荒々しく焦げた腕を振るいそれらを大地に還してやる。

 私は社会の外側を歩こうとしている。土塊たちの声は寂し気に乾燥した大地に響き渡りその声は社会が破壊されていく音でもある。社会は人間の循環とそれらを小さく支える土塊たちで成り立っている。循環が覚束ないのは成熟後に老衰を進んでいるからだが、その時に現れる信仰は悪性新生物にも似た破壊を伴う。

 忘れてはならない。耳心地の良い言葉の羅列の先に何があるのかを考えなければならない。レジ袋、環境、差別、平等、暴力、平和、様々な「おためごかし」が善い事の皮を被る。これらは破壊に他ならない。破壊とは笑顔と善意から来る。レガシーな暴力恫喝諭しの先に作られた循環は変容した適応したそうして人間の容すら変わりつつある。私はそこから取り残された人間だからその社会の外側に至る為の破壊をただ個人でやっているだけのなにかである。社会に打ち込まれた様々なものを抜き去ることも出来ず他の破壊の中に沈み苦しめればそれはただ生きているだけである。それはただ生きているだけである。楽しめよニヒリズムそんなものがあればよかったのだがそれを把持できなかったのだ。だからこうして太陽信仰を振りかざし地下室の文章をここに構築する。

 私にあるのは構造破壊である。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火