Katsute_no_kigouのブログ

弱さの発露として世界を語ろう。それが遺書である。

人間の世界と私の構造は常に重ね合わされる。

310999

消え去る前の小話

 弱さの構造代謝は常に穿たれている。私達が弱弱しく不安で狂乱に苛まれそうになった時に作り上げる疑似理論は単なる反発で論理性はなくただただセンセーショナルな言葉とイメージばかりが先行し私達の正しさを構築する機会が奪われてしまう。ただ見せ付けられる性犯罪と性嫌悪による恐れが増長した結果が何を生み出したのかを考えれば私達はそれらが承認欲求と様々な空虚な<いいね>に囲まれていることは自明なのだ。自分の社会的価値を担保したい。自分は価値ある人間だ。正しさ、社会のルールを構築すればいい、構造を代謝させなければならない。それが人間の民主主義の社会性の幸福に至る為の唯一の手段なのだから。しかしそれは感情を上手く理論づけ私達がどのような活動を行いどのような結論を導けばいいのかをじっくりと調査と精査を積み重ねなければならない。正しさを見誤ればそれらはこれまであった失敗の全てに組み込まれる。そしてまた、疑似議論が過去にあった暴虐、支配、粛清などの行為に紐づけ、物事に靄をかけて誤魔化すようになる。藁人形論法で形だけ議論をして言い負かしたように見せかけ本当に大切なことを見失う。これらの行為の行き先を考えると大部分が<攻撃>大多数が攻撃性を持っている。攻撃性を持っているのは大抵が「自分の思い込みの世界観が棄損された時」でそれらは他人には全く無価値のなにかであると認識できないから。どうして傷つけるどうしてなにも分かってくれない。これだけ大変な思いを、この世界に傷がついたんだよと思いそれは間違っている。適応出来ないのではなく私達はこの社会を良くするために私達の世界観がルールにならなければいけない。そんな風に思うから今が間違っていると声高に主張する。私達は弱者で攻撃されているから攻撃しかえす権利があるだから理論の元にあるのはこの現在の場<社会>を攻撃するための理論だ。それらの行為が全て通った時にこの社会は良くなるか、といったものを想像すると人間らしさとちょっとした自由の獲得。皆で協力し合って生きていく社会への構造代謝とは異なり構造腐敗を催すことになる。そしてまた構造腐敗はその場を攻撃するのに使われる。この社会を攻撃してどうなるのか、構造代謝について考え続けるといったことが大切にも関わらずそれらはこの現代が武力行使による戦いから変わったことも一つの要因ではないかと私は考えている。弱さの構造代謝は構造腐敗を引き起こす。

 こうした活動と個々の人の善さはあまり関係がない。活動とは別だ。

 弱さの構造代謝を考えればそれは対話と傾聴が一つの対策として提示される。実存か夢かメンタルヘルスの重要性が低いからというのもある。精神病を患えば仕事への支障は大きい。だからそうなってしまう前に対応しておく必要があるのだが、それらはあまり重要視されない。誰だって何を言えばいいか分からない例えるならうつ病に対して「大丈夫?」と声をかけてはならないとか幻覚と幻聴に対して被害妄想が酷いからと一般的それなりに現在用意されている道の上で歩ける人間には想像が難しいし仕事で重要視されるのは自身が仕事に対してどれだけの付加価値を付けることが出来るのかと言った話であって個々に対する傾聴はそれ以外でどうにか都合をつけるしかない。仕事仲間との協力と改善は仕事だけの話であって雑談に興じるのも仕事を円滑に進める為。社会との繋がりは仕事だけではなく、その仕事ではない部分が満たされないというのが弱さの構造として深く根を張っている。それがパートナーを見つけることとは言わないが、いわゆるおじさんというものはこの社会に生存するにおいて一人でいるのがあまり推奨されていない。この社会が単純に年齢差別の激しいものであり、それをメディアがこまごました所で助長しているんじゃないかと思えてくる。いい年して、アニメーションに夢中になる。いい年して漫画・小説に夢中になる。いい年して結婚もしていない。といった様々なステレオタイプが世間に溢れている。最近は少し弱まってきたかもしれないが、そうした面が生き辛さを増していく。

 既にレガシーであり、手垢の付いた思想のフェミニズムに触れておこう。この概念は大まかにいえば<性差別に影響されず万人が平等な権利を行使できる社会の実現>と私は認識している。①性差別に影響されず②万人が平等な権利を行使できる社会。①の差別をどの領域まで指すのか私には一般的な定義は分からないが、差別とは特性により特別な扱いをすること。例を挙げれば医科大学の入試に男性のスコアを上乗せするとか、そういったことが性差別に当たる。勿論それらは男性と女性で変わることはない。私達は機会の平等が担保された社会を作らなければならない。話は変わるが女性の社会進出のために女性管理者を増やそうと数字だけ追った場合、そこには性別という特性によって特別な扱いをすることになってくる。会社や管理者を据える時求められるのは適切な労務管理、チームやグループの方向付け、どうすれば利益の最大化を図れるような組織にするかといった課題解決や付加価値の向上を狙いそれが出来る者を管理者とする。そしてここには性別は関係なく、ただ先に挙げたような要素を満たすことのできる人間が選ばれる。単にそれだけの話だ。(もちろん人なので好みや人間性も加味されるが)その中で単純に特定の性別の管理者が少ないからといってその能力を満たす者がいないにも関わらず、管理者に据えてしまえば業績が下がってしまう。利益を追求することで成り立つ会社が成り立たなくなる可能性に繋がる。また、特定の性別だけ電車に乗ることが出来る、バスに乗ることが出来る。こうした事例は正にアパルトヘイトと変わりはなく、万人が平等な権利の行使を阻害してしまう。そして、フェミニズム(と自称する)に関する言動を簡単に見ようとすればSNSが手っ取り早いが、そこで溢れる言葉の数々は①②の概念を到底満たしているとは思えない言葉ばかりで、むしろその反対の立場を取っていることが多くまたその発言をしているのは女性側だ。男性は性差別を受けていないような構図で、女性だけが何かしら棄損されていると語られている。……マッチョイズム的打ち込みが器官なき身体を震わせる。

 行き場のない憎しみ。善がここには存在しない。行き場がないから。

 考え得るにもうおおよそのフェミニズムは社会構造に組み込まれており、弱さの構造代謝を引き起こしているだけなのだ。様々な性差別に関わる問題が明るみに出て正される。性差による機会の平等に差をつけてはならないから。しかし構造腐敗が生じているのはこの社会がポリティカル・コレクトネスという活動を重視し、それらによっていかなる性別や人種によって差別されない世の中を実現しようとするに当たって、差別をさせないのではなく差別を隠そうとしている点や、行き過ぎた活動の結果逆差別を生み出している現状があるからだ。何故、黒人の足を洗えば差別がなくなるのだ。何故、女性も人間だなど化粧を否定するのか。何故、臭いものに蓋をしなければいけないのか。私はその理由を探している。SNSが情報を希薄化させ、ただただセンセーショナルな言葉だけが流言飛語し本当に大切にしなければならないことが見捨てられている。私達がつながるべきはこうした形ではないというのに、そうした形でしか人間を理解できない、想像できない。レースクイーンを廃止するのは職業に貴賤有りと、そうした行為が何か悪い事の様に蓋をされていく。性を売りにすれば搾取だと言い、それは人間の有り様ではない。ただただ、人間が動物であることを忘れ、ヒステリーの様に生じているのが弱さの構造代謝である。インセルやMGTW、それらに類する者達が差別主義を掲げるのも、それらを排除しなければそれらに蓋をしてみない様にしなければとその弱さ故の構造代謝が生じた結果構造腐敗を引き起こしてしまったのだ。

 これらの活動がヒステリックで異様なものだと誰もが言えない。

 思想の構造腐敗はこの社会をよりよいものへは導かない。これらは様々な文化をも攻撃する。それらが正しくないと信じているから、人間の薄っぺらい正義も差別もしょうもないことなのだ、ただ皆が楽しく善く生きるというのを実践することがない。ただ攻撃する。その先が善いものなのか、それを考えて見ている者はほとんどいないように感じる。何故ならそこから感じるのは怨嗟で怒りで憎しみで人間の攻撃性の発露でしかないから。その攻撃性を覆い隠す思想は構造腐敗が生じている。しかしながら様々な社会的スティグマが取り巻く中で、細分化すれば相貌、身長、体重、性別、病、人種、思想、、、とキリがない。美しいから、身長が高いから、そう言った面が感情の下駄を履かせる。恐らくこれら全てを差別と見て細かく行動を制限するのは不可能だ。VRで素敵なアバターを手に入れて喋る。それで生活する。ということが出来るのであれば、少しは異なるかもしれないがこの辺りに生じる感情のグラデーションを一つ一つ決めずとも穏やかに共生できる社会が望ましいのだ。全てをこうだ、と人間の感情と密接に関係している部分を定義したとしても、それに沿ったマニュアル書然とした私達が生まれるだけで、そこから外れた者を糾弾する。結果、歪な正義の社会が構造化されどこかで崩壊する。

 私達は崩れ去った。盲になることを選んだからだ。

 次回があるとすれば、人間の攻撃性と構造腐敗についての考えを深める。

世界観と構造代謝の最中に消えゆく灯火